318・宮本武蔵「空の巻」「入城符(2)(3)」


朗読「318空の巻59.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 43秒

なに柳生やぎゅうどのへ」
 役人やくにんは、ちょっと、鼻白たじろんでだまった。
 武蔵むさしは、おかしくおもった。柳生家やぎゅうけとは、われながら、いみじくもおもいたものだと自分じぶん感心かんしんする。
 かねて大和やまと柳生やぎゅう石舟斎せきしゅうさいとは、面識めんしきはないが、沢庵たくあんつうじて相知あいしなかである。あわせられても、
(そんな人間にんげんらぬ)
 とは柳生家やぎゅうけでもこたえまい。
 ひょっとしたら、その沢庵たくあん江戸表えどおもてているようながする。石舟斎せきしゅうさいには、ついに、面謁めんえつげず宿望しゅくぼう一太刀ひとたちあわせなかったが、その嫡子ちゃくしで――かつ柳生流やぎゅうりゅう直流じきりゅうけ、秀忠将軍ひでただしょうぐん指南しなん就任しゅうにんしてている但馬守宗矩たじまのかみむねのりには、ぜひとも、いもしたいし、試合しあいけてみたい。
 そう、日頃ひごろからおもっていたのが――おもわずさきかのように、木戸役人きどやくにん質問しつもんてしまったのである。
「いや、それでは、柳生家やぎゅうけ御縁故ごえんこのあるおかたでござったか。……失礼しつれいいたした。何分なにぶん、うろんなさむらいどもが、御府内ごふないはいむため、牢人方ろうにんがたれば、一際ひときわ厳密げんみつ取調とりしらべをようす――という上司じょうしからの厳達げんたつなので」
 役人やくにんは、こう言葉ことば態度たいどもあらためて、あと調しらべは、ほんの形式けいしきだけですまし、
「おとおりなさい」
 と、木戸口きどぐちからおくった。
 伊織いおりあとからいてて、
先生せんせい、なぜさむらいだけ、あんなにやかましいんだろ」
敵方てきがた間者かんじゃそなえてであろうな」
「だって、間者かんじゃなら、牢人ろうにんのふうなんかして、とおるもんか。お役人やくにんって、あたまがわるいね」
きこえるぞ」
「たったいま渡船わたしちまったよ」
あいだ富士ふじでもながめておれというのだろう。――伊織いおり富士ふじえるぞ」
富士ふじなんて、めずらしくないや。法典ほうてんはらからだって、いつもえるじゃないか」
「きょうの富士ふじはちがう」
「どうして」
富士ふじは、一日いちにちでも、おな姿すがたであったことがない」
おなじだよ」
ときと、天候てんこうと、場所ばしょと、はるあきと。――それともののその折々おりおり心次第こころしだいで」
「…………」
 伊織いおりは、河原かわらいしひろって、水面すいめんってあそんでいたが、ひょいとんでて、
先生せんせい、これから、柳生様やぎゅうさまのお屋敷やしきくんですか」
「さあ、どうするか」
「だって、あそこで、そういったじゃないか」
一度いちどは、くつもりだが……先様さきさまは、大名だいみょうだからの」
将軍家しょうぐんけ御指南役ごしなんやくって、えらいんだろうね」
「うむ」
「おらもおおきくなったら、柳生様やぎゅうさまのようになろう」
「そんなちいさいのぞみをつんじゃない」
「え。……なぜ?」
富士山ふじさんをごらん」
富士山ふじさんにゃなれないよ」
「あれになろう、これにろうと焦心あせるより、富士ふじのように、だまって、自分じぶんうごかないものにつくりあげろ。世間せけんびずに、世間せけんからあおがれるようになれば、自然しぜん自分じぶんうちはひとがきめてくれる」
渡船わたしぶねたよ」
 子供こどもは、ひとおくれるのがきらいだ。伊織いおりは、武蔵むさしをさえてて、さき乗合のりあいふなべりうつった。

 ひろところもあれば、せまところもある。かわなかにはもあるし、ながれのはやえる。なにしろ当時とうじのすみだがわは、自由気じゆうきままな姿すがたであった。そして両国りょうごくはもううみちか入江いりえであり、なみたかは、濁流だくりゅう両河岸りょうかしひたして、平常ふだん二倍にばいにもえる大河たいがになった。
 渡船わたしぶねさおは、ガリガリと、川底かわぞこ砂利じゃりいてゆく。
 そらんだは、みずって、ふなべりからさかなかげのぞかれた。あかびたかぶと鉢金はちがねなどが、小石こいしあいだうまっているのもままえた。
「どうだろう、このまま天下泰平てんかたいへいおさまるものだろうか」
 渡船わたしなかはなしである。
「そうはくめえなあ」
 と、ひとりがいう。
 そのれが、れのもの言葉ことば裏書うらがきして、
「いずれ、大戦おおいくさ。――なけれやそれにしたことはねえが」
 はなしは、はずみかけてはずまなかった。なかには、よせばいいにというかおしてみずているものもある。役人やくにんみみこわいからだった。
 だが、おかみこわみみかすめながら、民衆みんしゅうはそういうものれるのをこのむ。わけもなくただこのむのである。
「その証拠しょうこには、ここの渡船わたしぶね木戸調きどしらべでもそうだ。こう往来おうらいあらためがきびしくなったのは、つい近頃ちかごろのこったが、それというのも、上方かみがたからどしどし隠密おんみつはいんでいるからだといううわさだぜ」
「そういえば、このごろ大名屋敷だいみょうやしきへよくはいる盗賊とうぞくがあるそうだ。――外聞がいぶんれては、っともないので、はいられた大名だいみょうみなくちいているらしいが」
「それも、隠密おんみつだろうぜ、いくらかねしいやつでも、大名屋敷だいみょうやしきなどは、生命いのちててかからなければはいれねえところだ。ただの泥棒どろぼうであるはずはねえ」
 渡船わたしぶねきゃく見渡みわたすと、これは江戸えど一縮図いちしゅくずといっていい。鋸屑おがくずけている材木屋ざいもくや上方流かみがたながれの安芸人やすげいにん肩肱かたひじっている無法者むほうもの井戸掘いどほりらしいひとかたまりの労働者ろうどうしゃ、それとふざけている売笑婦ばいしょうふ僧侶そうりょ虚無僧こむそう――そして武蔵むさしのような牢人者ろうにんもの
 ふねくと、それらの人々ひとびとがぞろぞろと、ながれになって、きしがってく。
「もし、御牢人ごろうにん
 武蔵むさしいかけておとこがあった。ると、ふねなかにいたのずんぐりした無法者むほうもので――。
「おわすものをなすったろう。こいつあ、おめえさんのひざからちたんで、ひろってたが」
 と、赤地錦あかじにしきの――といってもあまりにふるびて金襴きんらんひかりよりは、垢光あかびかりのほうがよけいにする巾着きんちゃくみみつまんで、武蔵むさしかおまえした。
 武蔵むさしは、かおって、
「いや、てまえの所持品しょじひんではありませぬ。だれぞ、ほかの乗合のりあいしゅうものでござろう」
 いうと、その横合よこあいから、
「ア、おらのだ」
 と、無法者むほうものから、いきなりそれをって、懐中ふところ仕舞しまったものがある。
 武蔵むさしそばにいると、あまりちがいがあるので、よくないとがつかないほどちいさい、伊織いおりであった。
 無法者むほうものは、おこった。
「やいやい、いくらてめえものだってれいもいわずに、くるというやつがあるか。もいちど、いま巾着きんちゃくせ。あらためてさんべんまわってお辞儀じぎをしたらえしてやるが、さもなければ、かわなかへ、たたんでしまうから」