317・宮本武蔵「空の巻」「卯月の頃(5)入城符(1)」


朗読「317空の巻58.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 38秒

 あの時以来ときいらい
 土匪どひらし、むら治安ちあん強固きょうこになり、めいめいの生活せいかつ平和へいわかえると、だれひとりこの地方ちほうでは、武蔵むさしてにするものはなかった。
 ――法典ほうてん御牢人おろうにんさま。
 とか、または、
 ――武蔵むさしさま。
 とか敬称けいしょうして、いままで狂人きょうじんあつかいにしたり、悪口わるくちたたいたものも、かれ開墾小屋かいこんごやて、
(わしにも、お手伝てつだいをさせてくだされ)
 というように、かわってしまった。
 武蔵むさしは、だれにも平等びょうどうに、
(ここへ手伝てつだいたいもの手伝てつだえ。ゆたかになりたいものい。自分じぶんだけってぬことは鳥獣とりけだものもする。すこしでも、子孫しそんのために、自分じぶんはたらきをのこしてこうとするものはみんない)
 そういうとたちまち、
(わしも、わしも)
 と、かれ開墾地かいこんちには、日々四ひびし五十人ごじゅうにんずつ、手空てすきのものあつまった。農閑期のうかんきには、何百人なんびゃくにんて、こころあわせて、荒地あれちひらいた。
 その結果けっか去年きょねんあきには、いままでの出水でみずもそこだけはふせめ、ふゆにはつちたがやし、はるには苗代なわしろ種子たねみずき、この初夏しょかには、わずかながら新田しんでん青々あおあおいねもそよぎ、あさむぎ一尺いっしゃくびていた。
 土匪どひなくなった。むらものをそろえてよくはたらした。わかものおやたちや女房にょうぼうたちは、武蔵むさしかみのようにしたい、草餅くさもち初物はつもの野菜やさいができると、小屋こやはこんでた。
来年らいねんは、はたけも、このばいになるぞ。そのつぎとしには、三倍さんばいになる)
 とかれらは、土匪征伐どひせいばつむら治安ちあん信念しんねんつとともに、荒地あれち開墾かいこんにも、すっかり信念しんねんった。
 その感謝かんしゃあふれから、村民そんみんたちは、一日仕事いちにちしごとやすんで、小屋こや酒壺さけつぼをかついでた。そして、武蔵むさし伊織いおりいて、さと神楽かぐら太鼓たいこふえをあわせて青田祭あおたまつりをしたのであった。
 そのとき武蔵むさしがいった。
「わしのちからじゃない。おまえたちちからだ。わしはただ、おまえたちちから引出ひきだししてやっただけのものじゃ」
 そして、そのまつりにあわせていた徳願寺とくがんじそうへ、
「わしのごとき、一介いっかい漂泊士ひょうはくしを、みなたよりにしていては、すえこころもとない。――いつまでも、いま信念しんねん一致いっちよりもどらぬように、これを、こころまととしたがよかろう」
 と、一体いったい木彫きぼり観世音かんぜおんつつみからしてさずけた。
 その翌朝よくあさ――てみると武蔵むさしはもう小屋こやにいなかった。伊織いおりれて、さきげず、夜明よあまえに、何処どこかへ旅立たびだったものとえ、旅包たびづつみもなかった。
武蔵むさしさまがいない!」
「どこぞへ、えてしまいなすった――」
 土民どみんたちは、慈父じふ見失みうしなったように、そのは、仕事しごとにつかず、ただかれのうわさと哀惜あいせきれたほどだった。
 徳願寺とくがんじ一僧いちそうは、武蔵むさしのことばを、おもあたって、
「それでは、あのかたにすむまいぞ、青田あおたらすな。はたけやせ」
 と、一同いちどうはげました。そして小屋こやのそばに、ちいさいどうつくり、そこへ観音像かんのんぞうおさめると、土民どみんたちは、いわれるまでもなく、朝夕仕事あさゆうしごとにかかるまえ仕事しごとおわったあとには、武蔵むさし挨拶あいさつするように、かならずそこへぬかずいた。
 ――そうはなしはそれでおわった。だが、長岡佐渡ながおかさどいはいつまでも、むねんで、
「……ああおそかった」
 卯月うづきよるは、草靄くさもやにぼかされてた。佐渡さどは、むなしくこまかえしながら、
しいことをした……こういう怠慢たいまんは、ひとつの不忠ふちゅうおなじこと。……おそかった、おそかった」
 何度なんどくちのうちでつぶやいた。

入城府にゅうじょうふ

 両国りょうごくという地名ちめいはし出来できてからあとのことである。まだ両国りょうごくばしも、そのころはなかった。
 けれど、下総領しもうさりょうからみちも、奥州街道おうしゅうかいどうからわかれてみちも、のちはしけられたあたりへて、大川おおかわあたっていた。
 わたには、関門かんもんんでよいくらいな、きびしい木戸きどがあった。
 そこには、江戸町奉行えどまちぶぎょう職制しょくせいができてから、はじめての初代町奉行しょだいまちぶぎょう青山あおやま常陸介忠成ひたちのすけただなりものが、
て」
「よろしい」
 などと、いちいち通行人つうこうにんあらためをしていた。
(ははあ、だいぶ江戸えど神経しんけいも、とがっておるな)
 と、武蔵むさしはすぐおもった。
 三年さんねんまえ中山道なかせんどうから江戸えどあしれて、すぐ奥羽おううたびむかったとき、まだ、この都市とし出入でいりはさほどでなかった。
 それが、急激きゅうげきにこう厳重げんじゅうになったのはなぜか?
 武蔵むさしは、伊織いおりれて、木戸口きどぐち順々じゅんじゅんならんでいるあいだかんがえた。
 都市とし都市としらしくなってると必然ひつぜんに、人間にんげんえる、人間にんげんなか種々さまざま善業悪業ぜんぎょうあくぎょう相剋そうこくう。制度せいどる、制度せいど法網ほうもうくぐほう活溌かっぱつになる。そしてさかえをいの文化ぶんかてながら、その文化ぶんかもとで、もうあさましい生活せいかつ慾望よくぼうみどろで地上ちじょうう。
 それもあろう。
 がまた、ここが徳川家とくがわけ将軍所在地しょうぐんしょざいちとなるとともに、大坂方おおさかがたたいする警戒けいかいも、して厳密げんみつようするのであろう。――なにしろ大川おおかわへだててても、このまえ武蔵むさし江戸えどとは、家々いえいえ屋根やねえていることや、みどり目立めだってっていることだけでも、隔世かくせいかんがあった。
御牢人ごろうにんは――?」
 そうばれたときは、もう革袴かわばかま穿いた二人ふたり木戸役人きどやくにんに、武蔵むさしは、懐中ふところからこしの――からだじゅうをでまわされていた。
 べつな役人やくにんが、そばからきびしい詰問きつもんした。
御府内ごふないへ、何用なにようびてかっしゃるか」
 武蔵むさしはすぐこたえた。
何処どことて、あてもなくある修行者しゅぎょうしゃでござる」
あてもなく?」
 と、とがてして、
修行しゅぎょうするというあてがあるではないか」
「…………」
 苦笑くしょうせると、
生国しょうごくは?」
 と、たたみかける。
美作みまさか吉野郷宮本村よしのごうみやもとむら
主人しゅじんは」
ちませぬ」
しからば、路用ろようそのほか出費しゅっぴは、だれからけておらるるか」
ところでいささか余技よぎ彫刻ちょうこくをなし、などをき、また寺院じいんとまり、ものがあれば太刀技たちわざもおしえ、人々ひとびと合力ごうりょくってたびしておりますが……それもないときには、いしにもし、くさろうておりまする」
「ふーム……。で、いずれからおしなされた」
陸奥みちのく半年はんとしあまり、下総しもうさ法典ほうてんはらに、百姓ひゃくしょう真似事まねごとして、二年にねんほどをごし、いつまで、つちいじりもとぞんじて、これまで、まいってござります」
れのわっぱは」
同所どうしょひろげた孤児みなしご――伊織いおりもうし、十四歳じゅうよんさい相成あいなります」
江戸えどとまさきはあるのか。無宿むしゅくもの縁故えんこのないものは、一切入いっさいいれぬが」
 りがない。うしろにはもうたくさんな往来人おうらいにんがつかえている。素直すなおこたえているのも莫迦ばからしく、ひとにも迷惑めいわくかんがえて、武蔵むさしこたえた。
「あります」
何処どこの、だれか?」
柳生やぎゅう但馬守宗矩たじまのかみむねのりどの」