316・宮本武蔵「空の巻」「卯月の頃(3)(4)」


朗読「316空の巻57.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 20秒

 若侍わかざむらいなかじって、競射せりいあせをながしている細川忠利ほそかわただとしは、やはり一箇いっこ若侍わかざむらいとしかえないほど無造作むぞうさ姿すがただった。
 いま一息ひといきついて、なに侍臣じしんたちと哄笑こうしょうしながら、弓場ゆみばひかえて、あせぬぐっていたが、ふと老臣ろうしん佐渡さどかおかけて、
じい、そちも一射いっしゃためしてみないか」
 と、いった。
「いや、このお仲間なかまでは、大人おとなげのうて」
 と、佐渡さどたわむれると、
なにをいう。いつまでわしたち角髻あげまき子供こどもおって」
「されば、てまえの弓勢ゆんぜいは、山崎やまさき御合戦ごかっせんおりにも、韮山城にらやまじょう城詰しろづめおりにも、しばしば大殿おおとの御感ぎょかんにあずかった、きわめつきのゆみでござる。的場まとばのお子供衆こどもしゅうなかではおなぐさみになりませぬ」
「はははは、はじまったぞ、佐渡さどどののご自慢じまんが」
 侍臣じしんたちがわらう。
 忠利ただとし苦笑くしょうする。
 はだれて、
なにようか」
 忠利ただとしは、真面目まじめかえった。
 佐渡さどは、公務こうむ用向ようむきを、ちょっとみみれて、そのあとで、
岩間角兵衛いわまかくべえから、だれ御推挙ごすいきょ人物じんぶつがあるよしでございますが、そのじんを、御覧ごらんになりましたか」
 と、たずねた。
 忠利ただとしは、わすれていたらしく、いやと、かおったが、すぐおもして、
「そうそう。佐々木小次郎ささきこじろうとかいうものを、しきりと、推挙すいきょしておったが、まだておらん」
御引見ごいんけんなされてはいかがでござりますな。有能ゆうのう人物じんぶつは、諸家しょけでも、あらそって高禄こうろくをもってさそいますゆえ」
「それほどなものかどうか?」
「ともかく、一度いちど、お召寄めしよせのうえで」
「……佐渡さど
「は」
角兵衛かくべえに、口添くちぞえをたのまれたかの」
 と、忠利ただとし苦笑くしょうした。
 佐渡さどはこのわか殿との英敏えいびんっているし、自分じぶん口添くちぞえが、けっしてその英敏えいびんくらますものでないこともわかっているので、ただ、
御意ぎょい
 と、いってわらった。
 忠利ただとしはまた、弓掛ゆがけめて、侍臣じしんからゆみ受取うけとりながら、
角兵衛かくべえ推挙すいきょいたした人物じんぶつようが、いつか、そちが夜話よばなしにもうした、武蔵むさしとかいう人物じんぶつ一度見いちどみたいものだな」
 といった。
若殿わかとのには、まだご記憶きおくでございましたか」
「わしはおぼえておるが、そちはわすれておったのではないか」
「いや、そのあとはついぞ徳願寺とくがんじへも、もうでるおりがございませぬために」
一箇いっこ人材じんざいもとめるためには、せわしいようはぶいてもくるしゅうあるまい。他用たようついでになどとは、じいにもあわぬ横着おうちゃくな――」
おそれいりました。したが、諸方しょほうより御奉公申ごほうこうもうしたいと、御推挙ごすいきょおおところ、それに若殿わかとのにも、おながしのようでござりましたゆえ、ついおみみれたまま、おこたっておりましたが」
「いやいや、余人よじん眼鏡めがねなららぬこと、じいで、よかろうというその人物じんぶつ。わしも心待こころまちにしていたのじゃ」
 佐渡さどは、恐縮きょうしゅくして、藩邸はんていから自分じぶんやしきかえると、すぐこま支度したくをさせ、従者じゅうしゃもただ一人連ひとりつれたきりで、葛飾かつしか法典ほうてんはらへいそいだ。

 こよいは、とまっていられない。すぐってすぐかえるつもりである。こころくので、徳願寺とくがんじにもらず、長岡佐渡ながおかさどは、こまはやめた。
源三げんぞう」と従者じゅうしゃかえりみて、
「もはやこのあたりが、法典ほうてんはらではないかの」
 供侍ともざむらい佐藤源三さとうげんぞうは、
「てまえも、そうかとぞんじますが――まだここらには、御覧ごらんとおり、青田あおたえますから、開墾かいこんしておる場所ばしょは、もそっと、おくではございますまいか」
 と、こたえた。
「――そうかの?」
 もう徳願寺とくがんじからかなりている――これよりおくへすすめば、みち常陸路ひたちじへかかってしまう。
 れかけた――青田あおたには、しろさぎが、こなのようにこぼれたりったりしている。河原かわらのへりや、おかかげや、ところどころに、あさわっている。むぎそよいでいる。
「おお、御主人様ごしゅじんさま
「なんじゃ」
「あれに沢山たくさん農夫のうふがかたまっておりますが」
「……ム? ……なるほど」
たずねてみましょうか」
て。なにをしているのか、かわがわるにぬかずいて、おがんでおる様子ようすではないか」
「ともあれ、まいってみましょう」
 源三げんぞうは、うま口輪くちわをつかみ、河原かわら浅瀬あさせぶみしながら、主人しゅじんこまをそこへみちびいた。
「これ、百姓ひゃくしょうたち」
 こえをかけると、かれらはびっくりしたをして、れをくずした。
 ると、そこに一箇いっこ掘建小屋ほったてごやがある。また、小屋こやよこには、とり巣箱すばこほどな、ちいさい御堂おどう出来できていて、かれらは、それをおがんでいたのだった。
 一日いちにち労役ろうえきえた土民どみんたちは、およそ五十名ごじゅうめいもそこにいた。めいめいがもうかえ間際まぎわであったらしくあらった道具どうぐたずさえていた。そしてなにかがやがやいっていたが、そのなかから一人ひとりそうて、
「これはこれは、誰方どなたかとぞんじましたら、お檀家だんか長岡佐渡様ながおかさどさまではございませぬか」
「おう、おぬしは、昨年さくねんはるむらさわぎのあったおり案内あんないたれた徳願寺とくがんじ僧侶そうりょじゃの」
「さようでござります。今日きょうもご参詣さんけいでございましたか」
「いやいや、ちとおもってきゅう出向でむいてたまま、すぐにこれまでまいったのじゃ。――早速さっそくたずねたいが、そのおり当所とうしょ開墾かいこんしていた牢人ろうにん武蔵むさしもうものと――伊織いおりというわっぱは――いまでも健在けんざいかの?」
「その武蔵様むさしさまは、もうここにはいらっしゃいませぬ」
「なに、いない?」
「はい、つい半月はんつきほどまえに、ふと何処どこかへ、っておしまいになりました」
なんぞ、事情わけでもあって、退いたのか」
「いえ。……ただそのだけはみなしゅう仕事しごとやすんで、このようにみずばかりていた荒地あれちが、青々あおあおと、新田しんでんかわりましたので、青田祭あおたまつりのよろこびをいたしました。すると、その翌朝よくあさはもう、武蔵様むさしさまもあの伊織いおりも、この小屋こや姿すがたえなかったのでござりまする」
 と、その僧侶そうりょは、まだそこらに武蔵様むさしさまがいるようながしてなりませぬ――といいながら、つぎのような仔細しさいはなすのであった。