315・宮本武蔵「空の巻」「卯月の頃(1)(2)」


朗読「315空の巻56.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 46秒

卯月うづきころ

 当主とうしゅ細川三斎公ほそかわさんさいこうは、豊前ぶぜん小倉こくら本地ほんじにいて、江戸えど藩邸はんていにいることはなかった。
 江戸えどには、長子ちょうし忠利ただとしがいて、補佐ほさ老臣ろうしんと、たいがいなことは、裁断さいだんしていた。
 忠利ただとし英邁えいまいだった。年歯としはもまだ、二十歳はたちいくつもえてない若殿わかとのなので、新将軍秀忠しんしょうぐんひでただめぐって、このあたらしい城府じょうふ移住いじゅうしていた天下てんか梟雄きょうゆう豪傑的ごうけつてき大名だいみょうのあいだにしても、ちち細川三斎ほそかわさんさいおとすようなことはけっしてなかった。むしろ、その新進気鋭しんしんきえいなことと、つぎ時代じだい活眼かつがんをもっているてんでは、諸侯しょこうなか新人しんじんとして、戦国育せんごくそだちの腕自慢うでじまんばかりをこととしている荒胆あらぎも老大名ろうだいみょうよりは、はるかにまさっているところもある。
「――若殿わかとのは?」
 と、長岡佐渡ながおかさどさがしていた。
 御書見ごしょけんにもえない。馬場ばばにもお姿すがたはない。
 藩邸はんてい地域ちいきはずいぶんひろかったが、まだにわなどはととのっていない。一部いちぶにはもとからのはやしがあり、一部いちぶ伐木ばつぼくして馬場ばばとなっている。
若殿わかとのは、どちらにおあそばすな」
 佐渡さどは、馬場ばばほうからもどりながら、とおりかかった若侍わかざむらいにたずねた。
「お的場まとばでござります」
「ああおゆみか」
 はやし小径こみちって、その方角ほうがくあるいてゆくと、
 ――ぴゅうん
 と、こころようなりがもう的場まとばほうきこえる。
「おう、佐渡さどどの」
 びとめるものがあった。
 同藩どうはん岩間角兵衛いわまかくべえである。実務家じつむか辣腕らつわんで、おもられている人物じんぶつだった。
「どちらへ」
 と、角兵衛かくべえってた。
御前みまえへ」
若殿わかとのいま、おゆみのお稽古中けいこちゅうでござるが」
些事さじゆえ、お弓場ゆみばでも」
 ぎようとすると、
佐渡さどどの、おいそぎなくば、ちとご相談申そうだんもうしたいことがあるが」
「なんじゃの」
立話たちばなしでも――」
 と、まわして、
「あれで」
 と、はやしなか数寄屋すきや供待ともまちさそった。
「ほかではないが、若殿わかとのとのあいだに、なにかのおはなしおりに、ひとり御推挙ごすいきょしていただきたい人物じんぶつがあるのじゃが」
御当家ごとうけ奉公ほうこうしたいという人間にんげんかの」
「いろいろな伝手つてもとめて、おなじようなのぞみをもうれてものが、佐渡さどどののところへなども沢山たくさんあろうが、いま、てまえのやしきいてある人物じんぶつはちとすくない人物じんぶつかとおもうので」
「ほ。……人材じんざい御当家ごとうけでももとめておるのじゃが、ただ、しょくにありつきたい人間にんげんばかりでなあ」
「その手輩てあいとは、ちとしつからしてちがおとこでござる。じつはそれがしの家内かないとは縁故えんこもあって、周防すおう岩国いわくにからてもう二年にねんもわしのやしきにごろごろしているのじゃが、なんとしても、御当家ごとうけしい人物じんぶつでしてな」
岩国いわくにとあれば、吉川家きっかわけ牢人ろうにんかの」
「いや、岩国川いわくにがわ郷士ごうし子息しそくで、佐々木小次郎ささきこじろうといい、まだ若年じゃくねんでござるが、富田流とだりゅう刀法とうほう鐘巻自斎かねまきじさいにうけ、居合いあい吉川家よしかわけ食客片山しょっかくかたやま伯耆守ほうきのかみ久安ひさやすから皆伝かいでんされ、それにもあまんじないでみずか巌流がんりゅうという一流いちりゅうてたほどのもので」
 と、くちきわめて角兵衛かくべえは、その人間にんげん佐渡さどうなずかせようとする。
 だれでも、人物じんぶつ推薦すいせんには、一応いちおうこのくらいには肩入かたいれするものである。佐渡さどはそう熱心ねっしんいていなかった。――むしろかれは、かれ意中いちゅうに、一年いちねんはんしたまま、ついいそがしいままにわすれていた、べつな人間にんげんを、ふとおもしていた。
 それは、葛飾かつしか法典ほうてんはら開墾かいこん従事じゅうじしている、宮本武蔵みやもとむさしというであった。

 武蔵むさしというは、かれむねに、あれ以来いらいわすないものになってふかきざまれていた。
(ああいう人物じんぶつこそ、御当家ごとうけでおかかえになっておくとよいが)
 と、佐渡さどは、ひそかにむねめていたのであった。
 だがもう一度いちど法典ほうてんはらおとずれ、したしくその人物じんぶつ見極みきわめたうえで、細川家ほそかわけ推挙すいきょするつもりでいたのである。
 いま――おもしてみると、そういうかんがえをいてかえった徳願寺とくがんじ一夜いちやから、いつか、一年いちねんっていた。
 公務こうむいそがしさにもまぎれ、あれきりまた、徳願寺とくがんじまいおりがなかったためである。
(どうしているか)
 と、佐渡さどがふと、ひとのはなしからおもしていると、岩間角兵衛いわまかくべえは、自分じぶんやしきいている佐々木小次郎ささきこじろう推薦すいせんに、佐渡さど助力じょりょく期待きたいして、なおしきりと小次郎こじろう履歴りれき人物じんぶつはなして、かれ賛同さんどうもとめたすえ
御前みまえまいられたら、どうぞひとつ、貴方あなたからもお口添くちぞえを」
 と、くれぐれもたのんでった。
承知しょうちした」
 と、佐渡さどこたえた。
 けれどかれむねには角兵衛かくべえからたのまれた小次郎こじろうのことよりも、やはり武蔵むさしというなんとなくこころかれていた。
 的場まとばってみると、若殿わかとの忠利ただとしは、家臣かしん相手あいてに、さかんゆみをひいていた。忠利ただとしは、一筋一筋ひとすじひとすじ、おそろしく正確せいかくで、そのうなりにも、気品きひんがあった。
 かれ侍者じしゃが、とき
(これからの戦場せんじょうでは、鉄砲てっぽうがもっぱらもちいられ、やりつぎ使つかわれ、太刀たちゆみなどは、あま役立やくだたぬように変遷へんせんしておるようにござりますから、おゆみは、武家ぶけかざりとしても、作法さほうだけの御習得ごしゅうとくでよろしくはないかとぞんじますが)
 と、いさめたとき忠利ただとしは、
(わしのゆみは、こころまとておるのだ。戦場せんじょうて、じゅう二十にじゅう武者むしゃ稽古けいこをしているようにえるか)
 と、かえってその侍者じしゃ反問はんもんしたという若殿わかとのである。
 細川家ほそかわけしんは、大殿おおとの三斎公さんさいこうには勿論もちろんこころから心服しんぷくしていたが、そうかといって、その三斎公さんさいこう余光よこうして、忠利ただとしつかえているもの一人ひとりもなかった。忠利ただとし身辺しんぺん近侍きんじしているものは、三斎公さんさいこうえらくあってもなくっても、問題もんだいではなかった。忠利ただとしそのひとこころから、英主えいしゅあおいでいるのだった。
 ――これはずっと晩年ばんねんはなしであるが、その忠利ただとしをどんなに藩臣はんしん畏敬いけいしていたかというよいはなしがある。
 それは細川家ほそかわけ豊前ぶぜん小倉こくら領地りょうちから熊本くまもと移封いほうされたときのこと――その入城式にゅうじょうしきに、忠利ただとし熊本城くまもとじょう大手おおて正門せいもん駕籠かごり、衣冠着用いかんちゃくようのまま、新莚あらむしろすわって、今日きょうから城主じょうしゅとしてすわ熊本城くまもとじょうむかってをついて礼拝れいはいしたそうである。――すると、そのとき忠利ただとしかんむりひも城門じょうもん蹴放けはなし――つまりもんしきい――にさわったというので、それから以後忠利いごただとし家臣かしん勿論もちろん代々だいだい家来けらいみな朝夕あさゆう、このもん通行つうこうするのに、けっしてなかまたぐことはしなかったということである。
 当時とうじ一国いっこく国守こくしゅが「しろ」にたいしてどれほど厳粛げんしゅく観念かんねんいだいていたか、また、家臣かしんがその「しゅ」にたいして、どれほどな尊崇そんすういだいていたか、この一例いちれいはよくそのへんさむらい気持きもちしめしているはなしであるが、壮年時代そうねんじだいからすでにそうした気宇きうのあった忠利ただとしであるから、そのくん家臣かしん推挙すいきょするにしても、うかつなものは、当然とうぜん推薦すいせんにくかった。
 長岡佐渡ながおかさどはお弓場ゆみば忠利ただとし姿すがたると、すぐさっき岩間角兵衛いわまかくべえへわかれぎわに、うっかり、
承知しょうちいたした)
 と、いってしまった軽率けいそつなことばをむねいていた。