朗読「304空の巻45.mp3」11 MB、長さ: 約 12分 19秒
五
一言一句、この少年のことばには、奇骨がある。
父という仏も、察するに、凡の田夫野人ではなかろう。由縁ある者の末にちがいはない。
武蔵は彼のことばに任せ、山の墓所へ、仏を運ぶ力だけ貸した。
それも、山の下までは、仏を馬の背にのせて行けばよいのであった。ただ嶮しい山道だけ、武蔵が仏を背負って上った。
墓所といっても、大きな栗の木の下に、丸い自然石が一つ、ぽつねんとあるだけで、ほかに塔婆一つない山だった。
仏を埋け終ると、少年は花を手向け、
「祖父も、祖母も、おっ母さんも、みんなここに眠ってるんだぜ」
と、掌をあわせた。
――何の宿縁。
武蔵も共に仏の冥福を念じて、
「墓石もそう古くないが、おまえの祖父の代から、この辺に土着したとみえるな」
「ああそうだって」
「その以前は」
「最上家の侍だったけど、戦に負けて落ちのびる時、系図も何もみんな焼いちまって、何もないんだって」
「それほどな家柄なら墓石にせめて、祖父の名ぐらい刻んでおきそうなものだが、紋印も年号もないが」
「祖父が、墓へは、何も書いてはいけないといって死んだんだって。蒲生家からも、伊達家からも、抱えに来たけれど、侍奉公は、二人の主人にするものじゃない。それから、自分の名など、石に彫っておくと、先の御主人の恥になるし、百姓になったんだから、紋も何も彫るなっていって、死んだんだって」
「その祖父の、名は聞いていたか」
「三沢伊織というんだけれど、お父さんは、百姓だから、ただ三右衛門といっていた」
「おまえは」
「三之助」
「身寄りはあるのか」
「姉さんがあるけれど、遠い国へ行っている」
「それきりか」
「うん」
「明日からどうして生きてゆくつもりか」
「やっぱり馬子をして」
と、いってすぐ、
「おじさん。――おじさんは武者修行だから、年中旅をして歩くんだろ。おらを連れて、何処までもおらの馬に乗ってくれないか」
「…………」
武蔵は先刻から、白々と、明けてくる曠野を見ていた。そして、この肥沃な野に住む人間が、どうして、かくの如く貧しいかを考えこんでいた。
大利根の水の、下総の潮があって、坂東平野は幾たびも泥海に化し、幾千年のあいだ、富士の火山灰はそれを埋め――やがて幾世をふるうちに、葭や蘆や雑木や蔓草がはびこって、自然の力が人間に勝ってしまう。
人間の力が土や水や自然の力を自由に利用する時、はじめてそこに文化が生れる。坂東平野はまだ人間が自然に圧倒され、征服され、人間の智慧の眸は、茫然とただ天地の大をながめているにすぎない。
陽がのぼると、そこらを、小さい野獣が跳ぶ、小鳥が刎ねる。未開の天地では、人間よりも、鳥獣のほうが、自然の恵みを、より多く享け、より多く楽しんでいるかに見えた。
六
やはり、子どもは、子どもである。
土の下に、父を葬って帰るさには、もう父のことを忘れている。いや忘れてもいまいが、葉の露から昇る曠野の日輪に、生理的に、悲しみなどは、吹きとんでいた。
「なあ、おじさん、いけないかい。おらは、今日からでもいい――。この馬に、何処までも乗って行って、何処までも、おらを連れて行ってくんないか」
山の墓所を降りてからの帰り途――
三之助は、武蔵を、客として、馬にのせ、自分は、馬子として、手綱を引いていた。
「……ウム」
と、うなずいてはいるが、武蔵は明瞭な返辞はしない。そして心のうちでは、この少年に、多分な望みをかけていた。
けれど、いつも流浪の身である自分が先に考えられた。果たして、自分の手によって、この少年を幸福にできるかどうか、将来の責任を、自分に問うてみるのであった。
すでに、城太郎という先例がある。彼は、素質のある子だったが、自分が流浪の身であり、また自分にさまざまな煩いがあるために、今では、手元を離れて、その行方もわからない。
(もし、あれで悪くでもなったら――)
と、武蔵は、いつもそれが、自分の責任でもあるかのように、胸をいためている。
――しかし、そういう結果ばかり考えたら、結局人生は、一歩も、あるくことが出来ない。自分の寸前さえ分らないのである。ましてや、人間の子、ましてや、育ってゆく少年の先のこと、誰が、保証できよう。また、傍の意志をもって、どうしよう、こうしようと思うことからして、むりである。
(ただ、本来の素質を、研かせて、よい方へ歩む導きをしてやるだけなら――)
それならば、できると彼も思う。また、それでいいのだと、自身に答えた。
「ね、おじさん、だめかい、いやかい」
三之助は強請む。
武蔵は、そこでいった。
「三之助、おまえは、一生涯、馬子になっていたいか、侍になりたいか」
「それやあ、侍になりたいさ」
「わしの弟子になって、わしと一緒に、どんな苦しいことでもできるか」
すると、三之助は、いきなり手綱を放り出した。何をするのかと見ていると、露草の中に坐って、馬の顔の下から、武蔵へ両手をついていった。
「どうか、お願いです。おらを侍にしてください。それは死んだお父さんもいい暮していたんだけど……きょうまで、そういって、頼む人がなかったんです」
武蔵は、馬から降りた。
そしてあたりを見廻した。一本の枯れ木の手頃なのを拾い、それを三之助に持たせて、自分も有り合う木切れを取って、こういった。
「師弟になるかならぬか、まだ返辞はできぬ。その棒を持って、わしへ打ち込んで来い。――おまえの手すじを見てから、侍になれるかなれないか決めてやる」
「……じゃあ、おじさんを打てば、侍にしてくれる?」
「……打てるかな?」
武蔵はほほ笑んで、木の枝を構えてみせた。
枯れ木をつかんで立ち上がった三之助は、むきになって、武蔵へ打ちこんで来た。武蔵は、仮借しなかった。三之助は、何度も、蹌いた。肩を打たれ、顔を打たれ、手を打たれた。
(今に、泣き出すだろう)
と思っていたが、三之助は、なかなかやめなかった。しまいには、枯れ木も折れてしまったので、武蔵の腰へ武者ぶりついて来た。
「猪口才な」
と、わざと大げさに、武蔵は彼の帯をつかんで、大地へたたきつけた。
「なにくそ」
と、三之助はまた、刎ね起きてかかってくる。それをまた、武蔵は、つかみ寄せて、高々と、日輪の中へ双手で差し上げながら、
「どうだ、参ったか」
三之助は、眩しげに、宙でもがきながら答えた。
「参らない」
「あの石へ、叩きつければ、おまえは死ぬぞ。それでも参らないか」
「参らない」
「強情な奴だ。もう、貴様の敗けではないか。参ったといえ」
「……でも、おらは、生きてさえいれば、おじさんに、きっと勝つものだから、生きているうちは参らない」
「どうして、わしに勝つか」
「――修行して」
「おまえが十年修行すれば、わしも十年修行して行く」
「でも、おじさんは、おいらよりも、年がよけいだから、おらよりも、先へ死ぬだろう」
「……む。……ウム」
「そしたら、おじさんが、棺桶へはいった時に、撲ってやる。――だから、生きてさえいれば、おらが勝つ」
「……あッ、こいつめ」
真っこうから一撃喰ったように、武蔵は、三之助のからだを、大地へ抛り出したが、石のところへは、投げなかった。
「……?」
ぴょこんと彼方に立った三之助の顔をながめて、むしろ愉快そうに、武蔵は手を叩いて笑った。