303・宮本武蔵「空の巻」「通夜童子(3)(4)」


朗読「303空の巻44.mp3」10 MB、長さ: 約 11分 12秒

 これはひどい。
 あめったらどんなだろう。月明つきあかりが屋根やねからもかべからもる。
 旅装りょそういても、けるくぎもなかった。床板ゆかいたむしろいてあるが、そこからもかぜる。
「おじさん、先刻さっき泥鰌どじょうしいといったね。泥鰌どじょうきかい」
 童子どうじは、まえかしこまってく。
「…………」
 武蔵むさしは、それにこたえるのをわすれて、この子供こどもつめていた。
「……なにているのさ」
幾歳いくつになるの」
「え」
 と、童子どうじはまごついて、
「おらのとしかい?」
「うむ」
十二じゅうにだ」
「…………」
 土民どみんなかにもよい面魂つらだましいがあるもの――と武蔵むさしはなお惚々ほれぼれるのであった。
 あらわない蓮根れんこんみたいにあかまったかおをしている。かみ蓬々ぼうぼうびて、小鳥ことりふんみたいなにおいがする。しかし、よくえていることと、あかなかにくるりとひかっているのきれいなことはすばらしい。
粟飯あわめしすこしあるよ。泥鰌どじょうも、もうおとっさんにげたから、べるなら、げててやるよ」
「すまないなあ」
「おものむのだろ」
しい」
っといで」
 童子どうじは、がたぴしと、板戸いたどをあけて、つぎ部屋へやにかくれてしまう。
 しばおとや、七輪しちりんをあおぐおとがする。いえなかたちまけむりちてくる。天井てんじょうかべにたかっていた無数むすう昆虫こんちゅうけむりわれてそとく。
「さ、できた」
 無造作むぞうさに、ものゆかへじかにならんだ。しおからい泥鰌どじょうくろ味噌みそ粟飯あわめし
「うまかった」
 武蔵むさしがよろこぶと、ひとよろこびを童子どうじもよろこぶ性質せいしつとみえ、
「うまかったかい?」
れいをのべたいが、このあるじはもうおやすみかの」
きてるじゃないか」
「どこに」
「ここに」
 と、童子どうじは、自分じぶんはなゆびさして、
「ほかにだれもいないよ」
 と、いう。
 職業しょくぎょうくと、以前いぜんすこしばかりのうもやっていたが、おやがわずらってから、のうはやめて自分じぶん馬子まごをしてかせいでいるという。
「……あああぶらがきれてしまった。おきゃくさん、もうるだろう」
 あかりはえたが、月洩つきもいえなん不便ふべんもなかった。
 うすいわらぶとんに、木枕こまくらをかって、武蔵むさしかべってた。
 とろとろとねむりかけると、まだ風邪気かぜけけきらないせいか、かるあせ毛穴けあなにわく。
 そのたびに武蔵むさしは、ゆめなかあめのようなおといた。
 もすがらきすだくむしは、いつかかれをふかいねむりにさそった。――もしそれが砥石といしすべ刃物はものおとでなかったら、そのふかねむりはめなかったにちがいない。
「……や?」
 かれは、ふと、おこしていた。
 ずし、ずし、ずし――とかすかに小屋こやはしらがうごく。
 板戸いたどとなりで、砥石といしものてているちからがひびいてるのである。なにいでいるのか? ――それは問題もんだいでない。
 武蔵むさしはすぐ、まくらしたかたなにぎった。すると、となり部屋へやから、
「おきゃくさん、まだつかれないのかい?」

 どうして自分じぶんきたのを、となり部屋へやったろうか。
 童子どうじ敏感びんかんおどろきながら、武蔵むさしは、そのこたえをはずして、かえすように、此方こなたからいった。
「この深夜しんやに、なんで其方そちは、刃物はものなどいでいるのか」
 すると少年しょうねんは、げらげらわらいながら、
「なアんだ、おじさんは、そんなことに恟々びくびくして、つかれなかったのかい。つよそうな恰好かっこうをしているけれど、内心ないしん臆病おくびょうなんだなあ」
 武蔵むさしは、沈黙ちんもくした。
 少年しょうねん姿すがたりた魔魅まみと、問答もんどうでもしているような気持きもちたれたからである。
 ごし、ごし、ごしっ……と童子どうじはまた、砥石といしのうえにうごいているらしい。不敵ふてきいま言葉ことばといい、する底力そこぢからといい、武蔵むさしはいぶからずにいられなかった。
「……?」
 で、板戸いたど隙間すきまからのぞいてみたのである。そこは台所だいどころと、むしろいた二坪ふたつぼ寝小屋ねごやになっている。
 引窓ひきまどからしろ月明つきあかりがしこんでいるしたに、童子どうじは、研桶とぎおけえ、刃渡はわた一尺五いっしゃくご六寸ろくすん野差刀のざしって、一心いっしんやいばをかけているのであった。
なにるのか」
 隙間すきまから武蔵むさしがいうと、童子どうじは、その隙間すきまをちょっと振向ふりむいたが、一言ひとことはっせず、なお懸命けんめいいでいる。そしてやがてのこと、晃々きらきらかえひかり研水とぎみずのしずくをぬぐいあげて、
「おじさん」
 と此方こなたたずねた。
「これでね、おじさん。人間にんげん胴中どうなかが、ふたつにれる?」
「……さ。うでるが」
うでなら、おらにだっておぼえがある」
一体いったいだれるのか」
「おらのおとっさんを」
なに……?」
 武蔵むさしは、おどろいて、おもわずそこの板戸いたどけ、
わっぱたわむれにいったか」
「だれが、冗談じょうだんなど、いうものか」
ちちる? ……それが本気ほんきならおまえは人間にんげんではない。こんな曠野こうやひとに、野鼠のねずみ土蜂つちばちのようにそだったにせよ、おやとはなにかぐらいなことは、自然分しぜんわかっていなければならない。……けものにすら親子おやこ本能ほんのうはあるに、おまえはおやるために、そのかたないでいた」
「ああ……。だけど、らなければ、ってけないもの」
「どこへ」
やまのおはかへ」
「……え?」
 武蔵むさしあらためてかべすみけた。先刻さっきからそこにになるものをていたが、まさか、少年しょうねんちち死骸しがいとはおもいもつかなかったのである。熟視じゅくしすると、死骸しがいには、まくらをさせ、うえからきたな百姓着ひゃくしょうぎがかぶせてある。そして一碗いちわんめしみずと――さっき武蔵むさしにもくれた泥鰌どじょうたのが木皿きざらってそなえてある。
 このほとけは、生前せいぜん泥鰌どじょうが、無二むに好物こうぶつであったとみえる。少年しょうねんは、ちちぬと、ちち一番好いちばんすきなものなんであったかをかんがえ――もうあきなかばというのに、懸命けんめいに、泥鰌どじょうをさがして、あの小川おがわあらっていたものにちがいない。
 ――ともらずに、
泥鰌どじょうけてくれぬか)
 といった自分じぶんこころない言葉ことば武蔵むさしずかしくおもされた。同時どうじにまた、ちち遺骸いがいを、やま墓地ぼちってくのに、一人ひとりちからでははこばれないから、死骸しがい両断りょうだんしてってこうという――この童子どうじ剛胆ごうたんかんがかたに、したいて、しばらくそのかおつめてしまった。
「いつんだのだ? ……おまえのちちは」
今朝けさ
「おはかとおいのか」
半里はんみちばかしさきやま
ひとたのんで、てらってけばよいではないか」
「おかねがないもの」
「わしが、布施ふせをしよう」
 すると、童子どうじは、かぶりをっていった。
「おとっさんは、ひとからものめぐまれるのは、きらいだった。おてらきらいだった。――だから、いらない」