朗読「300空の巻41.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 49秒
三
北条新蔵は、それを見ると、はっとしたらしく眉をひそめた。革足袋のまま石井戸の側まで駈け出して、
「出かけたな! 貴様たちは」
と、いった。
その言葉には、あれほど止めたのに――と叱っても今は及ばないものを見た嘆息と驚きがこもっていた。
石井戸の陰には、二人が背負って来た深傷の門人が、もう一名、今にも息をひきとりそうに、呻いていた。
「あっ、新蔵殿」
手足の血を洗っていた同門の二人は、彼の姿を仰ぐと、男泣きに泣き出しそうな皺を顔に刻んで、
「……ざ、残念です!」
弟が兄に訴えるような、甘えた嗚咽と、歯がみをして叫んだ。
「馬鹿っ」
撲らないだけがまだいい新蔵の声だった。
「馬鹿者っ」
と、もう一度つづけて、
「――貴公たちに討てる相手ではないから止せと、再三再四、わしが止めたのになぜ出かけたか」
「でも……でも……。ここへ来ては、病床の師を辱しめ、隅田河原では、同門の者を四名も討った――あの佐々木小次郎ずれを、何でそのままに置けるものでしょうか。……無理ですっ、意地も抑え、手も抑えて、黙って怺えていろと仰っしゃる新蔵殿の方が、ご無理というものです」
「何が無理だ」
年こそ若いが、新蔵は小幡門中の高足であり、師が病床にあるうちは、師に代って弟子達に臨んでいる位置でもあった。
「貴公たちが出向いていい程なら、この新蔵が真っ先に行く。――先頃からたびたび道場へ訪れて来て、病床の師に、無礼な広言を吐きちらしたり、われわれに対しても、傍若無人な小次郎という男を、わしは怖れて捨てておいたのではないぞ」
「けれど、世間はそうは受けとりません。――それに、小次郎は、師のことや、また兵学上のことまでも、悪しざまに、各所でいいふらしているのです」
「いわせておけばいいではないか。老師の真価を知っている者は、まさか、あんな青二才と論議して、負けたと誰が思うものか」
「いや、あなたはどうか知りませんが、われわれ門人は、黙っていられません」
「では、どうする気だ」
「彼奴を、斬り捨てて、思い知らせるばかりです」
「わしが止めるのもきかずに、隅田河原では、四人も返り討ちにあい、また今夜も、かえって彼のために敗れて帰って来たではないか。――恥の上塗りというものだ。老師の顔に泥をぬるのは、小次郎ではなくて、門下の各々たちだという結果になるではないか」
「あ、あまりなお言葉。どうして吾々が、老師の名を」
「では、小次郎を討ったか」
「…………」
「今夜も、討たれたのは、恐らく味方ばかりだろう。……各々にはあの男の力がわからないのだ。なるほど、小次郎という者は、年も若い、人物も大きくはない、粗野で高慢な風もある。――けれど彼が持っている天性の力――何で鍛え得たか――あの物干竿とよぶ大剣をつかう腕は、否定できない彼の実力だ。見縊ったら大間違いだぞ」
喰ってかかるように、門下の一人は、そういう新蔵の胸いたへ不意に迫って来た。
「――だから、彼奴に、どんな振舞いがあっても仕方がないと仰っしゃるのですか。――それほど、あなたは、小次郎が怖ろしいのでござるかっ」
四
「そうだ。そういわれても仕方がない」
新蔵は、頷いて見せながら、
「わしの態度が、臆病者に見えるなら、臆病者といわれておこう」
――すると、地に呻いていた深傷の男が、彼と二人の友の足元から苦しげに訴えた。
「水を……水をくれい」
「お……もう」
二人が、左右から掻い抱いて、釣瓶の水を掬ってやりかけると、新蔵があわてて止めた。
「待て。水を遣っては、すぐこときれる」
二人がためらっている間に、負傷は首をのばして釣瓶にかぶりついた。そして水を一口吸うと、釣瓶のなかに顔を入れたまま、眼を落してしまった。
「…………」
朝の月に、梟が啼いた。
新蔵は、黙然と立ち去った。
家にはいると、彼はすぐ師の病室をそっと窺った。勘兵衛は昏々とふかい寝息の中にある。ほっと胸をなでて、彼は自分の居間へ退がった。
読みかけの軍書が机のうえに開いてある。書に親しむ間もない程、毎夜の看護である。そこへ坐って、自分の体に回ると、同時に夜ごとのつかれが一時に思い出された。
机の前に、腕を拱んで、新蔵は思わず太い息をついた――自分を措いて今、誰が老いたる師の病床を見る者があろう。
道場には幾人かの内弟子もいるが、皆、武骨な軍学書生である。門に通う者はなおさら、威を張り、武を談じ、孤寂な老師の心情をふかく酌んでいる者は少ない。ややともすれば、ただ外部との意地や争闘にのみ走りやすい。
すでに今度の問題にしてもそうである。
自分の留守のまに、佐々木小次郎が、何か兵書の質疑で、勘兵衛に糺したいことがあるというので、門人が彼を師の勘兵衛に会わせたところ、教えを乞いたいといった小次郎が、かえって、僭越な議論をしかけて、勘兵衛をやりこめるために来たかのような口吻なので、弟子たちが、別室へ彼を拉して、その不遜をなじると、かえって小次郎は大言を放ち、そのうえ、
(いつでも相手になる)
と、いって帰ったとかいうのが原因なのである。
原因は常に小さい。しかし結果は大きなことになった。それというのも小次郎がこの江戸で、小幡の軍学は浅薄なものだとか、甲州流などというが、あれは古くからある楠流や唐書の六韜を焼直して、でッち上げたいかがわしい兵学だとか、世間で悪声を放ったのが、門人の耳に伝わって、よけいに感情が悪化したせいもあるが、
(生かしてはおけぬ)
と、小幡の門人がこぞって、彼に復讐をちかい出したのであった。
北条新蔵は、その議が持ち上がると、最初から反対した。
――問題が小さい事。
――師が病中にある事。
――相手が軍学者でない事。
それからもう一つ、老師の子息の余五郎が旅先にいることも理由として、
(断じてこちらから喧嘩に出向いてはならぬ)
と、戒めて来たのであった。――にもかかわらず、先頃は新蔵に無断で隅田河原で小次郎と出会い、また、それにも懲りず衆を語らって、ゆうべも、小次郎を待ちぶせ、かえって手酷い目に遭って、約十名のうち生きて還ったのは幾人もない様子なのである。
「……困ったことを」
新蔵は、消えかける短檠へ、何度も嘆息をもらしては、また、腕ぐみの中に面を沈めていた。