300・宮本武蔵「空の巻」「梟(3)(4)」


朗読「300空の巻41.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 49秒

 北条新蔵ほうじょうしんぞうは、それをると、はっとしたらしくまゆをひそめた。革足袋かわたびのまま石井戸いしいどそばまでして、
かけたな! 貴様きさまたちは」
 と、いった。
 その言葉ことばには、あれほどめたのに――としかってもいまおよばないものを嘆息たんそくおどろきがこもっていた。
 石井戸いしいどかげには、二人ふたり背負せおって深傷ふかで門人もんじんが、もう一名いちめいいまにもいきをひきとりそうに、うめいていた。
「あっ、新蔵殿しんぞうどの
 手足てあしあらっていた同門どうもん二人ふたりは、かれ姿すがたあおぐと、男泣おとこなきにしそうなしわかおきざんで、
「……ざ、残念ざんねんです!」
 おとうとあにうったえるような、あまえた嗚咽おえつと、がみをしてさけんだ。
馬鹿ばかっ」
 なぐらないだけがまだいい新蔵しんぞうこえだった。
馬鹿者ばかものっ」
 と、もう一度いちどつづけて、
「――貴公きこうたちにてる相手あいてではないからせと、再三再四さいさんさいし、わしがめたのになぜかけたか」
「でも……でも……。ここへては、病床びょうしょうはずかしめ、隅田河原すみだかわらでは、同門どうもんもの四名よんめいった――あの佐々木小次郎ささきこじろうを、なんでそのままにけるものでしょうか。……無理むりですっ、意地いじおさえ、おさえて、だまってこらえていろとっしゃる新蔵殿しんぞうどのほうが、ご無理むりというものです」
なに無理むりだ」
 としこそわかいが、新蔵しんぞう小幡門中おばたもんちゅう高足こうそくであり、病床びょうしょうにあるうちは、かわって弟子達でしたちのぞんでいる位置いちでもあった。
貴公きこうたちが出向でむいていいほどなら、この新蔵しんぞうさきく。――先頃さきごろからたびたび道場どうじょうおとずれてて、病床びょうしょうに、無礼ぶれい広言こうげんきちらしたり、われわれにたいしても、傍若無人ぼうじゃくぶじん小次郎こじろうというおとこを、わしはおそれててておいたのではないぞ」
「けれど、世間せけんはそうはけとりません。――それに、小次郎こじろうは、のことや、また兵学上へいがくじょうのことまでも、しざまに、各所かくしょでいいふらしているのです」
「いわせておけばいいではないか。老師ろうし真価しんかっているものは、まさか、あんな青二才あおにさい論議ろんぎして、けたとだれおもうものか」
「いや、あなたはどうかりませんが、われわれ門人もんじんは、だまっていられません」
「では、どうするだ」
彼奴きゃつを、てて、おもらせるばかりです」
「わしがめるのもきかずに、隅田河原すみだかわらでは、四人よにんかえちにあい、また今夜こんやも、かえってかれのためにやぶれてかえってたではないか。――はじ上塗うわぬりというものだ。老師ろうしかおどろをぬるのは、小次郎こじろうではなくて、門下もんか各々おのおのたちだという結果けっかになるではないか」
「あ、あまりなお言葉ことば。どうして吾々われわれが、老師ろうしを」
「では、小次郎こじろうったか」
「…………」
今夜こんやも、たれたのは、おそらく味方みかたばかりだろう。……各々おのおのにはあのおとこちからがわからないのだ。なるほど、小次郎こじろうというものは、としわかい、人物じんぶつおおきくはない、粗野そや高慢こうまんふうもある。――けれどかれっている天性てんせいちから――なんきたたか――あの物干竿ものほしざおとよぶ大剣だいけんをつかううでは、否定ひていできないかれ実力じつりょくだ。見縊みくびったら大間違おおまちがいだぞ」
 ってかかるように、門下もんか一人ひとりは、そういう新蔵しんぞうむないたへ不意ふいせまってた。
「――だから、彼奴きゃつに、どんな振舞ふるまいがあっても仕方しかたがないとっしゃるのですか。――それほど、あなたは、小次郎こじろうおそろしいのでござるかっ」

「そうだ。そういわれても仕方しかたがない」
 新蔵しんぞうは、うなずいてせながら、
「わしの態度たいどが、臆病者おくびょうものえるなら、臆病者おくびょうものといわれておこう」
 ――すると、うめいていた深傷ふかでおとこが、かれ二人ふたりとも足元あしもとからくるしげにうったえた。
みずを……みずをくれい」
「お……もう」
 二人ふたりが、左右さゆうからいだいて、釣瓶つるべみずすくってやりかけると、新蔵しんぞうがあわててめた。
て。みずっては、すぐこときれる」
 二人ふたりがためらっているあいだに、負傷ておいくびをのばして釣瓶つるべにかぶりついた。そしてみず一口吸ひとくちすうと、釣瓶つるべのなかにかおれたまま、おとしてしまった。
「…………」
 あさつきに、ふくろういた。
 新蔵しんぞうは、黙然もくねんった。
 いえにはいると、かれはすぐ病室びょうしつをそっとうかがった。勘兵衛かんべえ昏々こんこんとふかい寝息ねいきなかにある。ほっとむねをなでて、かれ自分じぶん居間いま退がった。
 みかけの軍書ぐんしょつくえのうえにひらいてある。しょしたしむもないほど毎夜まいよ看護かんごである。そこへすわって、自分じぶんからだかえると、同時どうじごとのつかれが一時いちどきおもされた。
 つくえまえに、うでんで、新蔵しんぞうおもわずふといきをついた――自分じぶんいていまだれいたる病床びょうしょうものがあろう。
 道場どうじょうには幾人いくにんかの内弟子うちでしもいるが、みな武骨ぶこつ軍学書生ぐんがくしょせいである。もんかよものはなおさら、り、だんじ、孤寂こじゃく老師ろうし心情しんじょうをふかくんでいるものすくない。ややともすれば、ただ外部がいぶとの意地いじ争闘そうとうにのみはしりやすい。
 すでに今度こんど問題もんだいにしてもそうである。
 自分じぶん留守るすのまに、佐々木小次郎ささきこじろうが、なに兵書へいしょ質疑しつぎで、勘兵衛かんべえただしたいことがあるというので、門人もんじんかれ勘兵衛かんべえわせたところ、おしえをいたいといった小次郎こじろうが、かえって、僭越せんえつ議論ぎろんをしかけて、勘兵衛かんべえをやりこめるためにたかのような口吻くちぶりなので、弟子でしたちが、別室べっしつかれらっして、その不遜ふそんをなじると、かえって小次郎こじろう大言たいげんはなち、そのうえ、
(いつでも相手あいてになる)
 と、いってかえったとかいうのが原因げんいんなのである。
 原因げんいんつねちいさい。しかし結果けっかおおきなことになった。それというのも小次郎こじろうがこの江戸えどで、小幡おばた軍学ぐんがく浅薄せんぱくなものだとか、甲州流こうしゅうりゅうなどというが、あれはふるくからある楠流くすのきりゅう唐書とうしょ六韜りくとう焼直やきなおして、でッちげたいかがわしい兵学へいがくだとか、世間せけん悪声あくせいはなったのが、門人もんじんみみつたわって、よけいに感情かんじょう悪化あっかしたせいもあるが、
かしてはおけぬ)
 と、小幡おばた門人もんじんがこぞって、かれ復讐ふくしゅうをちかいしたのであった。
 北条新蔵ほうじょうしんぞうは、そのがると、最初さいしょから反対はんたいした。
 ――問題もんだいちいさいこと
 ――病中びょうちゅうにあること
 ――相手あいて軍学者ぐんがくしゃでないこと
 それからもうひとつ、老師ろうし子息しそく余五郎よごろう旅先たびさきにいることも理由りゆうとして、
だんじてこちらから喧嘩けんか出向でむいてはならぬ)
 と、いましめてたのであった。――にもかかわらず、先頃さきごろ新蔵しんぞう無断むだん隅田河原すみだかわら小次郎こじろう出会であい、また、それにもりずしゅうかたらって、ゆうべも、小次郎こじろうちぶせ、かえって手酷てひどって、約十名やくじゅうめいのうちきてかえったのは幾人いくにんもない様子ようすなのである。
「……こまったことを」
 新蔵しんぞうは、えかける短檠たんけいへ、何度なんど嘆息たんそくをもらしては、また、うでぐみのなかおもてしずめていた。