299・宮本武蔵「空の巻」「梟(1)(2)」


朗読「299空の巻40.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 12秒

ふくろう

 したたかに小次郎こじろうっていたのである。もちろん、その程度ていどに、どこかの揚屋あげやあそびぬいた挙句あげくちがいない。
かた……かただおい……」
「ど、どうするんで? 先生せんせい
両方りょうほうからかたせというのだ――もう、あるけない」
 こも十郎じゅうろうとお稚児ちご小六ころくかたにすがって、よごれた夜更よふけの色街いろまちを、蹌踉そうろうともどってるのだった。
「だから、とまろうと、おすすめしたのに」
「あんなうちに、とまれるか。……おい、もういちど、角屋すみやってみよう」
「およしなさい」
「な、なぜ」
「だって、かくれするようなおんなを、むりに、つかまえて、あそんだって……」
「……む。そうか」
れているんですか、先生せんせいはそのおんなに」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
なにおもしているんで」
「おれは、おんなになど、れたことはないな。……そういう性格たちらしい。もっと、おおきな野望やぼういているから」
先生せんせいのぞみってえのは?」
「いわずともれている。けんって以上いじょうけん第一人者だいいちにんしゃにならずにはおかない。――それには将軍家しょうぐんけ指南しなんになるのが上策じょうさくだが」
生憎あいにくと……もう柳生家やぎゅうけがあるし……小野おの治郎右衛門じろうえもんというひと近頃ちかごろ御推挙ごすいきょされましたぜ」
治郎右衛門じろうえもん……あんなものが。……柳生やぎゅうとておそるるにはらん。……ていろ、わしはいまに、彼奴きゃつらを蹴落けおとしてみせる」
「……あぶねえ。先生せんせい自分じぶん足元あしもとほうを、をつけておくんなさいよ」
 もうくるわは、うしろだった。
 かよ人影ひとかげもとんとない。きがけにもなやんだりかけの堀端ほりばたたのである。げたつちやなぎ半分はんぶんまっているかとおもうと、一方いっぽうひくあしよしみずたまりがまだのこっていて、しろほしかげけている。
すべりますぜ」
 このどてからしたへ、厄介者やっかいものかついで、こもとお稚児ちごりかけたときだった。
「――あっ」
 さけんだのは、小次郎こじろうであったしまた、その小次郎こじろうに、突然とつぜんばされた両人ふたりでもあった。
何者なにものだっ」
 と、小次郎こじろうは、どてはらへ、仰向あおむけにせながら、ふたた呶鳴どなった。
 そのこえを、びゅっと、虚空こくうりながら、背後はいごから不意ふいおそったおとこかげは、自分じぶん足先あしさきを、余勢よせいはずして、これも、あっ――といいながらした沼地ぬまちびこんでしまった。
「わすれたか、佐々木ささき
 と、何処どこかでいう。
「よくもいつぞやは、隅田河原すみだかわら同門どうもん四名よんめいりすてたな」
 べつなものこえである。
「おうっ」
 小次郎こじろうは、どてうえがって、そこらのこえ見廻みまわした。――ると、つちかげかげあしなか十人以上じゅうにんいじょう人影ひとかげかぞえられた。かれがそこにったとると、すべてが、むらむらとやいばけて、足元あしもとりつめてきた。
「――さては、小幡おばた門人もんじんどもだな。いつぞやは、五人ごにん四人よにんうしない、こん何名なんめい何名なんめいにたいのだ。のぞみのかずだけってやろう。……卑劣者ひれつものめッ、いっ」
 小次郎こじろう肩越かたごしに、なかの愛剣あいけん物干竿ものほしざおつかった。

 平河天神ひらかわてんじんなかあわせに、もりっている屋敷やしきだった。旧家きゅうか草葺くさぶき屋根やねへ、あたらしい講堂こうどう玄関げんかんてて、小幡勘兵衛おばたかんべえ景憲かげのりは、軍学ぐんがく門人もんじんっていた。
 勘兵衛かんべえもと武田家たけだけ家人けにんで、甲州者こうしゅうものなかでも武門ぶもんきこえのたか小幡入道おばたにゅうどう日浄にちじょうながれである。
 武田たけだ滅亡後久めつぼうごひさしくかくれていたが、勘兵衛かんべえだいになって家康いえやす召出めしだされ、実戦じっせんにもたが、病体びょうたいだし、もう老年ろうねんなので、
ねがわくは、年来ねんらい軍学ぐんがくこうじて、余生よせいほうじたい)
 と、いまところうつったのである。
 幕府ばくふは、かれのためにも、下町したまち一区画いちくかく宅地たくちとしてあたえたが、勘兵衛かんべえは、
甲州出こうしゅうで武辺者ぶへんしゃが、華奢かしゃ邸宅ていたくのきならべているあいだむのは、不得手ふえてでござれば――)
 と、辞退じたいして、平河天神ひらかわてんじんふる農家のうか屋敷構やしきがまえになおし、いつも病室びょうしつじこもって、近頃ちかごろは、講義こうぎにも滅多めったかおせない。
 もりには、ふくろうおおくいて、昼間ひるまふくろうこえがするほどなので、勘兵衛かんべえは、
 隠士梟翁いんしきょうおう
 とみずか名乗なのり、
(わしも、あの仲間なかま一羽いちわか)
 と、わが病骨びょうこつを、さびしくわらったりしていた。
 病気びょうきいまでいう神経痛しんけいつうのようなものであった。発作ほっさおこると、坐骨ざこつのあたりから半身はんしん猛烈もうれついたむらしい。
「……先生せんせいすこしはおよろしくなりましたか。みずでも一口ひとくちおあがりなされては」
 いつもかれそばには、北条新蔵ほうじょうしんぞうという弟子でしがつきっていた。
 新蔵しんぞうは、北条ほうじょう氏勝うじかつで、ちち遺学いがくいで、北条流ほうじょうりゅう軍学ぐんがく完成かんせいするために、勘兵衛かんべえ内弟子うちでしとなって、少年しょうねんころから、まきみずになって、苦学くがくして青年せいねんだった。
「……もうよい。……だいぶらくになった。……やがて夜明よあちかくであろうに、さだめしねむたかろう。やすめ、やすめ」
 勘兵衛かんべえかみは、まっしろであった。からだは、老梅ろうばいのようにせてとがっている。
「おあんじくださいますな。新蔵しんぞうは、昼寝ひるねしておりますから」
「いや、わしの代講だいこうができるものは、そちのほかにはない。昼間ひるまも、なかなかねむもあるまい……」
ねむらないのも、修行しゅぎょうぞんじますれば」
 新蔵しんぞうは、うす背中せなかをさすりながら、ふと、えかける短檠たんけいて、油壺あぶらつぼりにった。
「……はての?」
 まくらしていた勘兵衛かんべえが、ふとにくげたかおをあげた。
 そのかおに、えた。
 新蔵しんぞうは、油壺あぶらつぼったまま、
なんでござりますか?」
 と、た。
「そちにはきこえないか……みずおとだ……石井戸いしいどあたりに」
「オオ……ひと気配けはいが」
今頃いまごろ何者なにものか。……また、弟子部屋でしへやものどもが、夜遊よあそびにおったのかもしれぬ」
「おおかた、そんなことかとぞんじますが、一応見いちおうみまいりまする」
「よく、たしなめておけ」
「いずれにせよ、おつかれでございましょう。先生せんせいは、おやすみなされませ」
 よるしらみかけると、いたみもやみ、すやすやつく病人びょうにんであった。新蔵しんぞうは、かたへ、そっと寝具しんぐをかけて、裏口うらぐちけた。
 ると、石井戸いしいどながしで、釣瓶つるべげて、二人ふたり弟子でしが、かおを、あらっていた。