298・宮本武蔵「空の巻」「かんな屑(5)(6)」


朗読「298空の巻39.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 43秒

 暖簾のれんから暖簾のれんへ、小次郎こじろうたちはわたりあるいていた。
 茜染あかねぞめ暖簾のれんや、もんめぬいた浅黄あさぎ暖簾のれんなどもある。うち暖簾のれんには、すずがついて、きゃくってはいると、すずいて、遊女ゆうじょたちが、窓格子まどごうしまでってた。
先生せんせいかくしたってもうだめですぜ」
「なぜ」
はじめてたとっしゃいましたが、いま、はいったうち遊女ゆうじょなかで、先生せんせい姿すがたると、こえして屏風びょうぶかげへ、かおをかくしたおんながあった。もうどろいておしまいなせえ」
 こももお稚児ちごも、そういうが、小次郎こじろうにはおぼえがなかった。
「はてな。どんなおんなが……?」
空恍そらとぼけたって、もういけません。登楼あがりましょう、いまうちへ」
「まったく、はじめてだが」
登楼あがってみればわかるこってさ」
 今出いまでたばかりの暖簾のれんうちへ、二人ふたりはもうかえしている。おおきながしわもんみっつにって、はしに、角屋すみやとしてある暖簾のれんであった。
 はしら廊下ろうかも、てらのようにおお建築けんちくだが、まだえんしたにはれないよしまっているのである。なんのくすみもなければゆかしさもない。家具かぐふすまも、すべてがいたいほどあたらしかった。
 三人さんにんとおったのは、往来おうらいいた二階にかい広座敷ひろしざしきであったが、まえきゃく残肴ざんこうやら鼻紙はながみなどが、まだきもせずらかっている。
 下働したばたらきのおんなたちは、まるでおんな労働者ろうどうしゃのように、ぶっきらぼうにそれをかたづける。おなおという年寄としよりて、毎晩まいばんもないいそがしさで、こんなことが三年さんねんつづいたならぬかもれませんという。
「これが遊廓くるわか」
 と、小次郎こじろうは、おびただしい天井てんじょうだらけなのをながめて、
「いや、殺伐さつばつな」
 と、苦笑くしょうした。するとおなおは、
「これはまだ仮普請かりぶしんで、いまうらほうに、伏見ふしみにもきょうにもないような本普請ほんぶしんにかかっているのでございますよ」
 と、弁解べんかいする。そしてじろじろ小次郎こじろうながら、
「お武家様ぶけさまには、どこかでおにかかっておりますよ。そうそう昨年さくねんわたしたちが伏見ふしみからくだって道中どうちゅうで」
 小次郎こじろうわすれていたが、そういわれて、小仏こぼとけうえ出会であった角屋すみや一行いっこうおもし、その庄司しょうじ甚内じんないが、ここのあるじということもわかって、
「そうか。……それはあさからぬえんだ」
 と、ややきょうる。こも十郎じゅうろうは、
「それやあ、あさくねえわけでしょう。なにしろ、此楼ここには、先生せんせいっているおんながいるんだから」
 と、揶揄やゆして、その遊女ゆうじょをはやくここへんでくれとおなおへいう。
 こんなかおの、こんな衣裳いしょうの、とこも説明せつめいするのをいて、
「ああ、わかりました」
 おなおってったが、いつまでっても、れてないのみか、こもとお稚児ちご廊下ろうかまでてみると、なんとなく楼内ろうないさわがしい。
「やいっ、やいっ」
 二人ふたりをたたいて、おなおび、どうしたのだとめつける。
「いないんでございますよ。あなたがべとっしゃった遊女ゆうじょが」
「おかしいじゃねえか、どうしていなくなったんだ」
いまも、親方おやかた甚内様じんないさまと、どうもふしぎだと、はなしているのでございます。以前いぜんも、小仏こぼとけ途中とちゅうで、おれのお武家様ぶけさま甚内様じんないさまはなしていると、そのあいだに、あの姿すがたえなくなってしまったことがあるんでございますからね」

 棟上むねあげをしたばかりの普請場ふしんばであった。屋根やねきかけてあるが、かべもない、羽目板はめいたってない。
「――花桐はなぎりさん、花桐はなぎりさん」
 とおくのほうでこえがする。やまのようにたまっているくずや、材木ざいもくあいだを、何度なんども、自分じぶんさがしまわる人影ひとかげとおった。
「…………」
 朱実あけみはじっといきをころしてかくれていた。花桐はなぎりというのは、角屋すみやてからの自分じぶんである。
「……いやなこった。だれてやるものか」
 はじめは、きゃく小次郎こじろうわかっていたので、姿すがたかくしたのであるが、そうしているあいだに、にくらしいものは、小次郎こじろうだけではなくなった。
 清十郎せいじゅうろうにくい、小次郎こじろうにくい、八王子はちおうじで、っている自分じぶん馬糧まぐさ小屋ごやきずりこんだ牢人者ろうにんものにくい。
 毎夜まいよのように、自分じぶん肉体にくたいをおもちゃにして遊客ゆうきゃくたちもみなにくい。
 それはみんなおとこというものだ。おとここそはかたきだとおもう。同時どうじ彼女かのじょはまた、おとこさがしてきている。武蔵むさしのようなおとこを――である。
ているひとでもいい)
 と、彼女かのじょおもった。
 もしているひと出会であったら、あい真似事まねごとをしても、なぐさめられるだろうと朱実あけみおもっていた。だが、遊客ゆうきゃくなかに、そんなものつからなかった。
 もとめつつ、こいしつつ、だんだんにそのひとからとおくなるばかりな自分じぶん朱実あけみにはわかっていた。さけはつよくなるばかりだった。
花桐はなぎりっ……。花桐はなぎり
 普請場ふしんばとすぐくっいている角屋すみや裏口うらぐちで、親方おやかた甚内じんないこえちかきこえ、やがて空地あきちなかへは、小次郎こじろうたち三名さんめい姿すがたえている。
 さんざんびをいわせたり、文句もんくをいったあげく、三名さんめいかげ空地あきちから往来おうらいほうった。多分たぶん、あきらめてかえったものとえる。朱実あけみは、ほっとして、かおした。
「――あら花桐はなぎりさん、そんなところにいたのけ?」
 台所働だいどころばたらきのおんなが、頓狂とんきょうこえしかけた。
「……っ」
 朱実あけみは、そのくちって、おおきな台所口だいどころぐちのぞきながら、
冷酒ひやでひとくちくれないか」
「……え。おさけを」
「ああ」
 彼女かのじょかおいろにおそれをなして、満々なみなみいでやると、朱実あけみは、をつむって、うつわともに、しろおもて仰向あおむけにのみほした。
「……ア、何処どこへ。花桐はなぎりさん、何処どこへ」
「うるさいね、あしあらってあがるんだよ」
 台所だいどころおんなは、安心あんしんして、そこをめた。けれど朱実あけみは、つちのついたあしのまま、有合ありあ草履ぞうりあしをかけて、
「ああいいもち」
 ふらふらと、往来おうらいのほうへあゆした。
 あか灯影ほかげまっている往来おうらいを、たくさんなおとこばかりのかげが、ぞめきってながれていた。朱実あけみのろうように、
「なんだいこの人間にんげんたちは」
 と、つばをして、そこをはしった。
 すぐみちくらくなった。しろほしほりなかいている。――じっとのぞきこんでいると、うしろのほうから、ばたばたとけて跫音あしおとがする。
「……あ、角屋すみや提燈ちょうちんらしい。ばかにしてやがる、あいつらはあいつらで、ひとが路頭ろとうまよっているのをいいになって、ほねまでけずらせてかせがせるなんだろう。――そしてあたいたちにくが、普請場ふしんば材木ざいもくになりゃあ世話せわあないや。……だれがもうかえってやるものか」
 世間せけんのあらゆるものが敵視てきしされるのであった。朱実あけみは、まっしぐらに、あてもなくやみなかった。かみについていたくずひとひら、やみなかにひらひらうごいてった。