朗読「297空の巻38.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 14秒
三
稽古日は、月三回、三の日と極めて、その日になると、半瓦の家へ小次郎の姿が見えた。
「伊達者の中にまた一倍の伊達者が加わった」
と、近所では噂した。小次郎の派手姿は、何処にいても、人目立った。
その小次郎が、枇杷の長い木太刀を持って、
「次。――次!」
と、呼ばわりながら、紺屋の干し場で、大勢に稽古をつけている姿は、なおさら、目ざましかった。
いつになったら元服するのか、もう二十三、四歳にもなろうというのに、相変らず前髪を捨てず、片肌ぬぐと、眼を奪うような桃山刺繍の襦袢を着、掛け襷にも、紫革を用いて、
「枇杷の木で打たれると、骨まで腐ると申すから、それを覚悟でかかって来い。――さっ、次の者、来ないか」
身装の艶やかなだけに、言葉の殺伐なのが、よけい凄くひびく。
それに稽古とはいえ、この指南者は、少しも仮借しないのだ。きょうまでにこの空地の道場は、稽古初めをしてから三回目だが、半瓦の家には一人の重傷と、四、五人の怪我人ができて、奥で唸って寝ている。
「――もうやめか、誰も出ないのか。やめるならわしは帰るぞ」
例の毒舌が出始めると、
「よしっ、一番おれが」
と、溜りの中から、ひとりの乾児が、口惜しがって立ちかけた。
小次郎の前へ出て来て、木剣を拾おうとすると、――ぎゃっと、その男は、木剣も持たずにへたばってしまった。
「剣法では、油断というものを最も忌む。――これはその稽古をつけたのだ」
小次郎は、そういって、周りにいる三、四十人の顔を見まわしている。皆、生唾をのんで、彼の厳しい稽古ぶりに顫いた。
へたばった男を、井戸端へ担いで行って、水をかけていた乾児たちは、
「だめだ!」
「死んだのか」
「もう呼吸はねえ」
後から駈け寄る者もあって、がやがや騒いでいたが、小次郎は、見向きもしなかった。
「これくらいなことに恐れるようでは、剣術の稽古などはしないがいい。お前らは、六方者だの伊達者だのといわれて、ややもすると、喧嘩するではないか」
革足袋で、空地の土を踏んで歩きながら、彼は講義口調でいう。
「――考えてみろ、六方者。おまえらは、足を踏まれたからといっては喧嘩をし、刀のこじりに触ったといってはすぐに抜き合うがだ――いざ、改めて、真剣勝負となると、体が固くなってしまうのだろう。女出入りや意地張りの、ツマらぬことには生命も捨てるが、大義に捨てる勇を持たない。――なんでも、感情と鼻っぱりで起つ。――それじゃあいかん」
小次郎は、胸を伸ばして、
「やはり修行を経た自信でなければ、ほんものの勇気でない。さあ、起ってみろ」
その広言を凹ましてやろうと、一人が後ろから撲りかかった。しかし、小次郎の体は地へ低く沈み込み、不意を襲った男は前へもんどり打った。
「――痛えっ」
と、叫んだままその男は坐ってしまった。枇杷の木剣が、腰の骨に当った時、がつんといった。
「――もう今日はやめ」
小次郎は、木剣を抛り出して、井戸端へ手を洗いに行った。たった今、自分が木剣で撲り殺した乾児が、井戸の流しに、こんにゃくみたいに白っぽくなって死んでいたが、その顔のそばで、ざぶざぶと手を洗っても、死人には、気の毒という一言もいわなかった。――そして、肌を入れると、
「近頃、たいへんな人出だそうだな、葭原とやらは。……お前たちは皆、明るいのだろう。誰か今夜案内せぬか」
と、笑っていった。
四
遊びたい時は、遊びたいというし、飲みたい時は、飲ませろという。
衒いとも見えるが、率直だともいえる。小次郎のそういう気性を、半瓦はいい方に買っている。
「葭原をまだ見ねえんですか。そいつあ一度は行って見なくちゃいけねえ。手前がお供をしてもいいが何しろ死人が一人出来ちまって、そいつの始末をしてやらなけれやなりませんから――」
と、弥次兵衛は乾児のお稚児と菰の両名に金を預けて、
「ご案内してあげろ」
と、小次郎に付けて出した。
出かける際、彼らは親分の弥次兵衛からくれぐれも、
「今夜は、汝たちが遊ぶんじゃねえ。先生のご案内をして、よく観せてお上げ申すのだぞ」
といわれて来たが、門を出るとすぐ忘れて、
「なあ兄弟、こういう御用なら、毎日仰せつかってもいいなあ」
「先生、これから時々、葭原が見てえと、仰っしゃっておくんなさい」
と、はしゃいでいる。
「はははは。よかろう、時々いってやる」
小次郎は先に歩む。
陽が暮れる途端に、江戸は真っ暗だった。京都の端にもこんな暗さはない。奈良も大坂も、もっと夜は明るいが――と江戸へ来て一年の余になる小次郎でも、まだ足元が不馴れだった。
「ひどい道だ。提燈を持って来ればよかったな」
「廓へ提燈なんぞ持ってゆくと笑われますぜ。先生、そっちは堀の土を盛りあげてある土手だ。下をお歩きなさい」
「でも、水溜りが多いではないか。――今も葭の中へ辷って、草履を濡らした」
堀の水が、忽然と、赤く見え出した。仰ぐと、川向うの空も赤い。一廓の町屋の上には、柏餅のような晩春の月があった。
「先生、あそこです」
「ほう……」
眼をみはった時、三人は橋を渡っていた。小次郎は渡りかけた橋をもどって、
「この橋の名は、どういうわけだな」
と、杭の文字を見ていた。
「おやじ橋っていうんでさ」
「それはここに書いてあるが、どういうわけで」
「庄司甚内ってえおやじがこの町を開いたからでしょう。廓で流行っている小唄に、こんなのがありますぜ」
菰の十郎は、廓の灯に浮かされて、低い声で唄い出した。
おやじが前の竹れんじ
その一節のなつかしや
おやじが前の竹れんじ
せめて一夜と契らばや
おやじが前の竹れんじ
いく世も千代も契るもの
ちぎるもの……
仇にな引くな
切れぬ袂を
「先生にも、貸しましょうか」
「何を」
「こいつで、こう顔を隠してあるきます」
と、稚児と菰のふたりは、茜染の手拭を払って、頭からかぶった。
「なるほど」
と、小次郎も真似て袴腰に巻いていた小豆色の縮緬を、前髪のうえからかぶって、顎の下にたっぷり結んで下げた。
「伊達だな」
「よう似合う」
橋を渡ると、ここばかりは、往来も燈に染まり、格子格子の人影も、織るようであった。