292・宮本武蔵「空の巻」「草分の人々(3)(4)(5)」


朗読「292空の巻33.mp3」15 MB、長さ: 約 15分 52秒

 時々ときどき竿ざお着物きものさわってみる。つよいのですぐかわきそうにおもわれたが、なかなかかわかないのである。
 襦袢一枚じゅばんいちまいに、湯巻ゆまきうえおびいたきりで、これをっているので、見得みえらないばばも、往来おうらいからえないように、銭湯小屋せんとうごやかげに、いつまでもちぢまっていた。
 すると、往来おうらいむこがわで、
幾坪いくつぼあるのだい、この地所じしょは――やすけれやあ相談そうだんろうじゃないか」
総坪そうつぼで、八百坪はっぴゃくつぼからござんすよ。だんは、もうげたよりかりません」
たかいなあ。すこし、べらぼうじゃないか」
「どういたしまして、土盛つちもりの人足賃にんそくちんだって、やすかあございません。――それにサ、もうこの界隈かいわいには地所じしょはありませんぜ」
「なあに、まだ、あのとお埋立うめたてているじゃないか」
「ところが、よしえているうちから、みんないで、買手かいてっている地所じしょなんざ、十坪じゅっつぼだってありませんや。――もっとも、ずっと隅田川すみだがわ河原寄かわらよりならいくらかありやすがね」
「ほんとに、八百坪はっぴゃくつぼあるのかい、この地面じめんは」
「だからねんのために、なわいてごらんなすって」
 五名ごめい町人ちょうにんどうしで、しきりと、土地売買とちばいばい取引とりひきをしているのだった。
 そのだんを、往来おうらいごしにいて、おすぎばばは、をまろくした。田舎いなかならこめのできる何十枚なんじゅうまいというあたいが、ここの一坪ひとつぼ二坪ふたつぼあたいだった。
 江戸えど町人ちょうにんのあいだにはいま熱病ねつびょうのように、土地売買とちばいばい思惑おもわくおこなわれているので、こんな風景ふうけいは、随所ずいしょられるのであったが、
こめらなければ、まちなかでもない地面じめんを、どうしてここらのしゅうはあんなにうのか」
 と、彼女かのじょには、不思議ふしぎでならなかった。
 そのうちに取引とりひき相談そうだんがまとまったのであろう。埋地うめちっていた人影ひとかげは、手打てうちをしてらかってった。
「――おやっ?」
 ぼんやりと、そんなものているうちに、だれ背後うしろて、自分じぶんおびれたものがあるので、ばばはそのつかんで、
泥棒どろぼうっ」
 と、さけんだ。
 小出こだしの財布さいふはもうおびあいだけて、土工つちくかごかきらしいおとこつかまれたまま、往来おうらいほうんでいた。
「――泥棒どろぼうじゃっ」
 自分じぶんくびってかれたように、ばばはすがって、おとここしへしがみついた。
「――てくだされッ。往来おうらいしゅうッ。盗人ぬすっとじゃっ」
 ひとつやふたつ、かおっても、容易よういにばばのはなれないので、あましたさらいは、
「うるせえっ」
 と、いいながら、あしをあげて、ばばの脾腹ひばらとばした。
 なみたいていの老婆ろうば心得こころえたのがその小泥棒こどろぼうには不覚ふかくであった。うむうっ――とうめいてばばはたおれたものの、それとともに、襦袢じゅばん一重ひとえになってもしていた小脇差こわきざしを、きざまにむくいて、相手あいてあしくびをっていた。
「アててて」
 財布さいふった小泥棒こどろぼうは、片足かたあしきずったままそれでも十間じゅっけんばかりげたが、おびただしいがこぼれるのをて、貧血ひんけつして、往来おうらいすわってしまった。
 いま埋地うめち土地とち手打てうちをして、一人ひとり乾児こぶんともあるいていた半瓦はんがわら弥次兵衛やじべえは、
「――やっ? そいつあこのあいだまで、部屋へやにごろついていた甲州者こうしゅうものじゃねえか」
「そうのようです。財布さいふにぎっていますぜ」
泥棒どろぼうというこえきこえたが、部屋へやても、まだ手癖てくせがやまねえな。……おお彼方むこう老婆としよりたおれている。甲州者こうしゅうものはおれがつかまえているから、あの老婆としよりいたわってい」
 半瓦はんがわらは、そういうと、げかける小泥棒こどろぼうえりがみをつまんで、ばったでもたたきつけるように、空地あきちほうほうした。

親分おやぶん、そいつが、ばあさんの財布さいふっているはずですが」
財布さいふはおれがかえしてあずかっている。としよりはどうした」
「たいして怪我けがもございません。うしなっていましたが、がつくとすぐあのとお財布財布さいふさいふわめいております」
すわっているじゃねえか。てねえのか」
「そいつに、脾腹ひばらとばされたんで」
「よくねえやつだ」
 半瓦はんがわらは、小泥棒こどろぼうめつけて、乾児こぶんおとこへいいつけた。
うしくいて」
 くいて――とくと甲州者こうしゅうもの小泥棒こどろぼうは、刃物はものてられたよりふるえあがって、
親分おやぶん、それだけは、どうぞご勘弁かんべんを。以後いご改心かいしんして、よくはたらきますから」
 ひれして、おがんだが、半瓦はんがわらくびって、
「ならねえ、ならねえ」
 そのあいだに、はしってった乾児こぶん仮橋かりばし普請ぶしんをしている大工だいく二人連ふたりつれてて、
「このへんってくれ」
 と、空地あきちなかほどをあししめして大工だいくへいう。
 ふたりの大工だいくは、そこへ一本いっぽんくいちこんで、
半瓦はんがわら親分おやぶん、これでようがすか」
「よしよし。野郎やろうをそこへふんじばって、あたまうえのあたりへ、いた一枚打いちまいうってくれ」
「なにか、おきになるので」
「そうだ」
 大工だいくすみつぼをりて、それへ差尺筆さしがねふでで、

  ひとツ 泥棒一どろぼういっぴき
  せんだってまで半瓦はんがわら部屋へや飯食めしくもの再度悪事さいどあくじのかど之有これあそうろうにつき、あまざらしざらし、七日七晩なのかななばんきゅうめいさせ置候おきそうろうものなり。

       大工町だいくちょう
   弥次兵衛やじべえ

「ありがとう」
 すみかえして、
「すまねえが、なねえほどに、弁当飯べんとうめしのあまりでも、時々ときどきエサをやっといてくれ」
 と、橋普請はしぶしん大工だいくや、ちかくではたらいている土工つちくたちへたのんだ。
 一同いちどうくちそろえて、
承知しょうちいたしました。たんとわらってやりやしょう」
 と、いった。
 わらってやるということは、町人社会ちょうにんしゃかいでさえ、このうえもない制裁せいさいであった。年久としひさしく武家ぶけ武家ぶけ戦争せんそうばかりしていて、民治みんじ刑法けいほうがゆきとどかないために、町人社会ちょうにんしゃかいはそれ自体じたい秩序ちつじょのために、こういう私刑しけい方法ほうほうっていた。
 新興しんこう江戸政体えどせいたいには、もう町奉行まちぶぎょう組織そしきだの、大庄屋制度だいしょうやせいどをそのままいかめしく延長えんちょうしたような職制しょくせい民治みんじていをなしかかっていたが、民間みんかん旧習きゅうしゅうというものは、うえができたからといって、にわか余風よふうあらたまるものではない。
 けれど、私刑しけいふうなどは、新開発しんかいはつ半途はんとにある混雑こんざつ社会しゃかいには、まだ当分とうぶんあってもよいものとして、町奉行まちぶぎょうでも、べつにこれを取締とりしまることはしなかった。
うし、そのとしよりへ、財布さいふかえしてやれ」
 半瓦はんがわらは、それをおすぎばばのもどしてから、また、
「かあいそうに、このとしして、ひとりたび様子ようすじゃねえか。……着物きものはどうしたんだ」
風呂小屋ふろごやよこに、洗濯せんたくして、してありますが」
「じゃあ着物きものって、としよりをぶってい」
いえれてかえるんで?」
「そうよ、ぬすだけらしたってこのとしよりをてておいたら、またどいつかがわる量見りょうけんおこさねえともかぎるまい」
 生乾なまがわきの着物きものかかえ、彼女かのじょなかにぶって、乾児こぶんおとこが、半瓦はんがわらのあとにいてそこをると、往来おうらいにつかえていた人垣ひとがきも、ぞろぞろと東西とうざいくずれだした。

 日本橋にほんばしは、竣工できてからまだ一年いちねんまれていなかった。
 のち錦絵にしきえなどでるよりも、そこの河幅かわはばはずっとひろくて、両岸りょうがんからあたらしい石垣いしがき築出つきだしがきずかれ、そこにまだあたらしい白木しらき欄干らんかんかっていた。
 鎌倉船かまくらぶねや、小田原船おだわらぶねが、はしきわまでいっぱいにはいってった。そのむこ河岸がしに、さかなくさい人間にんげんがわいわいといちてている。
「……いたい。うういたい」
 ばばは、乾児こぶんなかで、かおをしかめながらも、魚市場うおいちば人声ひとごえ何事なにごとかと、をみはった。
 半瓦はんがわらは、乾児こぶんから、時々聞ときどききこえるうめきをふりいて、
「もうきだよ、辛抱しんぼうしねえ、生命いのち別条べつじょうがあるじゃなし、あまうなりなさんな」
 往来おうらいものが、しきりと振向ふりむくので、こう注意ちゅういしたのである。
 それからは、おとなしくなって、ばばは嬰児あかごみたいに、乾児こぶんかおかせていた。
 鍛冶かじちょうだの、槍町やりちょうだの、紺屋こんやちょうだの、畳町たたみちょうだの、職人色しょくにんしょくまちがわかれていた。大工町だいくちょう半瓦はんがわらいえは、そのなかでひどくかわっていた。屋根やね半分はんぶんかわらいてあるのが、だれにもついた。
 三年さんねんまえ大火以後たいかいごまちいえ板屋葺いたやぶきになったが、その以前いぜんは、草葺くさぶき屋根やねがおおかたであった。弥次兵衛やじべえ往来おうらいむかったほうだけ、かわらいたので、
半瓦はんがわら半瓦はんがわら)と、それがとおになってしまい、自分じぶん得意とくいだった。
 江戸えど移住いじゅうしてはじめは、弥次兵衛やじべえはただの牢人者ろうにんものだったが、才気さいき侠気きょうきそなわっているので、ひとぎょすのが上手じょうず町人ちょうにんになって、屋根やね請負うけおいをはじめ、やがて、諸侯しょこう普請ふしん人足にんそく請負うけおうようになり、また、土地とち売買ばいばいをやったりして、いまでは懐手ふところでをして「親分おやぶん」という特殊とくしゅ敬称けいしょうをうけている。
親分おやぶん」とよばれる特殊とくしゅ権力家けんりょくかは、あたらしい江戸えどにはいまかれのほかにも、簇生ぞくせいしてきた。しかしかれはそのなかでもかおのひろい「親分おやぶん」であった。
 まちものは、武家ぶけをさむらいと尊敬そんけいするように、かれらの一族いちぞくをも「おとこ伊達だて」と敬称けいしょうして、むしろ武家ぶけ下風かふうにある自分じぶんたちの味方みかたものとしていた。
 この男伊達おとこだても、江戸えどてから、風俗ふうぞくだの精神せいしんおおいに変化へんかしたが、江戸えどまちから発生はっせいしたきではない。足利あしかがすえ乱世らんせいには、もう茨組いばらぐみなどという徒党ととうがあって――もちろんそれは男伊達おとこだてなどとは敬称けいしょうされなかったが、「室町殿物語むろまちどのものがたり」などによると、

  ソノ装束しょうぞくハ、赤裸セキラ茜染アカネゾメ下帯したおび小王コワウチノ上帯うわおび幾重いくえニモマハシ、三尺八寸さんじゃくはっすん朱鞘シユザヤかたな一尺八寸いっしゃくはっすんカセ、二尺一寸にしゃくいっすん打刀ウチガタナどうジニ仕立したテ、あたまかみヲツカミみだシ、荒縄あらなわニテ鉢巻はちまきムズトシメ、黒革クロカハ脚絆キヤハンヲシ、同行ドウカウつね二十人にじゅうにんバカリ、熊手くまでマサカリナドニナフモアリテ……

 そして群集ぐんしゅうはそれをると、
当時聞とうじきこゆる茨組いばらぐみぞ、あたりへるな、ものいうな)
 と、おそれて、みちをあけてとおしたほどな威勢いせいであったとある。
 その茨組いばらぐみは、くちには王義おうぎとなえながら、ときには、
物奪ものと強盗ごうとう武士ぶしならい)
 とかけ、市街戦しがいせんときには、乱破らっぱけて、てきへも味方みかたへも節操せっそうりなどしたため、平和へいわになると、武家ぶけからも民衆みんしゅうからもわれてしまい、素質そしつわるいのは、山野さんやふうじこめられて追剥稼おいはぎかせぎにち、性骨しょうぼねのあるものは、新開発しんかいはつ江戸えどという天地てんちつけて、ここにおこりかけてある文化ぶんかざめ、
正義せいぎほねに、民衆みんしゅうにくに、きょうおとこらしさをかわにして――)
 新興男伊達しんこうおとこだてなるものが、いろいろな職業しょくぎょう階級かいきゅうなかからいま名乗なのりをあげているのだった。
かえったぞ、どいつか、ねえか。――おきゃくさまをおもうしているのだ」
 半瓦はんがわらは、自分じぶんいえはいると、おおまかな町屋造まちやづくりのおくむかって、こう呶鳴どなった。