36・宮本武蔵「地の巻」「花田橋(2)(3)」


朗読「地の巻36.mp3」15 MB、長さ: 約10分46秒

 じつは、こころのそこでは、いたくていたくて、うしろがみをひかれるようなあねのおぎんにさえ、をつぶって、わずにあしはやめてこころさきである。
(なんで!)
 と、武蔵むさしは、勃然ぼつぜん自分じぶんへいう。
 ――なんで、これからの修業しゅぎょう旅出たびでに、おんななどをれてあるかれるものか。
 しかも、このおんななるものは、かりそめにも本位田又八ほんいでんまたはち許婚いいなずけであったもの。あのお杉婆すぎばばにいわせれば、むこはいなくとも、
(うちの嫁女よめご
 であるおつうではないか。
 武蔵むさしは、自分じぶんかおに、にが気持きもちにじみでるのをどうしようもなく、
れてけとは、何処どこに」
 と、ぶっきらぼうにいった。
「あなたのところへ」
「わしのゆくさきは、艱苦かんくみちだ、あそびに遍路へんろするのではない」
「わかっております、あなたのご修業しゅぎょうはおさまたげしません、どんなくるしみでもします」
おんなづれの武者修業むしゃしゅぎょうがあろうか。わらいぐさだ、そでをおはなし」
「いいえ」
 おつうは、よけいにつよく、かれたもとにぎって、
「それでは、あなたは、わたしだましたのですか」
「いつ、そなたをだましたか」
中山越なかやまごえのとうげのうえで、約束やくそくしたではありませんか」
「む……。あのときは、うつつだった。自分じぶんからいったのではなく、そなたの言葉ことばに、くまま、うんと、こたえただけであった」
「いいえ! いいえ! そうはいわせません」
 たたかうように、おつうせまって、武蔵むさしからだを、花田橋はなだばし欄干らんかんしつけた。
千年杉せんねんすぎうえで、わたしがあなたの縄目なわめときにもいいました。――一緒いっしょげてくれますかと」
はなせ、おい、ひとる」
たって、かまいません。――そのときわたしすくいをうけてくれますかといったら、あなたは歓喜かんきこえをあげ、オオ、ってくれこの縄目なわめってくれ! 二度にどまでも、そうさけんだではありませんか」
 ことわりをもってめてはいるが、なみだでいっぱいな彼女かのじょは、ただ情熱じょうねつであった。
 武蔵むさしは、ことわりにおいても、かえ言葉ことばがなかったし、情熱じょうねつにおいては、なおさらてられて、自分じぶんまであついものになってしまった。
「……おはなし……昼間ひるまだ、往来おうらいひといてゆくじゃないか」
「…………」
 おつう素直すなおたもとをはなした。そしてはし欄干らんかんすと、びんをふるわせてしゅくしゅくとした。
「……すみません、つい、はしたないことをいいました。恩着おんきせがましいいまのことば、わすれてください」
「おつうどの」
 欄干らんかんかおをさしのぞいて、
じつは、わしは今日きょうまで、九百幾十日きゅうひゃくいくじゅうにちあいだ――そなたがここでわしをっていたあいだ――あの白鷺城はくろじょう天守閣てんしゅかくのうえに、ずにこもっていたのだ」
うかがっておりました」
「え、っていた?」
「はい、沢庵たくあんさんからいていましたから」
「じゃあ、あの御坊おぼう、おつうどのへは、なにもかもはなしていたのか」
三日月茶屋みかづきぢゃやした竹谷たけだにで、わたしうしなっていたところを、すくってくれたのも、沢庵たくあんさんでした。そこの土産物屋みやげものや奉公口ほうこうぐちつけてくれたのも沢庵たくあんさんです。――そして、おとこおんなのことだ。これからさきらないヨ、となぞみたいなことをいって、昨日きのうみせでおちゃんでゆきました」
「アア。そうか……」
 武蔵むさしは、西にしみち振向ふりむいた。たったいまわかれたひとと、いつまた、があるだろうか。
 いまになって、さらに、沢庵たくあんおおきなあいかんなおした。自分じぶんへだけの好意こういかんがえていたのは自分じぶんちいさいからだった。あねへだけでもない、おつうへも、だれへも、そのおおきな平等びょうどうとどいていたのである。

(――おとこおんなのことだ。これからさきは、らないよ)
 そう沢庵たくあんがいいのこしてったとくと、武蔵むさしは、こころ用意よういしていなかったおもいものを、ふいに、かたわされたがした。
 九百日きゅうひゃくにちかずので、さらしてきた尨大ぼうだい和漢わかん書物しょもつなかにも、こういう人間にんげん大事だいじ一行いちぎょうもなかったようである。沢庵たくあんもまたおとこおんな問題もんだいだけは、われかんせずえん、とげた。
(――おとこおんなのことは、おとこおんなかんがえるほかはない)
 そういう暗示あんじか、
(それくらいなことは、せめて自分じぶんさばいてみるがいい)
 と自分じぶんげた試金石しきんせきか。
 武蔵むさしは、おもしずんだ。――はししたみずをじっとつめたまま。
 するとこんどは、おつうからそのかおをさしのぞいて、
「いいでしょう。……ネ、ネ」
 と、すがる。
「いつでも、おみせでは、ひまくださる約束やくそくになっているんですから、すぐわけをはなして、支度したくをしてます。っていてくださいましね」
たのむ!」
 武蔵むさしはおつうしろはし欄干らんかんおさえつけた。
「――おもなおしてくれ」
「どういうふうに」
最前さいぜんもいったとおり、わしは、やみなか三年さんねんしょみ、もだえにもだえ、やっと人間にんげんのゆくみちがわかって、ここへうまれかわってたばかりなのだ。これからが宮本みやもと武蔵たけぞうの――いや武蔵むさしあらためたこの大事だいじ一日一日いちにちいちにち修業しゅぎょうのほかに、なんのこころもない。そういう人間にんげんと、一緒いっしょなが苦艱くかんみちあるいても、そなたはけっして、しあわせではあるまいが」
「そうけばくほど、わたしこころはあなたにひきつけられます。わたしはこのなかで、たった一人ひとりのほんとの男性おとこつけたとおもっております」
なんといおうが、れてはゆかれぬ」
「では、わたしは、どこまでも、おしたもうします。ご修業しゅぎょう邪魔じゃまさえしなければよいのでしょう。……ね、そうでしょう」
「…………」
「きっと、邪魔じゃまにならないようにしますから」
「…………」
「ようございますか、だまってってしまうと、わたしおこりますよ。ここでっていてくださいね。……すぐますから」
 そう自問自答じもんじとうして、おつうは、いそいそと、橋袂はしたもとかご細工屋ざいくやのほうへけてく。
 武蔵むさしは、そのすきに、反対はんたいほうへ、をつぶってってしまおうとしたのである。だが意志いしがわずかにうごいただけで、あしくぎちつけられたようにうごかなかった。
「――いやですよ、っては」
 振向ふりむいて、おつうが、ねんしていう。そのしろ笑靨えくぼへ、武蔵むさしおもわずうなずきをせてしまった。彼女かのじょは、相手あいて感情かんじょうけると、もう、安心あんしんしたように、籠細工屋かございくやなかへかくれた。
 いまだ。――るならば。
 武蔵むさしこころが、武蔵むさしつ。
 だが、かれまぶたには、いまのおつうしろ笑靨えくぼが――あのあわれっぽいようなあいくるしいようなひとみが――からだしばりつけていた。
 いじらしい! あれほどに自分じぶんしたってくれるものが、姉以外あねいがいにこの天地てんちにあろうとはおもえない。
 しかもけっして、きらいではないおつうである。
 そら――みず――武蔵むさし悶々もんもんはし欄干らんかんいだいていた。まよっていた。そのうちに、ひじかおせかけているその欄干らんかんから、なにをしているのか、しろ木屑きくずが、ボロボロこぼれちては、みずながれてった。

 浅黄あさぎ脚絆きゃはんに、あたらしいわらじを穿いて、市女笠いちめがさあかあぎとむすんでいる。それがおつうかおによくあう。
 だが――
 武蔵むさしはすでに其処そこにはいなかったのであった。
「あらっ」
 彼女かのじょはおろおろごえしてさけんだ。
 さっき武蔵むさしただずんでいたあたりには、木屑きくずりこぼれていた。ふと欄干らんかんうえると、小柄こづかった文字もじあとが、ただこう白々しろじろのこされていた。

ゆるしてたもれ
ゆるしてたもれ