32・宮本武蔵「地の巻」「弱い武蔵(1)(2)」


朗読「地の巻32.mp3」14 MB、長さ: 約10分21秒

よわ武蔵たけぞう

 きのうもえたが、また、きょうもえる。
 日名倉ひなぐら高原こうげん十国岩じゅっこくいわのそばに、そのいわあたまちたように、ぽつんと、一個いっこくろものすわっている。
「――なんだろう」
 と、番士ばんしたちは、小手こてをかざしていた。
 生憎あいにくと、のひかりがにじのようにみなぎっていてよくさだめがつかない。そこで一人ひとりが、
うさぎだろう」
 と、いい加減かげんにいうと、
うさぎよりおおきい。鹿しかだ」
 と一方いっぽうはいう。
 いやちがう、鹿しかうさぎがあんなにじっとしているはずはない、やはりいわだ、とかたわらからほかものとなえると、
いわかぶが、一夜いちやえるはずはない」
 と、異説いせつる。
 するとまた、饒舌じょうぜつなのが、
いわ一夜いちやえるれいはいくらもある。隕石いんせきといって、そらからる」
 と、ぜかえす。
「まあ、どうでもいいじゃないか」
 と、いつも暢気のんきなのが、なかってすと、
なんでもよいということがあるか。われわれは、この日名倉ひなぐら木戸きどなんのためにっているのか。但馬たじま因州いんしゅう作州さくしゅう播磨四はりまよんこくにわたる往来おうらい国境くにざかいとを、こうして、げんとしてまもっているのは、ただろく頂戴ちょうだいして、なたぼッこをしていよというためではあるまいが」
「わかったよわかったよ」
「もしあれが、うさぎでもいしでもなく、人間にんげんだったらどうする?」
失言しつげん失言しつげん。もういいじゃないか」
 なだめて、やっとおさまったとおもうとまた、
「そうだ、人間にんげんかもれないぞ」
「まさか」
なんともわからない、ためしに、遠矢とおやてみろ」
 早速さっそく番所ばんしょからゆみしてたのが、弓自慢ゆみじまんとみえ、片肌かたはだはずして、をつがえ、キリキリとしぼった。
 問題もんだい目標もくひょうは、ちょうど、番所ばんしょのある地点ちてんからふか谷間たにまへだてているむこうがわのなだらかな傾斜けいしゃと、みきったそらとのさかいにポツンとくろえるのである。
 ヒュッ――
 は、ひよどりのように、たにをまっすぐにわたってった。
ひくい」
 と、うしろでいう。
 が、すぐうなった。
「だめ、だめ」
 くって、こんどはほかものねらう。それは、たに途中とちゅうしずんでしまった。
なにさわいでいるかっ」
 番所ばんしょめている山目付やまめつけ武士さむらいて、そうくと、
「よし、おれせ」
 と、ゆみった。これは、うでにおいて、あきらかに、だんがちがう。
 まんをひいて、矢筈やはずをキキとらしたとおもうと、山目付やまめつけは、つるをもどして、
「こいつは、滅多めったはなせん」
「なぜですか」
「あれは、人間にんげんだ。――人間にんげんとすれば、仙人せんにんか、他国たこく隠密おんみつか、たにへとびんでのうとかんがえているものか。とにかく、つかまえてい」
「それみろ」
 さきに、人間説にんげんせつとなえた番士ばんしはなうごめかして、
「はやくい」
「オイて。つかまえるはいいが、何処どこからあのみねわたるか」
たにづたいでは」
絶望ぜつぼうだ」
為方しかたがない、中山なかやまのほうからまわれ」

 じっと、うでんだまま、武蔵たけぞうは、たにをへだててえる日名倉ひなぐら番所ばんしょ屋根やねにらんでいた。
 幾棟いくむねかあるあの屋根下やねしたひとつには、あねのおぎんつかまっているのだとおもう――
 だが、かれは、きのうも一日いちにちこうしてすわりこんでいたし、今日きょうも、容易よういちあがる気色けしきはなかった。

 なんの番所侍ばんしょざむらい五十人ごじゅうにん百人ひゃくにん
 ここまでは、そうおもって武蔵たけぞうであったが――さて。
 かれは、すわりこんで、その番所ばんしょ一目ひとめえるところからつらつらあんじるに、一方いっぽうふか谷間たにま往来おうらい二重木戸にじゅうきど
 くわうるに、ここは高原こうげんなので、十方じっぽう碧落へきらくをかくすべき一木いちぼくもないし、高低こうていもない。
 夜陰よかげじょうじてこと為遂しとげるのは、もとよりこんな場合ばあい法則ほうそくだが、そのよるない夕刻ゆうこくから、番所ばんしょまえ往来おうらいは、いちさくさくまって、すわといえば鳴子なりこりそうだ。
ちかづけない!)
 武蔵たけぞうは、はらのそこでうなった。
 そして二日ふつかあいだも、十国岩じゅっこくいわしたすわりこんで、作戦さくせんかんがえたが、いい智恵ちえもなく、
駄目だめだ!)
 とおもった。一死いっししてもという気力きりょくずそこにくじかれたかたちである。
(はてな、おれは、どうしてこんな臆病者おくびょうものになったのか)
 すこし自分じぶんがゆくもおもった。――こんなよわおれではなかったはずなのに、とわれう。
 うでぐみは、半日経はんにちたっても、けなかった。――どうしたものか、こわいのだ! しきりと、その番所ばんしょちかづいてゆくことがこわいのである。
おれは、こわがりになった。たしかに、ついこのあいだおれとはちがってしまった。――だが、これは一体いったい臆病おくびょうというものだろうか)
 いな
 とかれ自分じぶんくびをふった。
 この気持きもちは、臆病おくびょうなためにおこっているのではない。沢庵坊たくあんぼうから、智恵ちえまれたためだ。盲目もうもくがあいて、かすかに、ものはじめたからである。
 人間にんげん勇気ゆうきと、動物どうぶつゆうとはしつがちがう。しん勇士ゆうしゆうと、生命いのちらずのあばれンぼの無茶むちゃとは、根本的こんぽんてきにちがうものであるともあのひとおれおしえた。
 があいたのだ。――こころが、なにかこうなかこわさがうッすらとえだしてたために、うまれながらのおのれにかえってしまったのだ。――うまれながらのおれけっして野獣やじゅうではない、人間にんげんだった。
 その人間にんげんになろうとおもった途端とたんに、おれは、なにものよりも、このけている生命いのちというものが大事だいじになってしまった。――うまたこのにおいて、どこまで自分じぶんというものがみがげられるか――それを完成かんせいしてみないうちに、この生命せいめいをむざとおとしてしまいたくないのである。
「……それだ!」
 われ見出みいだして、かれそらあおいだ。
 だが――あねすくわずにはおけない。たとえ、それほどしいそれほどこわいま気持きもちおかしてもである。
 よるになったら、今夜こんやはこの絶壁ぜっぺきりて、あなたの絶壁ぜっぺきがってみよう。この天嶮てんけんをたのんで、番所ばんしょ裏手うらてにはさくもなし、手薄てうすでもあるらしい。
 ――そうおもめていたときである。あしのつまさきからすこはなれたところへ、ぶすっと一本いっぽんった。
 がついてみると、彼方かなた番所ばんしょうらに、まめつぶほどな人間にんげん多勢出おおぜいでて、どうやら自分じぶんかげつけてさわいでいるらしいのだ。そしてすぐ、らかってしまった。
「――ためだな」
 わざと、かれうごかずにじっとしていた。もなく、中国山脈ちゅうごくさんみゃく西にし荘厳そうごん落日らくじつ光耀こうようはうすずきかけた。
 よるたれた。
 って、かれは、小石こいしをひろった。かれ晩飯ばんめしそらんでいるのだ。小石こいしげると、そらから、小鳥ことりちた。
 その小鳥ことり生肉なまにくいて、むしゃむしゃべていると、三十人さんじゅうにん番士ばんしたちが、わっとこえあわせて、かれのまわりをりかこんだ。