朗読「288空の巻29.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 47秒
六
「朱実さあん。朱実さあん。――死んじゃいけないよ」
城太郎は追いかけてゆく。
朱実は先へ走ってゆく。
暗い方へ、暗い方へと。
先が闇であろうと、沼であろうと無鉄砲に駈けているもののように見えるが、朱実は、城太郎が泣き声だして、後ろで呼んでいることを知っている。
ひそかな芽生えを乙女の胸にもちながら、その芽を、あらぬ男に――あの吉岡清十郎にふみにじられて――住吉の海へまっしぐらに駈けこんだ時には、ほんとに、死の彼方まで行く気であったが――今の朱実には、その口惜しさだけがあっても、それまでの純真さはすでにない。
(誰が、死ぬものか)
と、自分へいいながら、ただわけもなく、城太郎が後ろから駈けて来るのが面白くて、世話をやかせてやりたいのだった。
「あっ、あぶないっ」
城太郎は、呶鳴った。
彼女の先に、濠の水らしいものが、闇に見えたからであった。
たじろぐ彼女を後ろからひしと抱き止めて、
「朱実さん、およしよ、およしよ。死んだってつまらないじゃないか」
引きもどすと、よけいに、
「だって、おまえだって、武蔵様だって、みんなあたしを、悪者のように思ってるじゃないか。あたしは、死んでこの胸に、武蔵様を抱いてゆく。……そして添わせるものか、あんな女に」
「どうしたのさ。何が、どうしたのさ」
「さあ、その濠の中へ、あたしを突きとばしておくれ。……よ、よ、城太さん」
そして両手を顔に当て、さめざめと、泣きぬくのであった。
城太郎は、その姿を見て、ふしぎな恐さに取り憑かれていた。自分も泣きたくなったらしく、
「……ネ。帰ろう」
と、宥めると、
「ああ、会いたい。城太さん――探して来ておくれ。武蔵様を」
「だめだよ、そんな方へ歩いてゆくと」
「――武蔵様」
「あぶないッたら」
この二人が居酒屋の横町を駈け出した時から、すぐ後を尾けて来た牢人者は、その時、狭い濠を繞らした屋敷の角から、嗅ぎ寄るように歩いて来て、
「こら、子ども。……この女は、おれが後から送り届けてやる。お前は帰ってもいい」
と、朱実の体を、いきなり小脇に抱きしめて、城太郎を突き退けた。
身丈のすぐれた三十四、五の男である。かなつぼ眼に青髯のあとが濃い。関東風というのか、江戸へ近づくに従って、ひどく眼につくのが、着物や裾の短いことと、刀の大きいことだった。
「おや?」
見上げると、下顎から右の耳へかけて、刀の切先で撫であげられた古傷が、桃の割れ目のように歪んでいる。
(強そうなやつだぞ)
と思ったのであろう。城太郎は生唾をのんで――
「いいよ、いいよ」
朱実を連れ戻そうとすると、
「みろ、この女は、やっと虫が納まって、いい気持そうに、おれの腕の中に締められて寝てしまった。おれが連れて帰ってやる」
「だめだよ、おじさん」
「帰れっ」
「……?」
「帰らないな」
ゆっくり、手をのばして、城太郎の襟がみをつかむと、城太郎は、羅生門の綱(渡辺綱のこと)が鬼の腕に耐えるように踏んばって、
「な、なにをするのさ」
「この餓鬼め、溝の水を喰らって帰りたいか」
「なにをっ」
この頃は、体以上の木剣も、やや手について、ひねり腰に抜くがはやいか、牢人の横腰をなぐりつけた。
――しかし、自分の体も途端に、あざやかなもんどりを宙に打って、溝へは落ちなかったが、どこか、そこらの石にでもぶつけたらしく、ううむと唸って、それなり動きもしなかった。
七
ひとり城太郎に限らず子供というものはよく気絶する。大人のような遅疑がないので、事にぶつかると、素純なたましいは、この世とあの世の境を、つい弾みでも、超えてしまうのであろう。
「おーい、子どもう」
「お客さん」
「子ども……ウ」
耳元で、かわるがわるに呼ばれて、城太郎は、大勢の中に介抱されている自分を、ぱちぱち見まわした。
「気がついたかい」
皆に問われて、城太郎は、間がわるそうに、自分の木剣を拾うが早いか、歩き出した。
「これこれ、お前と一緒に出た女子はどうした」
宿屋の手代は、あわてて彼の腕をつかまえた。
そう訊かれて、彼は初めて、この人々が、奥に泊っている角屋の者と、旅籠の雇人たちで、朱実を探しに来たものと知った。
誰が発明したのか、重宝がられて上方でも流行っている「ちょうちん」と呼ぶ物が、もう関東にも来ているとみえ、それを持った男だの、棒切れを持った若者などが、
「おまえと、角屋の女子が、侍につかまって、難儀をしていると、知らせてくれた者があるのだ。……何処へ行ったかおまえは知っているだろうが」
城太郎は、首を振って、
「知らない。おいらは、何も知らない」
「何も? ……ばかをいえ、何も知らぬことがあるものか」
「何処か、彼方のほうへ、抱えて行ったよ。それきりしか、知らない」
城太郎は、とかく返辞をいいしぶった。関り合いになって、後で奈良井の大蔵に叱られることが恐かったのと、もう一つの理由は、相手に抛りつけられて、気絶してしまった不覚を、大勢の前でいうのが、間がわるいのであった。
「どっちだ。その侍の逃げた方は」
「あっちだ」
指さしたのも、いい加減であったが、それっと、大勢が駈け出すとすぐ、ここにいた、ここにいたと、先で叫ぶ者がある。
提燈や棒が駈け集まってみると――朱実はしどけない姿を農家の藁小屋らしい陰に曝していた。その辺に積んである乾草の上に押し仆されていたものとみえ、人の跫音に驚いて、髪も着物も、わらや乾草だらけになって、起き上がっていたが、襟はひらいているし、帯はだらりと解けている――
「まあ、どうしたのじゃ」
提燈の明りに、それを見た人々は、すぐ或る犯行を直感したが、さすがに、口へいい出す者もなく、犯行者の牢人者を追うことも忘れていた。
「……さ、お帰り」
手をひくと、その手を払って、彼女は小屋の羽目へ顔を当てたまま、よよと、声をあげて、泣きじゃくった。
「酔っているらしいね」
「何でまた、戸外で酒など?」
人々は、しばらく、彼女の泣くにまかせて、見まもっていた。
城太郎も、遠くからその様子を覗いていた。彼女がどんな目に遭ったのか、彼にははっきり頭に描くことはできなかったが、彼はふと、朱実とはまるで縁のない過去の或る体験を思いだしていた。
それは、大和の柳生の庄のはたご屋に泊った時、はたごの小茶ちゃんという少女と、馬糧小屋のわらの中で、抓ったり、かじりついたりして、ただ狆ころのように、人の跫音を恐れるおもしろさを味わった――あの経験であった。
「行こうッ――と」
すぐ、つまらなくなって、城太郎は駈けだした。駈けながら、たった今、あの世のてまえまで行った魂を、この世に遊ばせて歌いだした。
野なかの、野中の
金ぼとけ
十六娘をしらないか
迷った娘を知らないか
打っても、カーン
訊いても、カーン