288・宮本武蔵「空の巻」「火悪戯(6)(7)」


朗読「288空の巻29.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 47秒

朱実あけみさあん。朱実あけみさあん。――んじゃいけないよ」
 城太郎じょうたろういかけてゆく。
 朱実あけみさきはしってゆく。
 くらほうへ、くらほうへと。
 さきやみであろうと、ぬまであろうと無鉄砲むてっぽうけているもののようにえるが、朱実あけみは、城太郎じょうたろうこえだして、うしろでんでいることをっている。
 ひそかな芽生めばえを乙女おとめむねにもちながら、そのを、あらぬおとこに――あの吉岡清十郎よしおかせいじゅうろうにふみにじられて――住吉すみよしうみへまっしぐらにけこんだときには、ほんとに、彼方あなたまでであったが――いま朱実あけみには、その口惜くやしさだけがあっても、それまでの純真じゅんしんさはすでにない。
だれが、ぬものか)
 と、自分じぶんへいいながら、ただわけもなく、城太郎じょうたろううしろからけてるのが面白おもしろくて、世話せわをやかせてやりたいのだった。
「あっ、あぶないっ」
 城太郎じょうたろうは、呶鳴どなった。
 彼女かのじょさきに、ほりみずらしいものが、やみえたからであった。
 たじろぐ彼女かのじょうしろからひしとめて、
朱実あけみさん、およしよ、およしよ。んだってつまらないじゃないか」
 きもどすと、よけいに、
「だって、おまえだって、武蔵様むさしさまだって、みんなあたしを、悪者わるもののようにおもってるじゃないか。あたしは、んでこのむねに、武蔵様むさしさまいてゆく。……そしてわせるものか、あんなおんなに」
「どうしたのさ。なにが、どうしたのさ」
「さあ、そのほりなかへ、あたしをきとばしておくれ。……よ、よ、城太じょうたさん」
 そして両手りょうてかおて、さめざめと、きぬくのであった。
 城太郎じょうたろうは、その姿すがたて、ふしぎなこわさにかれていた。自分じぶんきたくなったらしく、
「……ネ。かえろう」
 と、なだめると、
「ああ、いたい。城太じょうたさん――さがしてておくれ。武蔵様むさしさまを」
「だめだよ、そんなほうあるいてゆくと」
「――武蔵様むさしさま
「あぶないッたら」
 この二人ふたり居酒屋いざかや横町よこちょうしたときから、すぐあとけて牢人者ろうにんものは、そのときせまほりめぐらした屋敷やしきかどから、るようにあるいてて、
「こら、ども。……このおんなは、おれがあとからおくとどけてやる。おまえかえってもいい」
 と、朱実あけみからだを、いきなり小脇こわききしめて、城太郎じょうたろう退けた。
 身丈みのたけのすぐれた三十四さんじゅうしおとこである。かなつぼまなこ青髯あおひげのあとがい。関東風かんとうふうというのか、江戸えどちかづくにしたがって、ひどくにつくのが、着物きものすそみじかいことと、かたなおおきいことだった。
「おや?」
 見上みあげると、下顎したあごからみぎみみへかけて、かたな切先きっさきであげられた古傷ふるきずが、もものようにゆがんでいる。
つよそうなやつだぞ)
 とおもったのであろう。城太郎じょうたろう生唾なまつばをのんで――
「いいよ、いいよ」
 朱実あけみもどそうとすると、
「みろ、このおんなは、やっとむしおさまって、いい気持きもちそうに、おれのうでなかめられててしまった。おれがれてかえってやる」
「だめだよ、おじさん」
かえれっ」
「……?」
かえらないな」
 ゆっくり、をのばして、城太郎じょうたろうえりがみをつかむと、城太郎じょうたろうは、羅生門らしょうもんつな渡辺綱わたなべつなのこと)がおにうでえるようにんばって、
「な、なにをするのさ」
「この餓鬼がきめ、どぶみずらってかえりたいか」
「なにをっ」
 このごろは、体以上からだいじょう木剣ぼっけんも、ややについて、ひねりごしくがはやいか、牢人ろうにん横腰よこごしをなぐりつけた。
 ――しかし、自分じぶんからだ途端とたんに、あざやかなちゅうって、どぶへはちなかったが、どこか、そこらのいしにでもぶつけたらしく、ううむとうなって、それなりうごきもしなかった。

 ひとり城太郎じょうたろうかぎらず子供こどもというものはよく気絶きぜつする。大人おとなのような遅疑ちぎがないので、ことにぶつかると、素純すじゅんなたましいは、このとあのさかいを、ついはずみでも、えてしまうのであろう。
「おーい、どもう」
「おきゃくさん」
ども……ウ」
 耳元みみもとで、かわるがわるにばれて、城太郎じょうたろうは、大勢おおぜいなか介抱かいほうされている自分じぶんを、ぱちぱちまわした。
がついたかい」
 みなわれて、城太郎じょうたろうは、がわるそうに、自分じぶん木剣ぼっけんひろうがはやいか、あるした。
「これこれ、おまえ一緒いっしょ女子おなごはどうした」
 宿屋やどや手代てだいは、あわててかれうでをつかまえた。
 そうかれて、かれはじめて、この人々ひとびとが、おくとまっている角屋すみやものと、旅籠はたご雇人やといにんたちで、朱実あけみさがしにたものとった。
 だれ発明はつめいしたのか、重宝ちょうほうがられて上方かみがたでも流行はやっている「ちょうちん」とものが、もう関東かんとうにもているとみえ、それをったおとこだの、棒切ぼうきれをった若者わかものなどが、
「おまえと、角屋かどや女子おなごが、さむらいにつかまって、難儀なんぎをしていると、らせてくれたものがあるのだ。……何処どこったかおまえはっているだろうが」
 城太郎じょうたろうは、くびって、
らない。おいらは、なにらない」
なにも? ……ばかをいえ、なにらぬことがあるものか」
何処どこか、彼方むこうのほうへ、かかえてったよ。それきりしか、らない」
 城太郎じょうたろうは、とかく返辞へんじをいいしぶった。かかいになって、あと奈良井ならい大蔵だいぞうしかられることがこわかったのと、もうひとつの理由りゆうは、相手あいてほうりつけられて、気絶きぜつしてしまった不覚ふかくを、大勢おおぜいまえでいうのが、がわるいのであった。
「どっちだ。そのさむらいげたほうは」
「あっちだ」
 ゆびさしたのも、いい加減かげんであったが、それっと、大勢おおぜいすとすぐ、ここにいた、ここにいたと、さきさけものがある。
 提燈ちょうちんぼうあつまってみると――朱実あけみはしどけない姿すがた農家のうか藁小屋わらごやらしいかげさらしていた。そのへんんである乾草ほしくさうえたおされていたものとみえ、ひと跫音あしおとおどろいて、かみ着物きものも、わらや乾草ほしくさだらけになって、がっていたが、えりはひらいているし、おびはだらりとけている――
「まあ、どうしたのじゃ」
 提燈ちょうちんあかりに、それを人々ひとびとは、すぐ犯行はんこう直感ちょっかんしたが、さすがに、くちへいいものもなく、犯行者はんこうしゃ牢人者ろうにんものうこともわすれていた。
「……さ、おかえり」
 をひくと、そのはらって、彼女かのじょ小屋こや羽目はめかおてたまま、よよと、こえをあげて、きじゃくった。
っているらしいね」
なんでまた、戸外そとさけなど?」
 人々ひとびとは、しばらく、彼女かのじょくにまかせて、まもっていた。
 城太郎じょうたろうも、とおくからその様子ようすのぞいていた。彼女かのじょがどんなったのか、かれにははっきりあたまえがくことはできなかったが、かれはふと、朱実あけみとはまるでえんのない過去かこ体験たいけんおもいだしていた。
 それは、大和やまと柳生やぎゅうしょうのはたごとまったとき、はたごの小茶こちゃちゃんという少女しょうじょと、馬糧まぐさ小屋ごやのわらのなかで、つねったり、かじりついたりして、ただちんころのように、ひと跫音あしおとおそれるおもしろさをあじわった――あの経験けいけんであった。
こうッ――と」
 すぐ、つまらなくなって、城太郎じょうたろうけだした。けながら、たったいま、あののてまえまでったたましいを、このあそばせてうたいだした。

  なかの、野中のなか
  かなぼとけ
  十六娘じゅうろくむすめをしらないか
  まよったむすめらないか
  っても、カーン
  いても、カーン