287・宮本武蔵「空の巻」「火悪戯(4)(5)」


朗読「287空の巻28.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 40秒

 武蔵むさし消息しょうそくかれると、城太郎じょうたろうは、そのことなら、此方こっちからきたいところだと、いわぬばかりに、
らないよ、おいらは」
「なぜ、あんたがらないのさ」
「おつうさんとも、お師匠様ししょうさまとも、途中とちゅうでみんな、はぐれてしまったんだもの」
「おつうさんて――だれ?」
 朱実あけみは、きゅうに、かれのことばに、注意ちゅういをかたむけ、そして、なにおもしたように、
「……ああそうか。……あのひとは、いまだに武蔵様むさしさまあといまわしているのね」
 と、つぶやいた。
 朱実あけみつね想像そうぞうしている武蔵むさしは、行雲流水こううんりゅうすい修行者しゅぎょうしゃであった。樹下石上じゅげせきじょうひとだった。それゆえに、いくらおもいをけたところで、とどがた心地ここちがして、同時どうじに、自分じぶんすさびかけた境涯きょうがいかえりみられ、
所詮しょせん、かなわぬこい
 という弱気よわきあきらめにつつまれてしまうのだった。
 けれど、その武蔵むさし生活せいかつかげに、もうひとり、べつな女性じょせいかげかさなっていると想像そうぞうすると――朱実あけみあきらめは、到底とうていはいをかぶせられたうずのままではない。
城太じょうたさん、ここじゃ、ほかひとがうるさいから、戸外そとかない?」
まちへかい」
 たくてたまらなかったおりなので、そうさそわれると、いちもない。
 旅籠はたご庭木戸にわきどをあけて、ふたりはよい往来おうらいる。
 二十五宿にじゅうごしゅくといわれる八王子はちおうじは、いままでの何処どこよりも繁華はんかえた。秩父ちちぶ甲州境こうしゅうざかいやまかげが、どっぷりまち西北せいほくかこってはいるが、ここにまとまっているよいには、さけのにおいだの――博労ばくろうこえだの、機屋はたやひびきだの、問屋場役人とんやじょうやくにん呶鳴どなこえだの、町芸人まちげいにんわびしい音楽おんがくだのがつつまれて、人間にんげん聚楽じゅらくにぎわしていた。
「あたし、おつうさんていうひとのことは、又八またはちさんからよくいてたけれど、いったい、どんなひと――」
 朱実あけみは、ひどくそれが、になりしたらしい。
 武蔵むさしのことは、ひとまずむねすみへあずけておいて、彼女かのじょむねには、おつうというものたいして、なにか、えるようなものが、焦々いらいらちはじめていた。
「いいひとだぜ」
 と、城太郎じょうたろうがことさらに――
「やさしくって、おもいやりがあって、綺麗きれいでサ――。おいら、大好だいすきだ、おつうさんは!」
 と、いったので、朱実あけみむねはよけいに、脅威きょういかんじてきた。
 けれど、そういう脅威きょういは、どんな女性じょせいでもけっしてあらわには顔色かおいろさない。反対はんたいに、彼女かのじょも、ほほむのであった。
「そう、そんないいひと」
「ああ、そして、なんでもよくできるよ、うたもよむし、もうまいし、ふえ上手じょうずだしね」
おんなが、ふえなんか上手じょうずだって、なんにもなりやしないじゃないの」
「けれど、大和やまと柳生やぎゅう大殿様おおとのさまでも、だれでも、おつうさんのことはめるぜ。……ただおいらにいわせれば、いけないことがひとつあるけれど」
おんなには、だれにだって、いけない性分しょうぶん沢山たくさんあるものよ。ただそれを、あたしみたいに、正直しょうじきにうわべにしているか、おしとやかって、うまくつつんでいるかのちがいしかありやしないものよ」
「そんなことないよ。おつうさんのいけないのはたったひとつしかないよ」
「どんな性分しょうぶんがあるの」
「すぐくんだよ。泣虫なきむしなのさ」
くの。……まあ、どうしてそうくんでしょう」
武蔵様むさしさまのことをおもしちゃあくんだろ。一緒いっしょにいると、それだけが、陰気いんきになって、おいらきらいさ」
 ――もう大概たいがいに、相手あいてかおいろをしゃべればいいのに、城太郎じょうたろうはおかまいなしに、まだこのうえにも、朱実あけみむねはおろか、全身ぜんしん嫉妬しっときかねないほど――無邪気むじゃきとおしていた。

 ひとみそこにも、皮膚ひふにも、おおいきれない嫉妬しっとのいろをたたえながら――なおなお、朱実あけみもとめてきたがった。
「いったい、おつうさんて、幾歳いくつなの?」
 城太郎じょうたろうは、見較みくらべるように、彼女かのじょかおをながめて、
おんなじぐらいだろ」
「わたしと?」
「だけど、おつうさんのほうが、もっと、綺麗きれいわかいよ」
 そのくらいでこの話題わだい打切うちきれればよかったのに、朱実あけみほうからまた、
武蔵様むさしさまは、ひとなみ以上いじょう武骨ぶこつだから、そんな泣虫なきむしのひとはきらいだろう。そうだよきっと、そのおつうってひとは、いておとこ気持きもちをひきつけようとする――角屋すみや女郎衆じょろしゅうみたいなひとにちがいない」
 どうかして、おつうを、城太郎じょうたろうにだけでも、おもわせまいとつとめるのであったが、結果けっかはかえって反対はんたいに、
「そうでもないぜ。お師匠様ししょうさまも、うわべはやさしくしないけれど、ほんとは、おつうさんがきらしいんだよ」
 とまで、いわせてしまった。
 ただならぬかおいろはもうとうにとおぎている朱実あけみであった。あるいているそばかわでもあれば、すぐびこんでせてやりたいようなかたまりがむねへこみあげてくる。
 これが、子供相手こどもあいてでもなければ、もっといってやりたいことはあるけれど、城太郎じょうたろうかおいろをては、その張合はりあいもない。
城太じょうたさん、おいで」
 ふいに、彼女かのじょは、まちつじから横町よこちょうあかて、った。
「ア、居酒屋いざかやじゃないか、そこは」
「そうさ」
おんなのくせにおよしよ」
なんだか、きゅうみたくなったのよ。ひとりじゃがわるいから――」
「おいらだって、がわるいや――」
城太じょうたさんは、なんでもべたいものをべればいいじゃないか」
 のぞいてると、さいわいにも、ほかのきゃくはいないらしい。朱実あけみは、かわむよりもっとつよ盲目めくらになって、なかへはいるなり、
「……おさけを」
 と、かべむかっていった。
 それから彼女かのじょつぎばやにさけからだれた。城太郎じょうたろうおそれてめたころには、もう城太郎じょうたろうにおえなかった。
「うるさいね、なにサ、このは――」
 と、ひじ振払ふりはらって、
「もっと、おさけを……おさけをくださいな」
 そのくせ、もうほのおのようなかおして、しながら、いきもくるしげなのである。
「いけないよ、やっちゃあ」
 城太郎じょうたろうが、あいだって、心配しんぱいそうにことわると、
「いいよ、おまえはどうせ、おつうさんがきなんでしょ。……あたしはね、いておとこ同情どうじょううような、そんなおんなだいきらいさ」
「おいら、おんなのくせに、さけなんかむやつ、だいきらいだ」
「わるかったね。……おさけでもまなけれやいられないあたしのむねは……おまえみたいなチンチクリンにはわかりません――だよ」
「はやく勘定かんじょうをおはらいよ」
「おかねなんて、あるかとさ」
「ないのかえ」
「そこの旅籠はたごとまっている、きょう角屋すみや親方おやかたさんからもらっておくれ。どうせもうったからだ……」
「アラ、いてら」
「わるいかえ」
「だって、おつうさんの泣虫なきむしを、さんざんわるくいったくせに、自分じぶんくやつがあるもんか」
「あたしのなみだは、あのひとのなみだとは、なみだがちがいますよ。――アア面倒めんどうくさい、んでやろうか」
 ふいにおこすと、戸外おもてやみがけてしたので、城太郎じょうたろうは、びっくりしてめた。
 こういう女客おんなきゃくも、まれにはあるとみえて、居酒屋いざかやものわらっていたが、ふと、すみていた牢人者ろうにんものが、むっくり酔眼すいがんをさまして見送みおくっていた。