286・宮本武蔵「空の巻」「火悪戯(2)(3)」


朗読「286空の巻27.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 46秒

「さてさて。とんだ旅籠うちとまりあわせたものだて」
 大蔵だいぞうは、二階にかいてから、こう愚痴ぐちめいて、自分じぶん落着おちつきをまわした。
 ときならぬ混雑こんざつに、いくらんでも、召使めしつかいない。おぜんない。
 やっと、食事しょくじたとおもうと、こんどはそれを退げにない。
 それに、どたばたと、階下した二階にかいいそがしげな跫音あしおとえなかった。はらつが、ああしてをまわしている雇人やといにんどくおもうと、いかりもされないのである。
 かたづかない部屋へやなかに、奈良井ならい大蔵だいぞう手枕てまくらよこになっていたが、ふと、なにおもったようにくびもたげ、
助市すけいち
 と、下男げなんんだが、あたらないので、
城太郎じょうたろう城太郎じょうたろう
 と、なおしてすわる。
 その城太郎じょうたろうもまた、何処どこったか、かげえないので、部屋へやてみると、中庭なかにわしたのぞんで、ここのえん欄干てすりには、まるで花見はなみでもしているように、二階にかいきゃくそろいもそろって、階下した奥座敷おくざしきおろしながら、なにやらわいわいさわいでいるのであった。
 そのなかじって、城太郎じょうたろう一緒いっしょになって階下したをのぞいていたのを見出みだし、
「これ」
 と、つまんでて、
なにているのだ」
 と、大蔵だいぞうしかると、城太郎じょうたろうは、いえなかでもはなさずにいるながやかな木剣ぼっけんを、たたみにつかえてすわりながら、
「だって、みんなてるんだもの――」
 と、もっともなことをいう。
「みんなは、なにているのだい」
 大蔵だいぞう多少たしょうきょうをひかれていないわけでもない。
なにって……あの、階下したおくとまった、沢山たくさんおんなひとているんだろ」
「それだけか」
「それだけだよ」
なにがそんなものおもしろい」
「わからない」
 城太郎じょうたろうは、有体ありていくびる。
 大蔵だいぞう落着おちつかせぬ原因げんいんは、雇人やといにん跫音あしおとよりも、階下したとまあわせた角屋かどや女郎衆じょろしゅうよりも、むしろそれをうえからのぞいている、二階にかいきゃくどものさわぎにあった。
「わしはすこし、まちあるいてるからな、なるべく、部屋へやにいなくてはいけないよ」
まちくなら、おいらもれてっておくれよ」
「いや、ばんはいけない」
「なぜ」
「いつもいっているとおり、わしの夜歩よあるきは、あそびではない」
「じゃあ、なにさ?」
信心しんじんだ」
信心しんじん昼間ひるましているからたくさんじゃないか。神様かみさまだって、おてらだって、ばんてるだろ」
社寺しゃじをおまいりすることばかりが信心しんじんではない。ほかに祈願きがんもあることでな」
 と、相手あいてにしないで、
「そのはさばこから、わしの頭陀袋ずだぶくろしたいが、ひらくか」
ひらかない」
助市すけいちかぎっているはずじゃ、助市すけいちはどこへったな」
階下したったぜ、さっき」
「まだ風呂場ふろばか」
階下したで、女郎衆おんなしゅう部屋へやをのぞいてたよ」
「あいつもか」
 と、舌打したうちして、
「――んでい、はやく」
 大蔵だいぞうは、そういって、おびなおしにかかった。

 四十人よんじゅうにんからの同勢どうぜいである。旅籠はたご下座敷したざしきは、ほとんど、角屋すみや連中れんちゅうめている。
 おとこたちは、帳場寄ちょうばよりの部屋へやに、女郎おんなたちは、中庭なかにわむこうの部屋へやに。
 なにしろ、にぎやかをとおして、かしましいことひとかたでない。
「あしたはもう、あるけんがなあ」
 と、大根だいこんのようなしろあしに、大根だいこんおろしをって、あしうら火照ほてりにってもらっている傾城けいせいもある。
 元気げんきなのは、三味線しゃみせんりて爪弾つめびきをしているし、皮膚ひふ青白あおじろいのは、もうよるものかずいで、かべむかってこんでいる。
「おいしそうだね、あたいにも、よこしなよ」
 と、ものりっこ。――また、行燈あんどんとさしむかいで、上方かみがたそらのこしてちぎりあるおとこへ、ふではしらせている苦界くがいうし姿すがたもある。
「あしたはもう江戸えどとやらへ、くのかえ」
「どうだかね。ここでけば、まだ十三里じゅうさんりもあるってえもの」
勿体もったいないね、よるあかりをると、こうしているのは」
「おや、たいそう、親方思おやかたおもいだね」
「だって……。ああじれったい、かみがかゆくなった。かんざしをおかし」
 こんな風景ふうけいでも、京女郎衆きょうじょろしゅうくからに、おとこはそばだったのであろう。風呂場ふろばからがった下男げなん助市すけいちは、ざめをするのもわすれて中庭なかにわ植込うえこしに、いつまでも、見惚みほれていた。
 すると、うしろからみみ引張ひっぱって、
「いい加減かげんにおしよ」
「アつう
 と振向ふりむいて、
「なんだ、この城太郎じょうたろうめ」
すけさん、んでるぞ」
だれが」
「おまえ主人しゅじんがさ」
「うそいえ」
「うそじゃないよ。また、あるきにかけるんだとさ。あの小父おじさん、ねんがら年中ねんじゅうあるいてばかりいるんだな」
「あ、そうか」
 助市すけいちあとから、城太郎じょうたろう駈出かけだしてこうとすると、庭木にわきかげからおもいがけなくも、
城太じょうたさん――。城太じょうたさんじゃないの?」
 と、ものがあった。
 はっと、城太郎じょうたろうが、真剣しんけんになって振顧ふりかえった。なにもかもわすって運命うんめいいてあるいているかのようでも、かれこころのどこかにはえず、見失みうしなった武蔵むさしとおつうにとめているらしかった。
 いまんだのは、わかおんなこえであった。もしや? ――とすぐむねがどきっとしたものとみえる。じっと、おおきなかげをすかして、
「……だれ?」
 おずおずると、
「わたし」
 と、木陰こかげしろかおは、したくぐって、城太郎じょうたろうまえった。
「なアんだ」
 がっかりしたように、城太郎じょうたろうがいいはなったので、朱実あけみしたうちして、
「なあに、このはまあ」
 と、自分じぶんせかけた感傷かんしょうのやりうしなって、にくそうに、城太郎じょうたろうった。
「ずいぶんひさりじゃないの。どうして、おまえ、こんなところているの」
自分じぶんこそ、どうしたのさ」
「あたしはネ……ってるだろ。よもぎのりょう養母おっかさんともわかれちまって、それからいろんなってね」
「あの……大勢おおぜい女郎衆じょろしゅうと、一緒いっしょなのかい」
「でも、まだ、かんがえてるの」
なにをさ」
傾城けいせいになろうか、やめようかとおもって」
 こんな子供こどもにとおもっても、朱実あけみには、こんな嘆息ためいきを、ほかにいてもらうひとはなかった。
「……城太じょうたさん、武蔵様むさしさまいま、どうしていらっしゃるの?」
 やがて、そっといったが、彼女かのじょはじめからきたいことは、むしろそれだけらしかった。