283・宮本武蔵「空の巻」「虫焚き(5)(6)」


朗読「283空の巻24.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 30秒

 かれ板小屋いたごやは、谷間たにまがけてた丸太まるたうえささえられていた。よるなのでよくわからないが、おそらく床下ゆかしたは、すぐ千仭せんじん谷底たにぞこつうじているのではあるまいか。
 きりってくる。
 滝水たきみずきつけてくる。
 ぐわうというたびに、寝小屋ねごやは、ふねのようにうごいた。
 ――おこうは、しろあしを、にしのばせて、そっと、まえ炉部屋ろへやへもどってた。
 つめて、かんがえこんでいた藤次とうじが、するどい振向ふりむけて、
「……たか」
 と、う。
たらしいよ」
 おこうは、そばひざてて、
「どうする、え?」
 と藤次とうじみみへいう。
んでい」
「やるかえ」
「あたりめえだ。よくばかりじゃねえ、彼奴あいつってしまえば、吉岡一門よしおかいちもんかたきったということにもなる」
「じゃあ、ってるよ」
 どこへくのか。
 おこうは、すそ端折はしょって、戸外おもてった。
 深夜しんやである。深山しんざんである。くらかぜなかを、まっしぐらにけてゆくしろあしと、うしろにながれるかみとは、魔性ましょう猫族びょうぞくでなくてなんであろう。
 大山たいざんしわむものは、鳥獣ちょうじゅうばかりとはかぎらない。彼女かのじょあるいたみねさわ山畑やまはた遠方此方おちこちから、たちまちにして、むらがあつまって人間にんげんは、二十名以上にじゅうめいいじょうもある。
 しかもその行動こうどうには、訓練くんれんがあった。いてよりもしずかに、藤次とうじ小屋こやまえあつまると、
「ひとりか?」
武士さむらいか」
かねってるのか」
 などと密々ひそひそささやわし、指真似ゆびまねや、くばせで、各々おのおの、いつもどおりの部署ぶしょにつくべくわかれてく。
 猪突ししつやりや、鉄砲てっぽうや、大刀どすって、その一部いちぶは、寝小屋ねごやそとうかがい、また、半分はんぶん小屋こやのわきから絶壁ぜっぺきりて、たしか、谷底たにぞこまわったらしい。
 なお、そのなかから、べつに三人さんにんぞくは、がけ中途ちゅうとって、ちょうど武蔵むさしねむっている小屋こやした辿たどりついた。
 準備じゅんび出来できたのである。
 谷間たにま懸出かけだしてあるこの小屋こやは、つまりかれらのわななのである。その小屋こやは、むしろき、たくさんな薬草やくそう乾草ほしくさみ、薬研やげん製薬せいやく道具どうぐなどわざといてあるが、それはここへれる人間にんげん安眠剤あんみんざいであって、もとよりかれらの職業しょくぎょうは、薬刻くすりきざみや、薬草やくそうすことではない。
 武蔵むさしも、そこへよこになると、こころよ薬草やくそうのにおいに、ねむりをさそわれて、手足てあしさきにまで、れぼったいつかれがたが、やまうまれ、やまそだった武蔵むさしには、この谷間たにま懸出かけだ小屋こやに、一応いちおううなずけないものがあった。
 自分じぶんうまれた美作みまさか山々やまやまにも、薬草採やくそうとりの小屋こやはあるが、薬草やくそうはすべて湿気しっけきらう。こんな、鬱蒼うっそう雑木ぞうきえだをかぶって、しかもたきしぶきのるようなところに、乾小屋ほしごやっていない。
 枕元まくらもとには、薬研台やげんだいうえに、びたかね灯皿ひざらがおいてある。そのかすかな燈心とうしんらぎで見返みかえしても――また合点がてんのゆかないふしがある。
 それは、四隅よすみ材木ざいもく材木ざいもくとのである。鎹付かすがいづけになっているが、そのかすがいあながやたらにえる。そしてと、はだあたらしいところとがいち二寸にすんずつちがっている。
「ははあ」
 かれ寝顔ねがおは、苦笑くしょうをうかべた。しかしまだかれ木枕きまくらかおをつけていた。――
 しとしとときりおとにつつまれるように、ふしぎな気配けはいをうつつにかんじながら。

「……武蔵たけぞうさん。……たんですか。もうおやすみかえ」

 障子しょうじそとへ、そっとっていうおこう小声こごえであった。
 寝息ねいききすますと、すうと其処そこをあけて、おこうは、武蔵むさし枕元まくらもとまでしのり、
「ここへ、おみずきますからね」
 わざと、寝顔ねがおことわりながら、ぼんをおいて、またしずかに、障子しょうじそとへもどってった。
 母屋おもややみにして、っていた祇園藤次ぎおんとうじが、
「いいか」
 ささやくと、おこうつだわせて、
「ぐっすりだよ……」
 藤次とうじは、しめたというように、縁先えんさきからうらして、谷間たにまやみのぞきこみ、っている火縄ひなわをチラチラってせた。
 それが合図あいずであった。
 武蔵むさしねむっている一棟いっとう板小屋いたごやは、それとともに、がけ中途ちゅうとで、ささえている床柱ゆかばしらはずされ、ぐわうーんとすごおとをたてながら、むねいたも、乱離らんりとなって、千仭せんじんそこまれてしまった。
「それっ」
 りをひそめていたぞくは、もう仕止しとめた猟人かりゅうど姿すがたせるように、公然こうぜんと、こえをあげて、ましらごとおもおもいに、谷底たにぞこすべりてった。
 あま人間にんげんれば、かれらはいつも、こうして寝小屋ねごやもろとも、旅人たびびとたにおとして、その死骸しがいからやすやすと、目的もくてきものげていた。
 そして簡単かんたん寝小屋ねごやはまた、つぎのうちに、絶壁ぜっぺき懸出かけだしてむのであった。
 谷底たにぞこにも一群ひとむれぞくが、さきまわってっていた。寝小屋ねごやいたはしらがばらばらにちてると、かれらは、ほねびつくいぬのように、それへたかって、武蔵むさし死骸しがいもとはじめた。
「どうした?」
 うえ人数にんずうりてて、
「あったか」
 と、ともさがしまわる。
えねえぞ」
 だれかいう。
なにが」
死骸しがいがよ」
「ばかあいえ」
 しかしまた、やがておなじあぐねたこえはなたれた。
「いねえや、はてな?」
 だれよりも血眼ちまなこ藤次とうじ呶鳴どなりつけた。
「そんなはずはねえ。途中とちゅういわにぶつかって、ばされているのかもれねえ。もっと、そっちもさがしてみろ」
 その言葉ことばおわらないうちに、かれ見廻みまわしている谷間たにまいわみず雪崩なだれくさも、いちめんに夕焼色ゆうやけいろにぱっとあかるくまった。
「――あっ?」
「――おやっ?」
 ぞくみなあごそらげた。およそ七十尺ななじゅっしゃくもある絶壁ぜっぺきである。そのうえっていた藤次とうじ住居じゅうきょは、むね障子しょうじまど四方しほうからほのおしているではないか。
「あれえっ。あれえっ。ておくれよっ」
 ただひとりで、くるわんばかりな悲鳴ひめいをあげているのは、おこうにちがいない。
大変たいへんだ、ってみろ」
 みちじ、ふじじ、ぞくはまた、うえがった。断崖だんがいうえ一軒屋いっけんやほのお山風やまかぜにはよいなぶものだった。おこうはとれば、をかぶりながら、ちかくのうしくくりつけられている。
 いつのに、どうしてけたろうか。げたという武蔵むさしが、ぞくにはなんだかしんじられなかった。
っかけろ、これだけいれば――」
 藤次とうじはいう勇気ゆうきもなかったが、武蔵むさしらぬほかぞくはそのままではいるはずもない。旋風つむじになってすぐあとった。
 けれども武蔵むさしかげはもう見当みあたらなかった。みちのない横道よこみちれたのか、うえ今度こんどはほんとに熟睡じゅくすいでもしているのか、そうこうするに、うつくしいやま火事かじなかに、和田峠わだとうげ大門峠だいもんとうげも、白々しらじらあさ姿すがたせていた。