282・宮本武蔵「空の巻」「虫焚き(3)(4)」


朗読「282空の巻23.mp3」8 MB、長さ: 約 9分 17秒

 いまもまだ、幼名ようみょう武蔵たけぞうを、そのまま自分じぶんものは、本位田ほんいでん又八またはちははのおすぎばばをいて、だれがあろう?
 あやしみながら、武蔵むさしは、そう馴々なれなれしく自分じぶんんだぞくつままもった。
「まあ、たけさん、いいお武家ぶけにおなりだねえ」
 さもさもなつかしそうなおんなのことばだった。それは、伊吹山いぶきやまづくり――のちにはむすめ朱実あけみおとりに、京都きょうとあそ茶屋ぢゃやをしていた、あの後家ごけのおこうであった。
「どうして、こんなところにいるのですか」
「……それをかれるとずかしいが」
「では、そこにたおれているのは……あなたの良人おっとか」
「おまえもっておいでだろう。もと吉岡よしおか道場どうじょうにいた、祇園ぎおん藤次とうじれのてですよ」
「あっ、では吉岡門よしおかもん祇園藤次ぎおんとうじが……」
 唖然あぜんとしたまま、武蔵むさしは、あとのことばもなかった。
 師家しけかたむまえに、藤次とうじは、道場どうじょう普請ふしんにとあつめたかねって、おこう駈落かけおちしてしまい、さむらいにあるまじき卑劣者ひれつものと――当時京都とうじきょうとわるうわさてられたものだった。
 武蔵むさしも、小耳こみみにはさんでいる。そのれのてがこの姿すがたか――と、他人ひとすえとはいえ、さみしくならずにいられなかった。
「おばさん、はや介抱かいほうしてやるがよい。あなたの亭主ていしゅったなら、そんなわせるのではなかったが」
あなでもあったらはいりたいがする」
 おこう藤次とうじのそばへって、みずあたえ、傷口きずぐちしばり、そしてまだなかばうつつなかおつきへ、武蔵むさしとの縁故えんこはなした。
「えっ?」
 と、藤次とうじは、かつれられたように白眼はくがんげて、
「じゃあ其許そこもとが……あの宮本武蔵みやもとむさしどのか。――ああ、面目めんぼくない」
 さすがにはじっている。藤次とうじあたまかかえ、それへったまま、しばらくはげるおもてもない様子ようす
 武門ぶもんちて、山沢さんたくぞくとなってきてゆくのも、大所たいしょからてやれば、流々転相るるてんそうなかあわつぶ、こうしてまで、きてゆかねばならぬほどにちたのかとおもえば、あわれともいえる、不愍ふびんともいえる。
 武蔵むさしはもうにくもちをわすれていた。夫婦ふうふものは、ときならぬ賓客ひんきゃくむかえたように、ちりき、ぶちをいて、たきぎあらたにくべした。
なにもございませぬが」
 と、さけなどける様子ようすに、
「もう、やま立場たてばで、はらはできておる。かもうてくれるな」
「――でも、ひさしぶりに、やま夜語よがたり、わたしのこころづくしをべてくださいませ」
 と、おこうは、うえなべなどかけ、酒壺さけつぼってしきりにすすめる。
伊吹山いぶきやまのふもとをおもしますなあ」
 そとは、ごうごうと、みねあらしであった。めきっても、ほのおは、くろ天井てんじょうへめらめらとばす。
「もう、いうてくださいますな。……それよりも、朱実あけみはそのあと、どうしたでしょうか。なにうわさきませんか」
叡山えいざんから大津おおつ途中とちゅう山茶屋やまぢゃやで、数日すうじつ、わずらっていたそうですが、れの又八またはち持物もちものうばって、げてしまったとそのおりちょっとみみにしたが……」
「では、あのも」
 と、おこう自分じぶんにひきくらべて、さすがに、くらおもてせた。

 おこうだけではない。祇園ぎおん藤次とうじもふかくった様子ようすで、今夜こんやのことは、まったく出来心できごころほかならないといい、他日たじつときは、かならもと祇園藤次ぎおんとうじになっておびするから、どうか今夜こんやのところは、みずながしてのがしてくれという。
 山賊さんぞくまがいの藤次とうじが、以前いぜん祇園藤次ぎおんとうじかえったところで、たいしたかわりばえもないが、それだけ道中どうちゅう旅人たびびとあかるくなれよう。
「おばさん、あなたも、もうあぶない世渡よわたりは、よしたほうがいいでしょう」
 いられたさけすこって、武蔵むさしがこう意見いけんすると、おこうも、
「なあに、あたしだってきこのんで、こんなことをしているわけじゃないけれど、京都落みやこおちをんで、御新開ごしんかい江戸えど一稼ひとかせぎと途中とちゅう、このひとが、諏訪すわ博奕ばくちして、持物もちものから路銀ろぎんまでみんなはたいてしまい、やむなく、もとりからおもいついて、ここで薬草やくそうってまちってはべるような始末しまつになってしまったのさ。……もう今夜こんやりたからわる出来心できごころおこさないようにしますよ」
 相変あいかわらず、このおんなは、うと以前いぜん婀娜あだ調子ちょうしる。
 もう幾歳いくつだろうか。このおんな年齢としはないようである。ねこいえうと人間にんげんひざ媚態びたいつくるが、これをやまはなつと、暗夜あんやにも爛々らんらんひかまなこ持主もちぬしとなって、行路病者こうろびょうしゃきたにくへも、野辺のべおくりのひつぎがけてもびついてくる。
 おこうはそれにちかい。
「……ねえ、おまえさん」
 と、藤次とうじかえりみて、
いま武蔵たけぞうさんからけば、朱実あけみ江戸えどったらしい。わたしたちも、なんとか、人中じんちゅう算段さんだんをして、もうすこ人間にんげんらしいくらしをしようじゃありませんか。あのでもつかまえれば、またなんとか商売しょうばい思案しあんもあろうというものだし……」
「うむ、うむ」
 と藤次とうじは、ひざかかえて、生返辞なまへんじあたえていた。
 このおとこもまた、このおんな同棲どうせいしてみて、さきにこのおんなからてられた本位田ほんいでん又八またはちと、おなじような後悔こうかいを、もういだいているのではあるまいか。
 武蔵むさしは、藤次とうじかおどくえた。そして又八またはちあわれみ――やがては自分じぶん一度いちどこのおんなまねふちさそわれたことなどもおもされて、ふとはだがそそけおもいがした。
「――あめですか、あのおとは」
 武蔵むさしが、くろ屋根やねあおぐと、おこうはほんのりったながしで、
「いいえ、かぜがつよいから、や、小枝こえだが、れてはってるんですよ、やまなかというものは、よるになると、なにらないばんはない。――つきても、ほしえても、ったり、山土やまつちがぶつけてたり、きりったり、たきみずがしぶいてたり」
「おい」
 藤次とうじは、かおげて、
「――もうじきによるしらんでころだ。おつかれだろうから、あちらへ寝道具ねどうぐをのべて、おやすみになるようにしたらどうだ」
「そうしましょうかね。武蔵たけぞうさん、くらいからをつけててください」
「では、あさまでおりしようか」
 武蔵むさしって、おこうあとからくらえんいてった。