278・宮本武蔵「空の巻」「銭(3)(4)」


朗読「278空の巻19.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 49秒

 八方はっぽう人手ひとでけて、さがしているとはいえ、この一日いちにちを、むなしくっているのも智慧ちえがないので、武蔵むさし武蔵むさしで、高島たかしま城下じょうかから、諏訪一円すわいちえんあるくらした。
 おつう城太郎じょうたろう消息しょうそくたずあるいていると、武蔵むさしは、こうしてれてゆく一日いちにちしかった。かれあたまには、えず、このへん地勢ちせいとか、水理すいりとか、また、だれきこえた武術家ぶじゅつかなどはいないかなどと――そのほうへしきりとこころうごく。
 だが、その両方りょうほうともに、たいした収穫しゅうかくもなく、やがて黄昏たそがれごろ人足にんそくたちと約束やくそくした諏訪明神すわみょうじん境内けいだいてみると、楼門ろうもんあたりにも、まだだれている様子ようすがない。
「ああ、つかれた」
 つぶやきながら、かれ楼門ろうもん石段いしだんへどっかりこしをおろした。
 づかれというのか、こんなつぶやきが、嘆息ためいきのようにることは滅多めったにない。
 だれない。
 やや退屈たいくつかんじてひろ境内けいだいを、一巡ひとめぐりしてまたもどってた。
 まだ約束やくそくした人足にんそく一人ひとりえていなかった。
 やみなかで、時々ときどきつ、つ、となにるようなひびきがするので、武蔵むさしは、時々ときどき、はっとわれにかえるようなをみはった。――それがにかかるらしく、楼門ろうもん石段いしだんりて、ふかい木蔭こかげなかにある一棟いっとう小屋こやうかがってみると、そのなかには、しろ神馬しんめつながれているのだった。みみについた物音ものおとは、神馬しんめゆかってあばれるおとだった。
御牢人ごろうにん、なんじゃ」
 うま飼糧かいばをやっていたおとこが、武蔵むさしかげ振向ふりむいてたずねた。
なんぞ、社家しゃけ御用事ごようごとでもあるのか」
 とがめるようなつきでいう。
 そこで武蔵むさしが、わけをはなして、一応怪いちおうあやしいものでないことを弁明べんめいすると、白丁はくちょうているそのおとこは、
「あははは。あははは」
 はらかかえてわらまないのである。
 っとして武蔵むさしが、なにわらうかというと、そのおとこはなおわらって、
「あんたは、そんなことで、ようたび出来できなさるの。なんであの道中どうちゅうはえみたいな悪人足あくにんそくが、さきぜにって、正直しょうじき一日中いちにちじゅう、そんなおひとさがしてあるいているものか」
 と、いうのであった。
「では、手分てわけをして、さがすといったのはうそであろうか」
 武蔵むさしただすと、こんどはむしろどくになったように、そのおとこ真顔まがおになっていった。
「おまえさんは、だまされたのじゃ。――道理どうりで、きょう十人じゅうにんばかりの人足にんそくが、裏山うらやま雑木林ぞうきばやしで、昼間ひるまから車座くるまざになって、さけをのみながら博奕ばくちなどしておった。おおかた、その連中れんちゅうであったかもしれぬ」
 それから、そのおとこは、この諏訪塩尻すわしおじりあたりの往還おうかんで、旅客りょかく人足にんそく悪手段わるしゅだんにのって路銀ろぎんをせしめられる屡々しばしば実例じつれいいくつもげて、
「わたる世間せけんおなことですよ、これからはよく御用心ごようじんなさるがよい」
 と、からになった飼糧桶かいばおけをかかえて、彼方かなたってしまった。
 武蔵むさしは、茫然ぼうぜんとしていた。
「…………」
 なにか、おおきな未熟みじゅく自己じこ発見はっけんしたような気持きもちで。
 けんっては、すきがないと自負じふしている自身じしんも、わたりの俗世間ぞくせけんじる、無智むち宿場人足しゅくばにんそくにも翻弄ほんろうされる自分じぶんでしかなかった――とあきらかに世俗的せぞくてき不鍛錬ふたんれんわかってくる。
「……仕方しかたがない」
 武蔵むさしはつぶやいた。
 口惜くやしいともおもわないが、この未熟みじゅくは、やがて三軍さんぐんうごかす兵法へいほうのうえにもあらわれる未熟みじゅくである。
 これからは謙虚けんきょになって、もっと俗世間ぞくせけんにもならおうとおもう。
 ――そしてかれはまた、楼門ろうもんほうあしかえしてたが、ふとると、自分じぶんったあとて、だれ一人立ひとりたっている。

「オ。旦那だんな
 楼門ろうもんまえあたりを見廻みまわしていたその人影ひとかげは、武蔵むさし姿すがたつけると、石段いしだんりてきて、
「おさがしになっているおひとの、一方いっぽうだけわかりましたから、おらせにまいりましたんで」
 と、いった。
「え?」
 武蔵むさしはむしろ意外いがいかおして――よくるとそれは、今朝けさ半日はんにち駄賃だちんをやって、八方はっぽう手分てわけしてはしらせた宿場人足しゅくばにんそくなか一人ひとりであった。
 たったいま
だまされたのだ)
 と、神馬小舎しんめごやまえわらわれてただけに、武蔵むさしは、意外いがいだったのである。
 同時どうじかれは、自分じぶんから半日はんにち駄賃だちん酒代さかて詐取さしゅした十幾人じゅういくにんもの人間にんげん世間せけんちてはいるが、
世間せけん全部ぜんぶが、詐欺師さぎしではない)
 とわかって、それがず、うれしかった。
一方いっぽうわかったとは、城太郎じょうたろうという少年しょうねんほうか、おつうほうれたのか」
「その城太郎じょうたろうっていうれている、奈良井ならい大蔵だいぞうさんのあしどりがわかったのでございます」
「そうか」
 武蔵むさしは、それだけでも、ほっとこころ一面いちめんあかるくなった。
 正直者しょうじきもの人足にんそくは、こうはなした。
 ――今朝けさ駄賃だちんをせしめた仲間なかま手輩てあいは、もとよりそんなものさがすつもりは毛頭もうとうないので、みな仕事しごとなまけて、博奕ばくちふけっているが、自分じぶんだけは、ご事情じじょういておどくだとおもい、一人ひとり塩尻しおじりから洗場せばまでって、立場立場たてばたてば仲間なかまに、たずねあるいてみると、お女中衆じょちゅうしゅう消息しょうそくはさっぱりれないが、奈良井ならい大蔵だいぞうさんなら、ついきょうのひるごろ諏訪すわとおって、和田わだ山越やまごえにかかってったということを、中食ちゅうじきをした旅籠屋はたごや女中じょちゅうからきました――というのである。
「よくらせてくれた」
 武蔵むさしは、この人足にんそく正直しょうじき功労こうろうたいして、酒代さかだいむくいたいとおもったが、ふところにててみると、路銀ろぎんはみなほかのずる連中れんちゅうられてしまったので、かんがえてみると、今夜こんや飯代めしだいしかのこっていない。
(――でも、なにかやりたい)
 と、かれはなお、かんがえた。
 しかし、につけているもので、あたいのあるものなどは何一なにひとつもない。かれついに、今夜こんやべずにしのぐときめて、一度いちど飯代めしだいにとのこしておいたわずかなぜにを、革巾着かわぎんちゃくそこはらって、みな、そのおとこあたえてしまった。
「ありがとうございます」
 正直者しょうじきものは、当然とうぜんなことをして、過分かぶんれいったので、ぜにひたいしいただくと、ほくほくしてった。
 ――もう一箇いっこぜにもない。
 武蔵むさしは、無意識むいしきなかに、ぜにうし姿すがた見送みおくっていた。あたえながら、あたえたあとは、ちょっと途方とほうれた気持きもちになった。空腹すきばらはもう夕刻ゆうこくからしきりにせまっていたのでもあるし――。
 けれど、あのぜにが、あの正直者しょうじきものかえられれば、自分じぶん空腹くうふくをみたす以上いじょうなにかよいことにつかわれるにちがいない。それからあのおとこは、正直しょうじきむくわれることをって、明日あしたもまた、街道かいどうて、ほかの旅人たびびとへも正直しょうじきはたらくだろう。
「そうだ……このへん一宿いっしゅく軒端のきばりてあさつより、これから和田峠わだとうげえて、さきったという奈良井ならい大蔵だいぞう城太郎じょうたろういつこう」
 今夜こんやのうち和田わだえておけば、明日あした何処どこかでそのひと城太郎じょうたろう出会であうかもれない。――武蔵むさしたちまおもって、やがて諏訪すわ宿場しゅくばはずれ、ひさしぶりにくらみちを、ひとりすたすたと夜旅よたびあじみしめてった。