276・宮本武蔵「空の巻」「一夕の恋(5)(6)」


朗読「276空の巻17.mp3」10 MB、長さ: 約 11分 10秒

 自慢じまんというものはもとよりきづらいものだが、主人しゅじん自慢じまんだけはいていてもわるはしない。
 わけてこの石母田外記いしもだげきは、主人自慢しゅじんじまんであるらしかった。いま諸侯しょこうなかで、こころからくにうれい、また皇室こうしつへも、こころからちょくこころをよせているものは、政宗まさむねいてだれもいない――というのである。
「……ははあ」
 武蔵むさしはただそううなずく。
 かれには、正直しょうじきなところ、そううなずくだけの知識ちしきしかなかった。せきはら以後いご天下てんか分布図ぶんぷず一変いっぺんしたが、
なかがだいぶかわったな)
 とおもうだけで、秀頼方ひでよりがた大坂系大名おおさかけいだいみょうがどううごこうとしているか、徳川系とくがわけい諸侯しょこうなに目企もくろみつつあるか、島津しまづ伊達だてなどの惑星わくせいが、そのなかにどう厳存げんそんしているか――などというおおきな時勢じせいへのは、あらためてけてみたこともないし、それらの常識じょうしきは、いたってあさかった。
 それも加藤かとうとか、池田いけだとか、浅野あさの福島ふくしまなどといえば、武蔵むさしにも、二十二歳にじゅうにさい青年せいねんなみの観察かんさつっているが、伊達だてなどというと、もうばくとして、
表高おもてだかは、六十余万石ろくじゅうよまんごくだが、内容ないよう百万石以上ひゃくまんごくいじょうもある陸奥みちのく大藩たいはん
 という以外いがい、これぞという知識ちしきあわせていない。
 だから、ははあと、うなずくばかりで、ときにはうたがい、ときには、
政宗まさむねとは、そんな人物じんぶつか)
 と、るのであった。
 外記げきは、数々かずかず例証れいしょうをあげて、
「わが主人政宗しゅじんまさむねは、一年いちねん二回にかいかなら国内こくない産物さんぶつげて、近衛家このえけより禁中きんちゅう献上けんじょうなされる。――どんな戦乱せんらんとしでも、この伝献でんけんおこたられたことはござらぬ。――今度こんど自分じぶんみやこのぼったのも、その伝献でんけん荷駄にだについて上洛じょうらくいたしたので、無事ぶじやくはたしたので、かえみちだけ閑暇ひまたまわって、ひとり見物けんぶつがてら仙台せんだいまでもどる途中とちゅうでござる」
 といい、また――
諸侯しょこうのうちで、城内じょうないに、帝座みかどざしつらえてあるのは、わが青葉城あおばじょうがあるばかりでござろう。御所ごしょ改築かいちくおり古材木ふるざいもくをいただいて、とおふねはこんでたものとかもうしまする。とはいえ、いとも質素しっそなもので、主人しゅじん朝夕あさゆうとお仰拝ぎょうはいするしつとしているばかりでござるが、武家政道ぶけせいどう歴史れきしかんがみて、一朝いっちょうるにかねる暴状ぼうじょうでもおこなわれれば、いつ何時なんどきでも、朝廷方ちょうていがた御名おんなをかりて、武家ぶけをあいてにたたかうおこころいだいておられるのじゃ」
 外記げきは、そういってなお、
「そうじゃ、こういうおはなしもある。それは、朝鮮御渡海ちょうせんごとかいのとき――」
 と、はなしつづける。
「あのえきおりには、小西こにし加藤かとうなど、各々おのおの功名争こうみょうあらそいして、いかがわしいきこえもござったが、政宗公まさむねこうのお態度たいどはどうであったか。朝鮮陣中ちょうせんじんちゅうで、まる旗差物はたさしものをさしてたたかわれたのは、政宗公まさむねこうおひとりでござったぞよ。おいえ御紋ごもんもあるに、何故なにゆえ左様さよう旗差物はたさしものをおもちいあるかとひとわれたときこうはこうおおせられた。――いやしくも海外かいがいへいをひっさげてまいった政宗まさむねは、一伊達家いちだてけ功名こうみょうなどでたたかもうそうか。また、一太閤いちたいこうのためにはたらもうすのでもない。このまるはた故郷ふるさとのしるしともう覚悟かくご――とおこたえになったとか」
 武蔵むさしは、なにしろ興味きょうみふかくいていた。外記げきさかずきわすれている。

さけえた」
 外記げきをたたいておんなんだ。そしてなお、さけをいいつけそうなので、武蔵むさしはあわてて、
「もう十分じゅうぶんです。わたし湯漬ゆづけ頂戴ちょうだいいたしたい」
 固辞こじすると、
「……なんの、まだ」
 と外記げきは、のこつぶやいたが、相手あいて迷惑めいわくおもったか、きゅうに、
「では、めしもらおうか」
 と、おんなへいいなおした。
 湯漬ゆづけべながらも、外記げきはまだしきりと主人自慢しゅじんじまんはなしつづけている。なか武蔵むさしこころかたむけさせられたものは、政宗公まさむねこうという一箇いっこ武辺ぶへん中心ちゅうしんとして、伊達藩だてはんものがこぞって、
如何いか武士ぶしたるべきか)
 と――武士ぶし本分ほんぶんを、「士道しどう」というものを、みがっているふうさかんなことだった。
 いま社会しゃかいに、「士道しどう」はあるかないか、といえば、武士ぶしおこったとお時代じだいから、ばくとした士道しどうはあった。けれどばくとしたままそれはふる道徳どうとくとなり、乱世らんせのつづくうちに、その道義どうぎみだてて、いまでは太刀たち人間にんげんあいだに、かつてのふる士道しどうさえ見失みうしなわれてしまっている。
 そしてただ、
武士ぶしだ)
弓取ゆみとりだ)
 という観念かんねんだけが、戦国せんごくのあらしとともにつよまっているのみである。あたらしい時代じだいつつあるが、あたらしい士道しどうっていない。したがってその武士ぶしだ、弓取ゆみとりだと自負じふするもののうちには、屡々しばしば田夫でんぷ町人ちょうにんにもおと下劣げれつなのがかけられる。勿論もちろん、そういう下劣げれつなる武将ぶしょうは、みずか滅亡めつぼうまねいてはゆくが、そうかといって、しんに「士道しどう」をみがいて、自国じこく富強ふきょう根本こんぽんとしてゆこうと自覚じかくしているほどしょうは――まだ豊臣系とよとみけい徳川系とくがわけい諸侯しょこうわたしてもきわめてすくないのではあるまいか。
 かつて。
 それは姫路城ひめじじょう天主てんしゅ一室いっしつへ、武蔵むさしが、沢庵たくあんのために、三年さんねんのあいだ幽閉ゆうへいされて、もみずに書物しょもつばかりていたあのころである。
 あの沢山たくさん池田家いけだけ蔵書ぞうしょなかに、一冊いっさつ写本しゃほんがあったことをおぼえている。それには、

  不識庵様日用修身巻ふしきあんさまにちようしゅうしんかん

 という題簽だいせんがついていた。不識庵ふしきあんとは、いうまでもなく、上杉謙信うえすぎけんしんのことである。書物しょもつ内容ないようは、謙信けんしん自身じしん日用にちよう修身しゅうしんきならべて、家臣かしんしめしたものであった。
 それをんで武蔵むさしは、謙信けんしん日常生活にちじょうせいかつるとともに、あの時代じだい越後えちご富国強兵ふこくきょうへいないわれをった。――けれど「士道しどう」というものにまではまだおもいたらなかった。
 ところがこよい、石母田外記いしもだげきはなしをいろいろいていると、政宗まさむねはその謙信けんしんにもおとらない人物じんぶつおもわれてるのみでなく、伊達一藩だていっぱんには、この乱麻らんまなかにあって、いつのまにか、幕府権力ばくふけんりょくにもくっしない「士道しどう」をみ、それをみがっているふう勃々ぼつぼつとして、ここにる、石母田外記一人いしもだげきひとりても、わかもちがするのであった。
「いや、おもわず、それがしばかり勝手かってなことを喋舌しゃべったが……どうじゃな武蔵殿むさしどの。いちど仙台せんだいへもおしなさらぬか。主人しゅじんいたって無造作むぞうさなおかたでござる。士道しどうのあるさむらいなら、牢人ろうにんであろうと、だれであろうと、お気易きやすくおいなされるたちじゃ。それがしから御推挙ごすいきょもいたそう。ぜひおいでなされ。――ちょうどこうした御縁ごえんおりなんならば、御同道申ごどうどうもうしてもよいが」
 ぜんげてから、外記げきは、熱心ねっしんにこうすすめたが、武蔵むさし一応いちおう、「かんがえたうえで」とこたえて、臥床ふしどにわかれた。
 べつな部屋へやへわかれて、まくらについてからも、武蔵むさしえていた。
 ――士道しどう
 じっと、そこに、思索しさくをあつめているうちに、かれは、忽然こつねんと、それを自己じこけんかえりみてさとった。
 ――剣術けんじゅつ
 それではいけないのだ。
 ――剣道けんどう
 くまでけんは、みちでなければならない。謙信けんしん政宗まさむねとなえた士道しどうには、多分たぶんに、軍律的ぐんりつてきなものがある。自分じぶんは、それを、人間的にんげんてき内容ないように、ふかく、たかく、きわめてゆこう。しょうなる一個いっこ人間にんげんというものがどうすれば、その生命せいめいたく自然しぜん融合調和ゆうごうちょうわして、天地てんち宇宙大うちゅうだいとも呼吸こきゅうし、安心あんしん立命りつみょう境地きょうちたっるか、ないか。けるところまでってみよう。その完成かんせいこころざしてこう。けんを「みち」とよぶところまで、この一身いっしんに、てっしてみることだ。
 ――そうこころ決定けっていをつかんでから、武蔵むさしはふかくねむりにちた。