272・宮本武蔵「空の巻」「導母の杖(5)(6)」


朗読「272空の巻13.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 32秒

 ――真剣しんけんで。
 武蔵むさしがいったために、老母ろうぼきゅう動顛どうてんしたのであろうか。
「ア。っても」
 ふいによこからいった。
 だが、武蔵むさし権之助ごんのすけ、そうふたつのものは、もうそれくらいな制止せいしでは、針程はりほどうごかなかった。
 権之助ごんのすけぼうは、この高原こうげんをみんなって、一撃いちげきうなりにそれをそうとするもののように、じっと小脇こわきふくんでかまえ、武蔵むさし片手かたては、つばした膠着こうちゃくしたまま、相手あいてなかへ、自分じぶん眼光がんこうっこむようなをしているのである。
 もう二人ふたりは、内面ないめんにおいて、むすんでいるのである。とは、この場合ばあい太刀以上たちいじょう棒以上ぼういじょう相手あいてる。まずもっせてから、ぼうやいばか、どっちかの得物えものがはいってこうとするのである。
まちたッしゃれ!」
 老母ろうぼは、またさけんだ。
「――なにか?」
 と、こたえるためには、武蔵むさし五尺ごしゃくあと退しりぞいていた。
真剣しんけんじゃそうな」
「いかにも。――木剣ぼっけんでいたしても、真剣しんけんでいたしても、拙者せっしゃ試合しあいおなじことですから」
「それをめるのではないぞえ」
「おわかりならばよいが、けん絶対ぜったいだ……にかける以上いじょう五分ごぶまでの、七分ななぶまでの、そんな仮借かしゃくがあるものではない。――さもなくば、げるかがあるばかり」
もとよりのこと。――わしがめたは、それではない。これほどな試合しあいに、あと名乗なのわなんだことをやんではと――ふとおもったからじゃ」
「うむ、いかにも」
うらみではなし、しかし、どちらからても、がたきよい相手あいて、このえにし。――ごんよ、そなたから名乗なのったがよい」
「はい」
 権之助ごんのすけは、素直すなお一礼いちれいして、
とおくは、木曾殿きそどの幕下ばっか太夫房たゆうぼう覚明かくみょうもうし、そのひと家祖かそといいつたえております。なれども、覚明かくみょう木曾殿きそどの滅亡後めつぼうご出家しゅっけして、法然ほうねん上人しょうにんしつさんじておりますゆえ、その一族いちぞくやもれませぬ。年久としひさしく、土民どみんとしていまわたしだいいたりましたが、ちちころ恥辱ちじょくをうけ、それを無念むねんにおもいまして、ははともちかいをたて、御岳おんたけ神社じんじゃ参籠さんろうして、かならず、武道ぶどうをもってつことを神文しんもんちかったのです。――そして神前しんぜんにおいて、会得えとくしたこの杖術じょうじゅつを、みずか夢想むそうりゅうしょうし、ひとはてまえをんで、夢想権之助むそうごんのすけといっております」
 かれくちむすぶと、武蔵むさし礼儀れいぎかえして、
拙者せっしゃいえは、播州ばんしゅう赤松あかまつ支流しりゅう平田ひらた将監しょうげんすえで、美作みまさか宮本村みやもとむらじゅうし、宮本無二斎みやもとむにさいとよぶものの一子いっし同苗どうみょう武蔵むさしであります。さして、有縁うえんものもおりませず、また、もとより武辺ぶへんをゆだねてにさすろう以上いじょうは、たとえこれにおいて、其許そこもとじょうしたに、あえなく一命いちめいおわろうとも、毛骨もうこつのお手数てすうなどはご無用むようわざです」
 と、いった。そして、
「では」
 と、なおると、権之助ごんのすけじょうなおして、
「では」
 と、おうじた。

 まつもとにすわりこんだ老母ろうぼはそのときいきもしていないようにえた。
 りかかった災難さいなんとでもいうならばともかく、われからもとめて、いかけててまで、わがいま白刃しらはまえたせている。――常人じょうじんには到底考とうていかんがえられない心理しんりなかに、しかし、この老母ろうぼ自若じじゃくとしているのだ。万人ばんにんなんといおうが、自分じぶんだけはふかしんじるところがあるもののような姿すがたをして――。
「…………」
 べたんと、すわったまま、かたをすこしまえおとし、行儀ぎょうぎよく両手りょうてひざにかさねている。幾人いくにんみ、幾人いくにんくして、貧苦ひんくなかえてきた肉体にくたいか、その姿すがたはいかにもちいさい。そしてしぼみきっている。
 ――だがいま武蔵むさし権之助ごんのすけとが、何尺なんじゃくかのつちあいだ対峙たいじして、
「では」
 と、戦端せんたんったせつなに、老母ろうぼひとみは、天地てんち仏神ぶっしん皆集みなあつまってそこからのぞいているような、巨大きょだいひかりはっした。
 彼女かのじょは、すでに武蔵むさしけんまえに、その運命うんめいさらしていた。武蔵むさしさやはらった瞬間しゅんかんに、権之助ごんのすけはもう自分じぶん運命うんめいがわかったようながして、からだがさっとつめたくなった。
(はて、この人間にんげんは?)
 といまえてたのである。
 いつぞや、わがうらで、不用意ふよういたたかって感得かんとくしたてきとはまるでそのたいちがう。文字もじでいうならば、かれは、草書そうしょ武蔵むさして、武蔵むさし人間にんげんりっしていたが、きょうの厳粛げんしゅくで、一点一画いってんいっかくもゆるがせにしない、武蔵むさし楷書かいしょたいて、自分じぶんてきはかるに、意外いがいなまちがいをいだいていたことをさとったのである。
 また、それがさとれる権之助ごんのすけであるから、いつぞやは自信じしんにまかせて、滅多打めったうちにりこんだじょうも、きょうは、頭上ずじょうへたかくりかぶったまま――まだ一打いちだうなりすらおこすことができない。
「…………」
「…………」
 いのはら草靄くさもやは、かかるあいだにッすらとれかけていた。とおくかすんでいるやままえを、一羽いちわ鳥影とりかげ悠々ゆうゆうよこぎってゆく。
 ――ぱッと、二人ふたりのあいだの空気くうきった。とりちるようなえない震動しんどうである。それはまた、じょう空気くうきったのか、けん大気たいきったのか、いずれともいえないことは、ぜんでいう、隻手せきしゅこえ如何いかんというのとおなじことである。
 ――のみならず双方そうほう五体ごたい得物えものいちにょなうごきかたは、とても肉眼にくがんってることはむずかしい。はっと、視覚しかくからのうへそれが直感ちょっかんする一秒間いちびょうかん何分なんぶんいちかわからない一瞬いっしゅんに、すでにうつ二人ふたり位置いち姿勢しせいはまるでかわっている。
 権之助ごんのすけおとした一撃いちげきは、武蔵むさしからだそとち、武蔵むさし小手こてひるがえして、中位ちゅういから上位じょういけてげたやいばは、権之助ごんのすけからだそととはいいながら、ほとんみぎかたから小鬢こびんをかすめるくらいにひらめいていた。
 同時どうじに、この場合ばあいも、武蔵むさしかたなは、かれのみのっている特質とくしつとして、相手あいてれてところまでくと、ヒラと、すぐ松葉まつばなり切先きっさきかえしてた。このかえ切先きっさきしたこそ、いつもかれ相手あいて地獄じごくとなるところであった。
 ために、第二撃だいにげきを、てきあたえるいとまもなく、権之助ごんのすけじょう両端りょうたんって、武蔵むさしかたなを、頭上ずじょうめた。
 かんと、かれひたいうえで、じょうった。白刃しらはじょうとのこんな場合ばあいじょう当然両断とうぜんりょうだんになってしまいそうなものだが、ななめにないかぎり、けっしてれるものでない。したがって、けるほうにも、その手心てごころがあって、権之助ごんのすけ頭上ずじょうよこかざしたじょうは、てき手元てもとふかひだりひじッこみ、みぎひじをややたかげて、咄嗟とっさ武蔵むさしを、じょう突端とったんかんとしながらけたものであった。しかし武蔵むさしやいばはたしかにまったが、その迅業はやわざは、成功せいこうしなかった。――なぜならば、じょうかたなとが、かれ頭上ずじょうで、十字じゅうじったせつな、じょうさき武蔵むさしむねのあいだには、しくも、ほんの一寸いっすんほどな空間くうかんのこしていたからである。