271・宮本武蔵「空の巻」「導母の杖(3)(4)」


朗読「271空の巻12.mp3」11 MB、長さ: 約 11分 40秒

 ――りかけたあしめて、武蔵むさしいわいわあいだきゅう細道ほそみち途中とちゅうで、しばらく、いわすがったまま、したていた。
 りてない、とたか、したなる権之助ごんのすけは、
「おっかあ、ここでていさっしゃい。なにも、試合しあいするには、平地ひらちかぎったこたあねえ。のぼってって、あの相手あいてを、したへたたきおとしてみせる」
 ははっているうし手綱たづなはなし――小脇こわきじょうなおして――やにわに岩山いわやまりつこうとすると、
「これ!」
 かれはははたしなめた。
「いつぞやも、そのような粗忽そこつ不覚ふかくもとではないか。いきりまえに、なぜようてきこころんでおかぬのじゃ。もしうえからいしでもおとされたらどうしやる」
 なおなにか、母子おやこのあいだで、わしているこえきこえる。しかし意味いみ武蔵むさしところまではきとれない。
 そのあいだに、武蔵むさしはらめていた。――やはりこの挑戦ちょうせんけるにくはないというかんがえである。
 すでに自分じぶんは、っているのだ。かれじょう技倆ぎりょうもわかっている。あらためてなおようはさらにない。
 のみならず、あの一敗いっぱい口惜くやしがって、母子おやこしてここまで自分じぶんあとしたってたところをると、愈々いよいよけずぎらいな母子おやこうらみのほどおそろしい。吉岡一門よしおかいちもんてきとしたれいても、うらみののこるような試合しあいはすべきでない。えきすくなくて、まちがえば、天命てんめいちぢめてしまう。
 それにまた、武蔵むさしは、盲愛もうあいするのあまひとのろ無知むち老母ろうぼおそろしさは、にもほねにもみて、一日一度いちにちいちどかならおもすほどだった。
 あの又八またはち母親ははおや――おすぎばばのかげを。
 なにこのんで、またひとははから、のろいをおう。どうかんがえても、これはげるの一手いって、ほかにあたさわりなくとおみちはなさそうにおもわれる。
 で、かれ無言むごんのまま、なかばまでりて岩山いわやまを、またふたたびうえむかって、のそのそとのぼりかけた。
「――あっ、お武家ぶけ
 そのへ、したからこうんだのは、あら息子むすこほうではなく、いまうしりて地上ちじょうった老母ろうぼほうであった。
「…………」
 こえちからにひかれて、武蔵むさしあしもとをりかえってみた。
 ると、老母ろうぼは、岩山いわやまあたりにすわって、じっと自分じぶん見上みあげている。武蔵むさしひとみした振向ふりむいたとると、老母ろうぼ両手りょうてをついているのである。
 武蔵むさしはあわてて、なおらずにいられなかった。一夜いちやおんにこそあずかっているが、そして、なんのれいものべずに裏口うらぐちからしてしまってこそいるが、この長上ちょうじょうから、両手りょうてをついて、辞儀じぎされることはなにもしていない。
(お老母ろうぼ勿体もったいない、おげてください)
 そういいたそうに、武蔵むさしおもわず、ばしていたひざかがめてしまった。
「――お武家ぶけ、さだめし、のつよいもの他愛たあいないやつと、おさげすみでございましょうの。はずかしゅうござりまする。しかし……遺恨いこんの、自惚うぬぼれのと、おもつのるのではございませぬ。年頃としごろじょうをつかいれて、もなく、とももなく、またよい相手あいてめぐわぬこのせがれを、不愍ふびんおぼして、もう一手いってのおおしえをうけたいのでござりまする」
 武蔵むさしはなお、無言むごんであった。けれど老母ろうぼが、とどきかねるこえ一心いっしんって、こうしたからいう言葉ことばには、みみあらってかなければならないまことがこもっていた。
「このままおわかもうしては、どうにも残念ざんねんでござります。ふたたび貴方あなたのようなお相手あいてえるやらどうやら。――なおなお、あの見苦みぐるしいやぶかたのままでは、このも、このははも、以前いぜんだたる武門ぶもんであった御先祖ごせんぞに、どう顔向かおむけがなりましょう。意趣いしゅではございませぬぞ。けるにしても、あれではただの土民どみんがねじせられただけのものでござります。折角せっかくめぐうた貴方あなたのようなおかたから、なにもずにぎては、それこそ口惜くやしいかぎりでございます。わしは、それをせがれしかってれてまいりました。――どうぞわしのねがいをかなえて試合しあってやってくだされい。おねがもうしまする」
 いいおわると、老母ろうぼは、武蔵むさしかかとおがむように、また、大地だいち両手りょうてをつかえていた。

 武蔵むさしだまってりてた。そして道傍みちばた老母ろうぼって、うししもどし、
ごんどの、手綱たづなて、あるきながらはなそう。――試合しあうか、試合しあわぬかは、わしもあるきながらかんがえるとして」
 と、いった。
 つぎかれは、黙々もくもくと、その母子おやこものけてあるいてく。はなしながらあるこうといったのに、その沈黙ちんもくかわらない。
 武蔵むさしなにまよっているか、権之助ごんのすけにはそのはらめないのである。うたがいのかれひからしている。そして一歩いっぽでもへだつまいとするもののように、のろうしあし叱咤しったしながらいてった。
 いやというか。
 おうか。
 うし老母ろうぼもまだ不安ふあんそうなかおえた。そして、十町じゅっちょう二十町にじゅっちょう高原こうげんみちあるいたかとおもころさきあるいていた武蔵むさしが、
「ウム!」
 とひと返辞へんじをしながら、くるりと、きびすをめぐらし、
「――立合たちあおう」
 と、いきなりいった。
 権之助ごんのすけ手綱たづなて、
承知しょうちか」
 即座そくざにもとおもったらしく、もう足場あしばまわすと、武蔵むさしは、意気いきごむ相手あいてそといて、
「じゃが――母御ははご
 うしへいうのである。
まんいちのことがあってもよろしいか。試合しあい斬合きりあいとはものがちがうだけで、紙一重かみひとえほどの相違そういもないが」
 ねんすと、老母ろうぼはじめてにことわらって、
御修行者ごしゅぎょうしゃ、おことわりまでもないことをおおせられる。じょうまなしてからもう十年じゅうねん。それでもなお、年下とししたのあなたにけるようなせがれであったら、武道ぶどうおもいをつがよい。――その武道ぶどうのぞみをっては、きるかいもないといいやる。さすれば、たれてんだとて当人とうにん本望ほんもうである。このははも、うらみにはぞんじませぬ」
「それまでにいうならば」
 と、武蔵むさしは、ひとみ一転いってんして、権之助ごんのすけてた手綱たづなをひろい、
「ここは往来おうらいがうるさい。どこぞへうしつないで、こころゆくまで、お相手あいていたそう」
 いのはらのまっただなかに、れかけている一本いっぽんおおきな落葉松からまつえる。あれへとして、武蔵むさしはそこへうしみちびき、
ごんどの。支度したく
 と、うながした。
 ちかねていた権之助ごんのすけは、おうと武蔵むさしまえぼうをひっげてった。武蔵むさし直立ちょくりつしたまま、相手あいてしずかにた。
「…………」
 武蔵むさしには木剣ぼっけん用意よういがない。そこらの得物えものひろって様子ようすもなかった。かたらず、二本にほんやわらかにげたままである。
支度したくをしないのか」
 今度こんど権之助ごんのすけからいった。
 武蔵むさしは、
「なぜ?」
 と、反問はんもんした。
 権之助ごんのすけは、っと、からすようなこえで、
得物えものれ、なんでもこのものを」
っておる」
無手むてか」
「いいや……」
 くびって、武蔵むさしは、ひだりをそっとしのばすように、かたなつばしたうつして、
此処ここに」
 といった。
「なに! 真剣しんけんで」
「…………」
 こたえは、くちびるはしゆがめた微笑びしょうもってした。ひく一声いっせいしずかな呼吸こきゅうひとつも、もういたずらについやすことはできないものになっている。
 落葉松からまつ根元ねもとへ、ぼとけのように、べたっとすわんでいた老母ろうぼかおは、途端とたんにさっとあおざめた。