268・宮本武蔵「空の巻」「星の中(1)(2)」


朗読「268空の巻9.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 19秒

ほしなか

 いかなる場所ばしょでも場合ばあいでも、武蔵むさしは、ようとおもときにすぐねむ修養しゅうよう健康けんこうっていた。しかしその時間じかんは、いたってみじかかった。
 ゆうべも――
 権之助ごんのすけいえもどっててから、のみのまま、一間ひとまりてよこになったが、小鳥ことりこえがしはじめるころは、もうをさましていた。
 けれど昨夜さくや野婦之池のぶのいけから池尻いけじりて、ここへもどってたのがもう夜半よなかぎであった。あの息子むすこつかれているだろうし、老母ろうぼもまだねむっているにちがいない。――そうさっしられるので、武蔵むさし小鳥ことりこえみみにしながら、寝床ねどこなかで、やがて雨戸あまどおとのするのをうつらうつらとっていた。
 ――すると。
 となり部屋へやではない。もう一間ひとまほどさきふすまらしかった。そこでだれやら、しゅくしゅくとすすいているものがある。
「……おや?」
 みみましていると、いているのは、どうやらあの精悍せいかん息子むすこらしく、時々ときどきどものように慟哭どうこくして、
「おっかあ、それやああんまりだ。おらだって、口惜くやしくねえことがあるものか。……おらのほうが、おっかあよりも、どんなに、口惜くやしいかれねえけれど」
 と、言葉ことばも、とぎれとぎれにしかれない。
おおきなをして、なにく――」
 こうでもたしなめるように、しっかりしたこえで――しかししずかにしかっているのは、かの老母ろうぼ間違まちがいなく、
「それほど無念むねんおもうなら、このあとこころいましめて、一心いっしんみちきわめてくことじゃ。……なみだなどこぼして、見苦みぐるしい。そのかおきなされ」
「はい。……もうきませぬ。昨日きのうのような不覚ふかくをおにかけましたつみは、どうかおゆるくださいまし」
「――とはしかりましたが、ふかおもうてみれば、下手へた上手じょうず。また、無事ぶじがつづくほど、人間にんげんなまるという。そなたがけたのは、あたまえなことかもれぬ」
「そうおっかあにいわれるのが、なによりおらあつらい。平常ふだん朝夕あさゆうに、おしかりをうけながら、昨夜ゆうべのような未熟みじゅくかた。あんなざまでは、武道ぶどうつなどというだいそれたこころざしも、われながらずかしい。このうえは、生涯しょうがい百姓ひゃくしょうおわるつもりで、武技ぶぎみがくよりはくわち、おっかあにも、もっとらくをさせまする」
 何事なにごとなげいているのかと、はじめは武蔵むさし他事よそごといていたが、どうやら、母子おやこ対象たいしょうとしているものは、自分以外じぶんいがい他人たにんではないらしい。
 武蔵むさしは、憮然ぶぜんとして、寝床ねどこのうえにすわなおした。――なんというつよい勝敗しょうはいへの執着しゅうちゃくだろうか。
 昨夕さくゆう間違まちがいは、もうおたがいの間違まちがごとと、こころましているのかとおもえば、それはそれとして、武蔵むさしけたというてんを、ここの母子おやこは、いまもって、くまで不覚ふかく恥辱ちじょくとして、なみだにくれるほど無念むねんがっているのである。
「……おそろしいけずぎらい」
 武蔵むさしつぶやいて、そっとつぎ部屋へやへかくれた。そして夜明よあけのうすひかりれているそのまたつぎ一室いっしつうちを、隙間すきまからそっとのぞいてみた。
 ると、そこは、このいえ仏間ぶつまであった。老母ろうぼ仏壇ぶつだんにしてすわり、息子むすこはそのまえしている。――あのたくましい大男おおおとこ権之助ごんのすけが、ははまえには他愛たあいもなくかおをよごしていている。
 武蔵むさしが、ふすまのかげからているともらず、老母ろうぼはそのときまた、なにさわったのか、
「なんじゃと、……これ権之助ごんのすけいま、なんといやったか」
 ふいに、こえはげまして、息子むすこえりがみをつかんでいた。

 年来ねんらい志望しぼうであった武道ぶどうてて、明日あしたからは、生涯百姓しょうがいひゃくしょうおわるつもりで孝養こうようするといった息子むすこのことばが――わないのみか、かえって、老母ろうぼこころおこらせたもののごとく、
「なに。百姓ひゃくしょうおわるとか」
 息子むすこえりがみをひざせると、しりでもたたくように、彼女かのじょは、がゆそうに、権之助ごんのすけしかるのだった。
「どうぞして、そなたをし、まいちど家名かめいおこさせたいものとねがえばこそ、ははもこのとしまで、のぞみをつないでいたものを、このまま、草屋くさやおわるほどなら、なんで幼少ようしょうからそなたにしょませ、武道ぶどうはげまし、稗粟ひえあわ細々生ほそぼそいきてまで、露命ろめいいとをつむいでようぞ」
 老母ろうぼは、ここまでいうと、えりがみをおさえたまま、こえ嗚咽おえつになってしまって――
不覚ふかくったら、なぜそのはじをそそごうとはおもわぬか。さいわいなことには、あの牢人ろうにんはまだこのいえとまっておる。をさましたらあらためて手合てあわせをのぞみ、そのくじけた気持きもち信念しんねんもどしたがよい」
 権之助ごんのすけは、やっとかおげたが、わるそうに、
「おっかあ、それが出来できるほどならば、おらがなん弱音よわねくものか」
つね其方そなたにもあわぬこと。どうしてそのように意気地いくじのうなりやったか」
「ゆうべも、半夜はんやのあいだ、あの牢人ろうにんあるくうち、えず、一撃ひとうちくれてやろうと、ねらつづけていたが、どうしても、なぐることができなかった」
「そなたが、ひるみをいているからじゃ」
「いいや、そうでねえ。おらのからだにも木曾侍きそざむらいながれている。御岳おんたけ神前しんぜん二十一日にじゅういちにち祈願きがんをかけ、夢想むそうなかに、じょう使つかかたさとったこの権之助ごんのすけだ、なんでもない牢人ろうにんずれに――と、幾度いくど自分じぶんではおもってみるが、あの牢人ろうにん姿すがたると、どうしても、ねえだ。さきに、駄目だめだとおもってしまうのだ」
じょうをもって、かなら一流いちりゅうてますると、御岳おんたけかみちかったそなたが――」
「でも、よくよくかんがえてみると、今日きょうまでのことはみな、おらのひとりよがりだった。あんな未熟みじゅくで、どうして、一流いちりゅうおこすことなどできるものか。そのために貧乏びんぼうして、おっかあにひもじいおもいをかけるより、きょうかぎり、じょうって、一枚いちまいでもよけいにたがやしたほうがいいとおらあかんがえただが」
いままで、おおくの人々ひとびと手合てあわせしても、一度いちどとして、けたということのないそなたが、きのうにかぎってやぶれたのも、おもいようにっては、そなたの慢心まんしんを、御岳おんたけかみがおしかりなされてくだされたのかもれぬが、そなたがじょうって、わしに不自由ふじゆうなくしてくれても、わしがこころは、美衣美食びいびしょくたのしみはせぬ」
 そうさとしてから、老母ろうぼはなおもいうのだった。おくのおきゃく眼醒めざめたら、あらためてもう一度いちどわざきそってみるがよい。それでもやぶれたら、おまえむように、じょうって、こころざしつもよかろうが――と。
 ふすまのかげ始終しじゅうこといてしまった武蔵むさしは、
(さて、こまったことが……)
 と、当惑とうわくしながら、そっとって、ふたたび自分じぶん寝床とこのうえにすわりこんだ。