267・宮本武蔵「空の巻」「毒歯(3)(4)」


朗読「267空の巻8.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 43秒

 これほどにいえば、どんなおとこでも、ころすか、あきらめるか、どっちかにするであろう。
 おつうはそういってから、なんだかむねがすいた。そして又八またはちに、どうされてもやむをないと観念かんねんしていた。
「……ウウム、いったな」
 又八またはちは、からだのふるえをこらえながら、つとめて冷笑れいしょうしてせようとした。
「それほど、おれがきらいか。――はっきりしていていいや。――だがおつう、おれもはっきりいっておくぜ。それは、てめえがきらおうがこうが、おれはてめえのからだを、今夜こんやからさきは、自分じぶんのものにしてしまうということだ」
「……?」
「なにをふるえるんだ? ……ええおい、てめえもいま言葉ことばは、相当そうとう覚悟かくごをもっていったのだろうが」
「そうです、わたしはおてらそだちました。みのおやかおすららない孤児みなしごです、ぬことなど、いつでも、そうこわいとはおもっておりません」
冗談じょうだんいうな」
 又八またはちは、そばへしゃがみんで、反向そむけるかおへ、意地悪いじわるかおってきながら、
だれころす? ――ころしてたまるものか。こうしておくのだ!」
 いきなりかれは、おつうかたひだり手頸てくびをかたくつかまえた。そして着物きものうえから――彼女かのじょうでのあたりを、がぶっと、ふかみついた。
 ――ひいイっ、おつうおもわず悲鳴ひめいをあげた。
 ゆかにもがいてあばれた。そして、かれをもぎはなそうとするほど、かれさきにくふかれてしまった。
 淋漓りんりたるしおが、小袖こそでしたって、しばられている指先ゆびさきまでぽとぽとれてきた。
 又八またはちは、それでもなお、わにのようなくちはなさなかった。
「…………」
 おつうかおは、月明つきあかりでもけているように、るまにしろくなってしまった。又八またはちはぎょッとして、くちびるはなし、そして彼女かのじょかおさるぐつわをって、彼女かのじょくちびる調しらべてみた。――もしやしたでもったのではなかろうかと。
 あまりのいたさに、喪心そうしんしたのであろう、かがみくもりのようなうすあせかおいていたが、くちびるなかにはなんの異常いじょうもなかった。
「……おいっ、堪忍かんにんしろ。……おつう、おつう
 すぶると、おつうは、われにかえったが、途端とたんに、ふたたびからだゆかころばせて、
いたい。……いたい。……城太じょうたさアん、城太じょうたさあん! ……」
 と、うつつにさけした。
てえか」
 又八またはちは、自分じぶん蒼白そうはくになってかたいきをつきながらいった。
まっても、歯型はがたあざ何年なんねんえることじゃねえ。おれの、そのあとを、ひとたらなんおもう? ……。武蔵むさしったらなんかんがえるか。……まあ当分とうぶんあいだ、いずれおれものとなるてめえのからだに、それを手付てつけ証印しょういんとしてあずけておくぜ。げるならげてもいい。おれは天下てんかに、おれの歯型はがたのあるおんなれたやつは、おれの女讐めがたきだといってあるくから」
「…………」
 うつばりちりかすかにこぼして、くら堂内どうないゆかには、よよときむせぶこえばかりだった。
「……せっ、いつまで、いてやがって。滅入めいってしまわあ。もういじめねえからだまれ。……うむ、みずをいっぺいっててやろうか」
 祭壇さいだんから土器かわらけって、そとこうとすると、そこの木連格子きつれごうしそとって、だれか、のぞしていたものがある。

 だれか? ――とぎょっとしたが、どうそとえた人影ひとかげは、途端とたんにあわててまろんで様子ようすなので、又八またはち猛然もうぜんと、木連格子きつれごうしして、
野郎やろうっ」
 と、けてた。
 つかまえてみると、この附近ふきん土民どみんらしく、うまに、穀物こくもつたわらみ、とおして、塩尻しおじり問屋とんやまで途中とちゅうだという。そしてなお、諄々くどくどと、
「べつに、どういう心算つもりでもなく、おどうなかに、女子おなごごえきこえたので、不審ふしんおもって、のぞいてみただけでござります」
 と、わけして、平蜘蛛ひらぐものように、るだけだった。
 よわものにはどこまでもつよくなれる又八またはちであるから、たちまち、反身そりみになって、
「それだけか。――それだけのかんがえに相違そういないか」
 と、まるで代官だいかんのように威張いばっていう。
「へい、まったく、それだけのことで……」
 と、一方いっぽう愈々いよいよふるえおののくと、
「うむ、それなら勘弁かんべんしてつかわそう。だが、そのかわりに、うまたわらをみんなろせ。そして、たわらのあとへ、あのおどうなかにいるおんなくくしつけて、おれがもうよいというところまでせてくのだ」
 勿論もちろん、こんな無理むりしつける場合ばあいは、又八またはちでない人間にんげんでも、かならかたなをひねくりかえしてせることはわすれない。
 嫌応いやおうなしのおどしである。おつううま背中せなかくくしつけられた。
 又八またはちは、たけひろって、うま人間にんげんなぐむちとしながら、
「こら土民どみん
「へい」
街道かいどうすじへてはならねえぞ」
「では、どこへおしなさるのでございますか」
「なるべく、ひととおらないところとおって、江戸えどまでくのだ」
「そんなことをっしゃっても無理むりでございまする」
なに無理むりだ。裏街道うらかいどうけばいいのだ。さしずめ、中山道なかせんどうけて、伊那いなから甲州こうしゅうるようにあるけ」
「それやあ、えらい山路やまみちで、姥神うばがみから権兵衛峠ごんべえとうげえねばなりませぬで」
えればいいじゃねえか。骨惜ほねおしみすると、これだぞ」
 と、うま人間にんげんへ、えずむちらして、
めしだけはきっとわせてやるから、心配しんぱいせずにあるけ」
 百姓ひゃくしょうは、ごえになって、
「じゃあ旦那だんな伊那いなまでおともいたしますが、伊那いなたらはなしておくんなさいますか」
 又八またはちは、かぶりをった。
「やかましい。おれがいいというところまでだ。そのあいだに、へん素振そぶりをしやがると、ぶッたるぞ。おれようなのは、うまだけで、人間にんげんなぞは、かえって邪魔じゃまくせえくらいなものだ」
 みちくらい、やまにかかるほど、けわしくなってゆく。そしてうまひとつかれたころ、やっと姥神うばがみ中腹ちゅうふくまでかかり、あしもとに、うみのようなくもなみと、あさひかりかすかにた。
 うまにしがみついたまま、一言ひとことものをいわずにきたおつうも、あさひかりると、それまでのあいだに、もうこころをすえてしまったかのように、
又八またはちさん。後生ごしょうですから、もうそのお百姓ひゃくしょうさんをはなしてやってください。このうまかえしてあげてください。――いいえ、わたしげはしませぬ。ただ、そのお百姓ひゃくしょうさんが可哀かわいそうですから」
 又八またはちはなお、うたぐっていたが、再三再四さいさんさいし、おつううったえるので、ついに、彼女かのじょうまからいてろしたあと
「じゃあきっと、素直すなおおれについてあるくな」
 と、ねんした。
「ええ、げはしませぬ。げても、蛇歯型へびはがたえないうちはむだですから――」
 うでいたみをおさえながら、おつうはそういって、くちびるんだ。