265・宮本武蔵「空の巻」「木曽冠者(7)(8)」


朗読「265空の巻6.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 48秒

 ぶすぶすと、松明たいまつさきっぽにかぜえる。
 おおきな山岳さんがくすそは、かぜたとおもうと、ぐわうと草木くさきもふきいて、すご一瞬ひとときりをおこすが、んだとなると、ハタといきをひそめて、不気味ぶきみなほどしずかなほしのまたたきばかりとなる。
たびもの
 権之助ごんのすけは、松明たいまつげてあとから武蔵むさしちながら――
どくだが、どうしてもれねえのう。これから野婦之池のぶのいけまでゆく途中とちゅう、もう一軒いっけん、あのおか雑木林ぞうきばやしのうしろに、りょうをしたり、百姓ひゃくしょうしたりしているいえがあるが、そこでいてもれなければ、もうさがしようがねえというもんだが」
「ご親切しんせつに、かたじけない。これまで十数軒じゅうすうけんあるいても、なんの手懸てがかりもなければ、これは拙者せっしゃ方角ほうがくちがいへているのであろう」
「そうかもれねえ。おんな誘拐かどわか悪党あくとうなどというものは、悪智恵わるぢえけているから、滅多めったいつかれるような方角ほうがくげるはずはねえ」
 もう夜半よなかぎていた。
 こまだけ裾野すその――野婦村のぶむら樋口村ひぐちむら、その附近ふきんおかはやしなど、よいからおよそあるくしたといってもいい。
 せめて、城太郎じょうたろう消息しょうそくでもれそうなものだが、誰一人だれひとり、そんなものかけたというものもない。
 わけておつう姿すがたには特徴とくちょうがあるから、ものがあればすぐれるわけだが、どこでいても、
「はてねえ?」
 と、気永きながくびをかしげる土民どみんばかりであった。
 武蔵むさしは、その二人ふたり安否あんぴむねいためるとともに、えんもゆかりもないのに、この労苦ろうくともにしてくれる権之助ごんのすけにすまないがしてくる。明日あした野良のらはたらかなければならないからだだろうにとおもう。
「とんだ迷惑めいわくをおかけもうしたのう。そのもう一軒いっけんたずねてみて、それでもれぬとあれば、ぜひがない、あきらめてもどるといたそう」
あるくぐれいなこと、どおしあるいたところで、なんのこともねえが、いったいその女子おなごわらべというのは、お武家ぶけ召使めしつかいか、それとも姉弟きょうだいたちかね」
「されば――」
 まさか、その女性おんなほう恋人こいびとで、子供こども弟子でしとも、こたえられないので、
身寄みよりのものです」
 と、いうと、そういう肉親にくしんすくないさみしくかんがしてでもいるのか、権之助ごんのすけ無口むくちになって、ひたすら野婦之池のぶのいけるという雑木ぞうきおか細道ほそみちさきあるいてく。
 武蔵むさしいま、おつう城太郎じょうたろうあんじる気持きもちで、むねもいっぱいになっていたが、そのなかにもこころのうちでは、この機縁きえんつくってくれた運命うんめい悪戯いたずらに――たとえ悪戯いたずらであろうと感謝かんしゃせずにはいられなかった。
 もしおつうにその災難さいなんがかかってなかったら、自分じぶんは、この権之助ごんのすけ機会きかいはなかったろう。そしてあのぼう秘術ひじゅつおりがなかったに相違そういない。
 流転るてんなかで、おつうきはぐれてしまったことは、彼女かのじょ生命せいめいにつつがないかぎり、やむをない災難さいなんおもうしかないが、もしこのにおいて、権之助ごんのすけ棒術ぼうじゅつ出会であわずにしまったら、武芸ぶげいみち生涯しょうがいする自分じぶんとして、だいなる不幸ふこうであったろうとおもう。
 ――で、おりもあらば、かれ素姓すじょうい、その棒術ぼうじゅつについてもふかただしてみたいと先刻さっきからかんがえていたが、武道ぶどうのこととおもうと、しつけにきかねて、ついおりもなくあるきつづけていると、
たびもの、そこにっていろ。――あのいえだが、もうているにきまっているから、おれがおこしていててやる」
 木々きぎなかしずんでえる一軒いっけん藁屋根わらやねゆびさすと、権之助ごんのすけはひとりで、そこらの崖藪がけやぶきわけ、がさがさとりて、そこのたたいていた。

 ほどなくもどって権之助ごんのすけが、武蔵むさしむかってげることには。
 どうもくもをつかむような返辞へんじばかり、ここに猟師りょうし夫婦ふうふも、こちらのたずごとについては、さっぱり要領ようりょうないが、ただ内儀かみさんが夕方ゆうがた買物かいものかえみち街道かいどうかけたというはなしは、ことによると一縷いちる手懸てがかりといえるやもれない。
 その内儀かみさんのはなしによると、もうほししろよい時刻ころ旅人たびびとかげ途絶とだえ、並木なみきかぜばかりがさみしいみちを、おいおいとごえあげながら、むこずにんでゆく小僧こぞうがある。
 かおどろまみれのままで、こしには木刀ぼくとうし、藪原やぶはら宿場しゅくばほうけてくので、内儀かみさんがどうしたのかといてやると、
代官所だいかんじょはどこにあるかおしえておくれ)
 となおいていう。
 代官所だいかんじょなにしにくかと、ってくと、
れのものが、悪者わるものさらわれてったから、かえしてもらうんだ)
 とのこたえ。
 それならば代官所だいかんじょってもむだなことだ。お役所やくしょというところは、だれえらひとたびとおるとか、かみからのお吩咐いいつけとでもあれば、てんてこまいして、みち馬糞ばふんってすなまでくが、よわものうったえなどに、どうして本気ほんきみみをかしてさがしてなどくれるものか。
 ことに、おんな誘拐かどわかされたとか、追剥おいはぎにあってはだかにされたとかいう小事件しょうじけんは、街道筋かいどうすじにはあさゆうにあることで、めずらしくもなんともない。
 それよりは藪原やぶはら宿一しゅくひとさきして、奈良井ならいまでくとよい。まちつじだからすぐれるところ奈良井ならい大蔵だいぞうさんというて、お百草ひゃくそうくすりにしておろしている問屋とんやがある。その大蔵だいぞうさんにわけをいうてたのめば、このひとはお役所やくしょ反対はんたいに、よわもののいうことほど、親切しんせついてもくれるし、ただしいことなら、ひとのために身銭みぜにってなんでもひきけてくれるから――
 内儀かみさんの言葉ことばをそのまま、権之助ごんのすけくちうつしにそこまでかたって、
「こういってやると、その木刀ぼくとうした小僧こぞうは、きやんでまた、あとずにけてったということなんだが――もしやれの城太郎じょうたろうとかいう子供こどもが、それじゃあるめえか」
「オオ、それです」
 武蔵むさしは、城太郎じょうたろう姿すがたを、るがごと想像そうぞうしながら、
「――すると、拙者せっしゃさがしにたこの方角ほうがくと、まるでちがったほうったわけですな」
「それやあ、此処こここまふもとだし、奈良井ならいみちからは、ずっとよこはいっている」
なにかと、お世話せわでござった。それでは早速さっそく拙者せっしゃもその奈良井ならい大蔵だいぞうとかを、たずねてまいろう。――おかげかすかながら、緒口いとぐちほぐれて心地ここちがする」
「どうせ途中とちゅうになるから、おれのいえって、一寝ひとやすみしたうえで、朝飯あさめしでもってつといい」
「そうねがおうか」
「そこの野婦之池のぶのいけわたって、池尻いけじりると、半分道はんぶんみちえれる。いまことわっておいたから、ふねりてゆくとしよう」
 そこからすこりてゆくと、楊柳かわやなぎかこまれた太古たいこのようなみずがある。周囲しゅういざっとろく七町しちちょうもあろうか。こまだけかげも、いちめんのほしも、ありのままに、いけおもてうかんでいた。
 なぜなのか、この地方ちほうにそうえない楊柳かわやなぎが、このいけまわりだけにはしげっている。権之助ごんのすけさおち、そのかわりに、かれにあった松明たいまつ武蔵むさしち、すべるようにいけ中央ちゅうおう横切よこぎってった。
 みずうえ松明たいまつは、くらみずうつって、一倍赤々いちばいあかあかえた。――そのながれるるほのおを、おつうはそのときていたのである。ひと皮肉ひにくといおうか、くまで薄縁うすべり二人ふたりなかといおうか、場所ばしょも、そうとおくないところから。