263・宮本武蔵「空の巻」「木曽冠者(3)(4)」


朗読「263空の巻4.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 21秒

 ――たらさいわい。
 まずあの猪男ししおとこ手捕てどりにして、おつうをどこにかくしたか詮議せんぎはそれからのことにしよう。
 老婆ろうば息子むすこらしい勇猛ゆうもうそうなそのおとこのほかに、いざとなれば、まだ三名さんめいてきすかもれないが、かれさえッちめれば、ものかずではない。
 武蔵むさし母屋おもやなか老婆ろうばが、権之助権之助ごんのすけごんのすけてるとともに、小窓こまどしたはなれて、このいえかこ立木たちき一部いちぶかくしていた。
 するとやがて、
「どこにっ?」
 と、権之助ごんのすけとよばれた息子むすこは、うらから大股おおまたんでて、もいちど其処そこで、
「おっかあ、なにがいたんだ?」
 と呶鳴どなってく。
 小窓こまどに、老婆ろうばかげって、
「そのへんで、いま咳声しわぶききこえたがの」
みみのせいじゃないか。おっかあはこのごろわるくなったし、みみもとんととおくなったからなあ」
「そうでない。だれか、まどからいえうちのぞしていたにちがいない。けむりせたこえじゃった」
「ふうん……?」
 権之助ごんのすけは、十歩二十歩じゅっぽにじゅっぽ、そのへんを、あたかも城郭じょうかくでもまわるようにあるいて、
「そういえば、なんだか、人間臭にんげんくさいぞ」
 と、つぶやいた。
 武蔵むさし迂濶うかつなかったわけは、やみひか権之助ごんのすけじつにらんらんと害意がいいえているためであった。
 それと、あしのつまさきからむないたにかけて、ちょっとあたがたかまえをそなえているので、それも不審ふしんおもい、なにっているのか得物えものたしかめるつもりで、かれあゆみまわるかげ凝視ぎょうししていると、みぎ手裡てうらから小脇こわきうしろにけ、約四尺やくよんしゃくばかりの丸棒まるぼうをしのばせていることがわかった。
 そのぼうも、そこらの麺棒めんぼう張棒ばりぼうを、うまま、かかえてたものとはちがい、一種いっしゅ武器ぶきとしてのひかりっている。――のみならず、ぼうと、ぼう人間にんげんとが、武蔵むさしからると、まったくふたつにしてひとつのものとなっている。いかにこのおとこが、つねにそのぼうともくらしているかがわかるほどなのだ。
「やっ、誰奴どいつだッ?」
 ふいにぼうかぜんで、権之助ごんのすけからまえびた。武蔵むさしはそのうなりにかれたように、ぼうさきから、ややななめに、うつしてった。
びと引取ひきとりにた」
 ――相手あいてが、自分じぶんめすえたままだまっているので、
街道かいどうからこれへ誘拐かどわかして女子おなごわらべかえせ。――もし無事ぶじもどしてびるならばめんじておくが、怪我けがなどさせてあったら承知しょうちせぬぞ」
 と、かさねていった。
 このへんへいといってもよいこまだけ雪渓せっけいから、さととはひどく温度おんどのあるつめたいかぜが、ほししたを、時折ときおりそよそよしのんでくる。
「――わたせッ。れていっ」
 三度さんどめである。
 武蔵むさしがその雪風ゆきかぜよりもするどこえるようにいうと、逆手さかてぼうにぎって、くようなをすえていた権之助ごんのすけかみが、はりねずみのように、っとった。
「この馬糞まぐそめ! おれを誘拐かどわかしだと?」
「おう、れもない、おんなわらべくびって、これへ誘拐ゆうかいしてたにちがいあるまい。――せっ、かくしたものを」
「な、なんだとッ」
 権之助ごんのすけからだから突然とつぜん四尺余よんしゃくあまりぼういてた。――ぼうか、ぼうか、そのはやいことはにもとまらない。

 武蔵むさしけるより仕方しかたがなかった。おどろくべきこのおとこ練磨れんまわざ体力たいりょくまえにしては。
 で、一応いちおう
「おのれ、のちゆるな」
 警告けいこくあたえておいて、自分じぶん数歩すうほ退いたが、不可思議ふかしぎぼう使つかは、
「なにを、洒落しゃらくせえ」
 とわめきながら、けっして一瞬いっしゅん仮借かしゃくもするのではなかった。十歩じゅっぽ退けば十歩迫じゅっぽせまり、五歩ごほかわせば五歩寄ごほよってくる。
 武蔵むさし相手あいてからひら間髪かんぱつごとに、二度にどほど、かたなをやりかけたが、その二度にどとも、非常ひじょう危険きけんかんじて、ついに、はないとますらもない。
 なぜならば、にかける一瞬いっしゅんでも、てきまえひじさらすきとなるからである。てきによって、そんな危険きけんかんじない場合ばあいと、戒心かいしんする場合ばあいがあるが、当面とうめん相手あいてりこんでぼううなりは、武蔵むさしこころ用意よういする行動こうどう神経しんけいよりははるかに迅速じんそくで、それへ無謀むぼうゆうをむりにふるって、
(この土民どみんめが何者なにものぞ)
 と、あえほこれば、当然とうぜんぼう一撃いちげきにのめるであろうし、焦心あせりをつだけでも、呼吸こきゅうにうける圧迫あっぱくから、身体しんたいのみだれをどうしようもなくなってしまう。
 それにまた、もうひと武蔵むさし自重じちょうさせた理由りゆうは、相手あいて権之助ごんのすけなる人間にんげんが、一体何者いったいなにものか、咄嗟とっさに、見当けんとうがつかなくなったことである。
 かれぼうには、一定いってい法則ほうそくがあるし、かれあしといい、五体ごたいのどこといい、武蔵むさしからて、これは立派りっぱ金剛不壊こんごうふえていをなしている。かつて出会であった幾多いくた達人中たつじんちゅうにもかんがされないほど、このどろくさい田夫でんぷからだつめさきまでが、武術ぶじゅつの「みち」にかない、そして武蔵むさしもとめてやまない、そのみち精神力せいしんりょくひかっているのだった。
 ――こう説明せつめいしてくると武蔵むさしにも権之助ごんのすけにも、おたがいがてきって悠々構ゆうゆうかまえているようにおもわれるであろうが、事実じじつ寸秒すんびょう寸秒すんびょうで、わけても権之助ごんのすけぼうは、ばたきする停止ていししていない。
 ――おおうっ。
 と、満身まんしんからいきをしたり、
 ――えおおうッ!
 と、かかとってたり、また、りゅうりゅうとぼう攻撃こうげきあらためてかかりなおしてるたびに、
「この、どたぐそ」
 とか、
「かったいぼうめ」
 とか、口汚くちぎたな方言ほうげんあくつきながら、ちこんでるのであった。
 いや、ぼうかぎっては、むという言葉ことばあたらない。――それはみもするし、ぎもするし、きもするし、まわしもするし、片手かたてでも使つかうし、両手りょうてでも使つかう。
 また、太刀たち切先きっさきと、部分ぶぶんとが、はっきりわかれていて、その一方いっぽうしか活用かつようできないが、ぼう両端りょうたん切先きっさきともなり、穂先ほさきともなって、それを自由自在じゆうじざい使つかいわける権之助ごんのすけ練磨れんまは、飴屋あめやあめをのばすように、ながくもし、みじかくもするのではないかとあやしまれるほどだった。
ごんっ。をつけいよ、その相手あいては、凡者ただものでないぞ!」
 不意ふいに、そのとき母屋おもやまどから、かれ老母ろうぼがこうさけんだ。――武蔵むさしてきかんじていることを、老母ろうぼ息子むすこになって、おなじようにかんじているのであった。
「でえじょうぶだよっ、おっかあ!」
 ごんは、すぐよこ小窓こまどから、ははあんじながらていることをって、その勇猛ゆうもう拍車はくしゃをかけたが、いっさつのうなりを肩越かたごしにかわしてはいって武蔵むさしからだが、ごん小手こてをつかんだとおもうと、おおきないしでもろしたように、ずしんとひびきしてごん背中せなか大地だいちち、あしたかほしそらっていた。
まつたッしゃい! 牢人ろうにん
 わが一命いちめいいまあやうしとおもったか、小窓こまどすがっていた老母ろうぼは、そこの竹格子たけごうしやぶって、すさまじい一声いっせい武蔵むさしびせ、その血相けっそうは、武蔵むさしつぎ行動こうどうおもわずためらいをあたえた。