260・宮本武蔵「空の巻」「普賢(1)(2)」


朗読「260空の巻1.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 19秒

宮本武蔵みやもとむさし
そらまき
吉川英治よしかわえいじ

普賢ふげん

 木曾路きそじへはいると、随所ずいしょにまだゆきられる。
 とうげくぼみから、薙刀なぎなたなりにはしっているしろひらめきは、こまだけゆきのヒダであり、仄紅ほのあか木々きぎかして彼方かなたえるしろまだらのものは、御岳おんたけはだだった。
 だがもうはたけ往来おうらいには、あさみどりがこぼれている。季節きせついま、なんでもそださかりなのだ。んづけてもんづけても、わかくさびずにいない。
 まして城太郎じょうたろうぶくろとては、いよいよ、そだ権利けんり主張しゅちょうする。この頃殊ごろことに、かみびるように、寸法すんぽうまでがびそうにえて、将来しょうらい大人おとなぶりもおもいやられるふうがある。
 ものごころつくと、世間せけんなみほうされて、ひろわれたはまた、流転るてんひとであった。いきおい、たびからたび苦労くろうめ、どうしてもになるべく環境かんきょうむかえてくるので仕方しかたがないが、近頃ちかごろ時々ときどきあらわす生意気なまいき加減かげんには、おつうもよくかされて、
(なんだってこんなに、こうつかれてしまったのかしら)
 と、ためいきついて、にらんでやることもある。
 しかしのあろうわけはない。城太郎じょうたろういているのだ。そんなこわかおしたって、こころのなかでは、おいらが可愛かわいくてならないくせに――と。
 そういう横着おうちゃくと、いま季節きせつと、くことをらないぶくろが、先々さきざきものとさえれば、
「よう、よう、おつうさんてば。あれっておくれよ」
 と、かれあしを、往来おうらいくぎづけにしてしまう。
 さきほど、とおりこえた須原すはら宿しゅくには、木曾将軍きそしょうぐん四天王してんのう今井いまい兼平かねひらとりであとがあるところから「兼平かねひらせんべい」を軒並のきなっていたため、とうとうそこでは、おつう根負こんまけして、
「これだけですよ」
 ねんして、ってあたえたが、半里はんみちあるかないうちに、それもぼりぼりおわってしまい、ややともすると、なにか物欲ものほしそうなかおをする。
 寝覚ねざめでは、宿場茶屋しゅくばぢゃやはしをかりて、早目はやめひるめしをべたので、ことなくんだが、やがて一峠越ひととうげこえて、上松あげまつのあたりへかかると、
「おつうさん、おつうさん。がきがっているぜ。柿喰がきたべたくないかい?」
 そろそろなぞをかけはじめる。
 うしって、うしかおのように、おつうきこえないりをしているので、むなしく、がき見過みすごしてしまったが、ほどなく木曾第一きそだいいち殷賑いんしん信濃しなの福島ふくしま町中まちなかへさしかかると、おりから八刻やつごろだし、はらごろなので、
やすもうよ、そこらで――」
 と、またはじした。
「ね、ね」
 こうはなすと、駄々だだねばりがるばかりで、あるけばこそ、テコでもうごかおつきではない。
「よう、ようっ。黄粉餅きなこもちたべようよう。……いやかい?」
 こうなっては一体いったい、ねだっているのか、おつう脅迫きょうはくしているのか、わからない。彼女かのじょっているうし手綱たづなは、城太郎じょうたろうかれているため、かれあるさぬうちは、どう焦々いらいらおもっても、黄粉餅屋きなこもちや軒先のきさきを、とおえることができないからである。
「いい加減かげんにおしなさい」
 ついに、おつう意地いじになってしまう。城太郎じょうたろう共謀きょうぼうして、往来おうらい地面じめんめまわしている牝牛めうしから、てて、
「ようござんす。そんなにわたしこまらすなら、さきあるいていらっしゃる武蔵様むさしさまへ、いいつけてげるから――」
 そして彼女かのじょは、うしからりそうな真似まねをしたが、城太郎じょうたろうわらってている。める真似まねもしないのである。

 城太郎じょうたろうは、意地いじわるく、
「どうするの……?」
 彼女かのじょが、さき武蔵むさしへ、いいつけにかないことは、ひゃく承知しょうちかおつきでいう。
 うしからりてしまったので、おつうは、仕方しかたなしに、
「さ、はやくおべなさい」
 と、黄粉餅屋きなこもちやかげへはいってく。
 城太郎じょうたろう威勢いせいよく、
餅屋もちやのおばさん、二盆ふたぼんおくれ――」
 呶鳴どなっておいてから、軒先のきさき馬繋うまつなぎにうしをつなぐ。
「わたしはべませんよ」
「どうしてさ」
「そんなにべてばかりいると、人間にんげん莫迦ばかになりますから」
「じゃあ、おつうさんのと、二盆喰ふたぼんたべてしまうぜ」
「――まあ、あきれた
 なんといわれようが、べているうちは、みみのないような城太郎じょうたろう姿すがたである。
 がらにもないおおきな木剣ぼっけんが、かがみこむと肋骨あばらさわって、よろこぼうとする官能かんのう邪魔じゃまになるがするのであろう、中途ちゅうとから、その木剣ぼっけんをぐるりと背中せなかまわして、一度いちど、むしゃむしゃやりながら往来おうらいあそばせた。
「はやくべてしまいませんか。よそなどしていないで」
「……おや?」
 城太郎じょうたろうは、ぼんのこっているひとつを、あわててくちほうりこむと、なにをたか、往来おうらいして、小手こてをかざした。
「もういいんですか」
 鳥目ちょうもくをおいて、おつうあとからようとすると、城太郎じょうたろう彼女かのじょ床几しょうぎしもどして、
ちなよ」
「まだなにかねだるつもり?」
いま彼方むこうへ、又八またはちったからさ」
うそ
 おつうしんじない。
「――こんなところを、あのひととおるわけがないではありませんか」
「ないかあるからないけれども、たったいま彼方むこうったもの。編笠あみがさをかぶっていたぜ。そして、おつうさんはがつかなかったかい。おいらとおつうさんをじっとてたよ」
「……ほんとに」
うそならんでようか」
 ――んでもないことである。又八またはちといういただけでも、彼女かのじょはまた、もと病人びょうにんかえったように、かおがさっと退いているほどではないか。
「いいよ、いいよ、心配しんぱいしないでも、もしなにかしてたら、さきあるいている武蔵様むさしさまのとこへけてって、んでるから」
 その又八またはちおそれて、いつまでもここにいれば、自分じぶんたちより何町なんちょうさきあるいている武蔵むさしとも、自然しぜんかけはなれてしまうことになろう。
 おつうは、ふたたうしこしかけた。まだ、病後びょうごからだけっしてほんとではない。ふと、いまのようなことをいても、動悸どうきがなかなかしずまらない。
「ね? おつうさん。おいらには、ふしぎでならないよ」
 ふいに城太郎じょうたろうはこういって、彼女かのじょせたくちびるを、おもりなく、うしまえからあおいだ。
「――なにがふしぎかっていえばさ、馬籠峠まごめとうげたきつぼのうえまでは、お師匠ししょうさんもくちをきき、おつうさんもくちをきき、なかよく三人さんにんづれでたのに、あれからこっち、ちっともくちをきかないじゃないか」
 おつうこたえないので、かれはまた、
「どうしてなのさ、え? おつうさん。――みちはなれてあるくし、ばんもちがった部屋へやるし……喧嘩けんかでもしたのかい?」