258・宮本武蔵「風の巻」「女滝男滝(3)(4)」


朗読「258風の巻100.mp3」10 MB、長さ: 約 11分 12秒

 まきに、なが縞鳥しまどりが、まだすこゆきのある、伊那山脈いなさんみゃくそらをながめていた。
 やまつつじがえている。――からんとしてそらあおい。枯草かれくさしたには、深山みやますみれがにおっていた。
 さるく、栗鼠りすがちらとぶ、原始げんし地上ちじょうだった。そこの一叢ひとむら枯草かれくさふかれていた。悲鳴ひめいをあげたのではないが、悲鳴ひめいちかおどろきをあげて、おつうは、
「いけないッ、いけませんッ、武蔵様むさしさまッ」
 くりとげみたいに自衛じえいして、かたちぢめた。
「そ、そんなことっ……。貴方あなたともあろうおひとが」
 と、かなしげに、彼女かのじょが、嗚咽おえつしたので――武蔵むさしはハッとした。ほのおに、ぞッと総毛立そうけたつような理智りちつめたいこえびて、
「なななぜだっ? 何故なにゆえだっ?」
 うめきにかれこえこそいまにもしそうだった。だれらない秘密ひみつにせよ、これは男性だんせいにはかた侮辱ぶじょくかんじるのだ。のないそのいきどおりとはずかしさを、かれ自分じぶんおこるようにわめいたのだった。
 ――だが、はなした途端とたんに、おつうはもうそこにいなかった。ちいさいにおふくろひとつ、ひもれてちている。かれ茫然ぼうぜんと、それをきかけていた。あさましい自己じこのすがたをつめたく客観きゃっかんすることができた。ただわからないのはおつうこころなのだ。おつうひとみ、おつうくちびる、おつうのことば、おつう全姿ぜんし――あのかみまでが、えず自分じぶん情熱じょうねつさそいかけて、きょうにいたったのではないか。
 自分じぶんで、男性だんせいむねけておきながら、がつくと、びっくりしてげてしまうのとおなじである。故意こいではないにしても、結果けっかにおいては、あいするものあざむき、おとしいれ、くるしめ、はずかしめたことになるではないか。
「……ア、ア」
 武蔵むさしは、かおせて、くさした。
 きょうまでの切瑳琢磨せっさたくまも、一敗地いっぱいちにまみれて、すべての精進苦行しょうじんくぎょうも、ここにむなしくくずれてしまったかとおもうとかれかなしい。わらべなかうしなったようにかなしいのだ。
 自分じぶんつばきしたいような忌々いまいましさから、さも忌々いまいましげなしのきをらして大地だいちしていた。日輪にちりんたいしてかおないようにいつまでもそうしていた。
(おれはわるくない!)
 自分じぶん行為こういたいして、かれこころなかしきりにそう呶鳴どなってみるもののそれでこころんでなかった。
わからないっ、わからない)
 かれには、処女心おとめごころ清純せいじゅんというものを、このとき可憐いとしいとおもうような余裕よゆうはなかった。たとえ白珠しらたまのようにおののきやすく、かんじやすく、無碍むげなるひとおそれるものにしろ、それを女性じょせい一生いっしょうつうじて、ある期間きかんだけにある、最高さいこう心情しんじょうであるとか、とうといものであるとかで、そんないつくしみをって、いま、このときおもることはできなかった。
 しばらくのあいだ――そうしてしたまま、つちのにおいをいでいるうちに、かれはやや落着おちついた。むくりとがった。もう先刻せんこく充血じゅうけつしたではない。そのかおはむしろ蒼白あおじろかった。
 ――ちているおつうにおふくろを、あししたみにじって、じっと、やまこえくかのように俯向うつむいていたかとおもうと、
「そうだ」
 ぐに、たきのほうへむかってあるいてった。あのさがまつけんなかへ、げこんでときのように、眉毛まゆげをがっきりとせて。
 ……するど小鳥ことりこえが、つんざくようにってゆく。かぜのせいかたきとどろきがきゅうみみへついて、一朶いちだくもうちに、ひかりうすれてたかのようにおもえる。
 ――おつうは、武蔵むさしのいたその場所ばしょから、わずか二十歩にじゅっぽほどしかげていなかった。白樺しらかばみきにひたとをつけて、彼女かのじょ先刻さっきからじいっとこっちをていたのである。自分じぶん武蔵むさしをそんなにくるしめたことがあきらかにわかると、いまいちど、武蔵むさし自分じぶんそばてほしいとおもった。さもなければ、自分じぶんからはしってびようかともおもってまよ様子ようすであったが、しかし、おびえた小鳥ことり心臓しんぞうのように、まだつよ戦慄ふるいまないで、からだ他人ひとのもののようだった。

 いていないおつうには、いている以上いじょうの、恐怖きょうふだの、まよいだの、かなしみだのが、くもっていた。
 このひとこそと、信頼しんらいしていた武蔵むさしは、彼女かのじょが、自分じぶんむねなかで、自分勝手じぶんかってえがいていた、幻想げんそう男性だんせいではなかった。
 幻想げんそう心臓しんぞうなかに、忽然こつねん赤裸せきら男性だんせい見出みいだした彼女かのじょは、ぬかとおもうほどなおどろきにたれた。かなしくてかなしくてならなかった。
 けれど、その恐怖きょうふ慟哭どうこくなかに、彼女かのじょはまだ、ふしぎな矛盾むじゅんのこっていることをづかない。
 もし先刻さっきはげしい圧迫あっぱくが、武蔵むさしでなくて、ほか男性だんせいであったとしたら、彼女かのじょはしったあしは、けっして、二十歩にじゅっぽ三十歩さんじゅっぽではなかったろう。
 なぜ、二十歩にじゅっぽほどであしめて、あとこころかれているのか。――それのみでなく、やや動悸どうき落着おちついてくるにしたがって、彼女かのじょこころなかにはみにく人間にんげん本能ほんのうすがたを、ほか男性だんせいのそれと、武蔵むさしのそれとは、べつなものとして、かんがえようとさえしていた。
(……おこったんですか。……おこらないでくださいね。あなたがいやだったわけではありません。……おこらないで)
 暴風ぼうふうばされたようなひとりぼっちをかんじながら、彼女かのじょむねなか言葉ことばは、ひたすらびているのだった。――武蔵自身むさしじしんが、自責じせきしたり苦悶くもんしたりしているほどに、おつうは、かれのなしたはげしい行動こうどうを、みにくおもってはいなかった。ほか男性だんせいのようにあさましくはおもえないのである。
 むしろ、ふと、
(なぜ、わたしは? ……)
 自分じぶん盲目的もうもくてき恐怖きょうふが、さみしくすらかんがえられ、その刹那せつな火花ひばなのようなくるいが、あとになるほどなにかしたわしくさえおもされた。
(……おや? どこへ? ……。武蔵様むさしさまは)
 いつのまにか、そこにえない武蔵むさしかげに、おつうはすぐ、自分じぶんてられたのではないかとおもった。
(きっと、おこって。……そうだ、おこって。……あ、どうしよう?)
 恟々おどおどと、彼女かのじょあるいて、もと滝見小屋たきみごやところまでもどってた。そこにも、武蔵むさし姿すがたは、見当みあたらなかった。ただしろなしぶきが、滝壺たきつぼからきりとなって山風やまかぜきあげられ、満山まんざん樹々きぎすぶって、のないたきのとどろきが、ぐわうと、みみふさぐばかりややかにおもてってるだけであった。
 すると、どこかたかところから、
「あっ、たいへんだ。お師匠様ししょうさまたきげたぞっ。――おつうさアん!」
 城太郎じょうたろうこえだった。
 渓流けいりゅうわたって、むこがわやまはな城太郎じょうたろうっていた。そこから男滝おたきたきつぼをのぞいていたものらしく、突然とつぜん、こうときならぬ大声おおごえはっして、おつう急変きゅうへんげたのだった。
 たきひびきで、よくれないらしかったが、城太郎じょうたろうほうからていると、おつうなにたか、ハッときゅう血相けっそうえ、ふか滝道たきみちの――きり山苔やまごけすべりそうな断崖だんがいを――いわにしがみつきながらしたりてゆく様子ようすである。
 城太郎じょうたろうましらみたいに、むこやま崖先がけさきから、スルスルと藤蔓ふじづるにつかまって、ぶらがっていた。