朗読「258風の巻100.mp3」10 MB、長さ: 約 11分 12秒
三
槙の樹に、尾の長い縞鳥が、まだ少し雪のある、伊那山脈の空をながめていた。
山つつじが真っ紅に燃えている。――からんとして空は青い。枯草の下には、深山すみれが匂っていた。
猿が啼く、栗鼠がちらと跳ぶ、原始の地上だった。そこの一叢の枯草は深く折れていた。悲鳴をあげたのではないが、悲鳴に近い驚きをあげて、お通は、
「いけないッ、いけませんッ、武蔵様ッ」
栗の辣みたいに自衛して、堅く身を縮めた。
「そ、そんなことっ……。貴方ともあろうお人が」
と、悲しげに、彼女が、嗚咽したので――武蔵はハッとした。焔の身に、ぞッと総毛立つような理智の冷たい声を浴びて、
「なななぜだっ? 何故だっ?」
呻きに似た彼の声こそ今にも泣き出しそうだった。誰も知らない秘密にせよ、これは男性には耐え難い侮辱と感じるのだ。遣り場のないその憤りと恥かしさを、彼は自分へ怒るように喚いたのだった。
――だが、手を放した途端に、お通はもうそこにいなかった。小さい匂い袋が一つ、紐が切れて落ちている。彼の眼は茫然と、それを見て泣きかけていた。浅ましい自己のすがたを冷たく客観することができた。ただ分らないのはお通の心なのだ。お通の眸、お通の唇、お通のことば、お通の全姿――あの髪の毛までが、絶えず自分の情熱を誘いかけて、きょうに至ったのではないか。
自分で、男性の胸に火を放けておきながら、火がつくと、びっくりして逃げてしまうのと同じである。故意ではないにしても、結果においては、愛する者を欺き、陥れ、苦しめ、恥かしめたことになるではないか。
「……ア、ア」
武蔵は、顔を俯つ伏せて、草へ泣き伏した。
きょうまでの切瑳琢磨も、一敗地にまみれて、すべての精進苦行も、ここに空しく崩れてしまったかと思うと彼は悲しい。童が掌の中の木の実を失ったように悲しいのだ。
自分に唾したいような忌々しさから、さも忌々しげな忍び泣きを洩らして大地へ伏していた。日輪へ対して顔を上げ得ないようにいつまでもそうしていた。
(おれは悪くない!)
自分の行為に対して、彼が心の中で頻りにそう呶鳴ってみるもののそれで心は澄んで来なかった。
(分らないっ、分らない)
彼には、処女心の清純というものを、この時、可憐いと思うような余裕はなかった。たとえ白珠のように顫きやすく、感じやすく、無碍なる人の手を恐れるものにしろ、それを女性の一生を通じて、ある期間だけにある、最高な心情の美であるとか、尊いものであるとかで、そんな愛しみを持って、今、この時、思い遣ることはできなかった。
しばらくの間――そうして俯ッ伏したまま、土のにおいを嗅いでいるうちに、彼はやや落着いた。むくりと起ち上がった。もう先刻の充血した眼ではない。その顔はむしろ蒼白かった。
――落ちているお通の匂い袋を、足の下に踏みにじって、じっと、山の声を聞くかのように俯向いていたかと思うと、
「そうだ」
真っ直ぐに、滝のほうへ向って歩いて行った。あの下り松の剣の中へ、身を投げこんで行く時のように、濃い眉毛をがっきりと寄せて。
……鋭い小鳥の声が、劈くように翔け去ってゆく。風のせいか滝の轟きが急に耳へついて、一朶の雲の裡に、陽の光も淡れて来たかのように思える。
――お通は、武蔵のいたその場所から、わずか二十歩ほどしか逃げていなかった。白樺の幹にひたと身をつけて、彼女は先刻からじいっとこっちを見ていたのである。自分が武蔵をそんなに苦しめたことが明らかに分ると、いまいちど、武蔵が自分の側に来てほしいと思った。さもなければ、自分から走り寄って詫びようかとも思って迷う様子であったが、しかし、脅えた小鳥の心臓のように、まだ強い戦慄が止まないで、体は他人のもののようだった。
四
泣いていないお通の眼には、泣いている以上の、恐怖だの、迷いだの、悲しみだのが、掻き曇っていた。
この人こそと、信頼していた武蔵は、彼女が、自分の胸の中で、自分勝手に描いていた、幻想の男性ではなかった。
幻想の心臓の中に、忽然、赤裸の男性を見出した彼女は、死ぬかと思うほどな愕きに打たれた。悲しくて悲しくてならなかった。
けれど、その恐怖と慟哭の中に、彼女はまだ、ふしぎな矛盾が残っていることを気づかない。
もし先刻の烈しい圧迫が、武蔵でなくて、他の男性であったとしたら、彼女の逃げ走った足は、決して、二十歩や三十歩ではなかったろう。
なぜ、二十歩ほどで足を止めて、後に心を惹かれているのか。――それのみでなく、やや動悸が落着いてくるに従って、彼女の心の中には醜い人間の本能の相を、他の男性のそれと、武蔵のそれとは、べつな物として、考えようとさえしていた。
(……怒ったんですか。……怒らないでくださいね。あなたが嫌だったわけではありません。……怒らないで)
暴風に吹き飛ばされたような独りぼっちを感じながら、彼女の胸の中の言葉は、ひたすら詫びているのだった。――武蔵自身が、自責したり苦悶したりしているほどに、お通は、彼のなした烈しい行動を、醜く思ってはいなかった。他の男性のように浅ましくは思えないのである。
むしろ、ふと、
(なぜ、わたしは? ……)
自分の盲目的な恐怖が、淋しくすら考えられ、その刹那の火花のような血の狂いが、後になるほどなにか慕わしくさえ思い出された。
(……おや? どこへ? ……。武蔵様は)
いつのまにか、そこに見えない武蔵の影に、お通はすぐ、自分が捨てられたのではないかと思った。
(きっと、怒って。……そうだ、怒って。……あ、どうしよう?)
恟々と、彼女は歩いて、元の滝見小屋の所まで戻って来た。そこにも、武蔵の姿は、見当らなかった。ただ真っ白なしぶきが、滝壺から霧となって山風に吹きあげられ、満山の樹々を揺すぶって、絶え間のない滝のとどろきが、ぐわうと、耳を塞ぐばかり冷ややかに面を打って来るだけであった。
すると、どこか高い所から、
「あっ、たいへんだ。お師匠様が滝へ身を投げたぞっ。――お通さアん!」
城太郎の声だった。
渓流を渡って、向う側の山の鼻に城太郎は立っていた。そこから男滝の滝つぼをのぞいていたものらしく、突然、こう時ならぬ大声を発して、お通へ急変を告げたのだった。
滝の響きで、よく聞き取れないらしかったが、城太郎の方から見ていると、お通も何を見たか、ハッと急に血相を変え、深い滝道の――霧と山苔で滑りそうな断崖を――岩にしがみつきながら下へ降りてゆく様子である。
城太郎は猿みたいに、向う山の崖先から、スルスルと藤蔓につかまって、ぶら下がっていた。