257・宮本武蔵「風の巻」「女滝男滝(1)(2)」


朗読「257風の巻99.mp3」11 MB、長さ: 約 12分 07秒

女滝めたき男滝おたき

 初夏しょかむかってゆくたびだ。木曾路きそじ新緑しんりょくびて、中山道なかせんどううしあしにまかせてく。
っているぞ、あとからいついてるがいい)
 やなぎえだむすぶみのこしてった武蔵むさししたって、又八またはちみちいそいだが、草津くさつまでってもわない、彦根ひこね鳥居本とりいもとまでても見当みあたらない。
「ハテ、さき来過きすぎてしまったのかな?」
 摺鉢峠すりばちとうげでは、とうげうえで、半日往来はんにちおうらいながめていたが、その無駄むだ
 うしった武士ぶしいても、牛馬ぎゅうばって旅人たびびとおおい。それに又八またはちは、武蔵一人むさしひとりおもっていたが、武蔵むさしには、おつう城太郎じょうたろう道連みちづれがあった。
 美濃路みのじてもれないので、かれは、小次郎こじろうげんおもして、
「やっぱりおれは、お人好ひとよしかな?」
 まよすとりがない。
 彼自身かれじしんまどいが、みちもどったり、まがってみたりするために、当然会とうぜんあえるはずのものに、よけいにえないことになってしまう。
 だがついに、中津川なかつがわ宿場端しゅくばはずれで、かれは、さき武蔵むさし姿すがたつけた。
 幾日目いくにちめだろう。それはじつ又八またはちとしてはめずらしいほどな熱意ねついいついて目標もくひょうだった。しかしかれは、武蔵むさしうし姿すがたるとともに顔色かおいろえて武蔵むさしうたがった。
 うしってくのは、武蔵むさしではなくて、七宝寺しっぽうじのおつうではないか。――そのおつうせてうし手綱たづなってくのが武蔵むさしではないか。
 そばにくッついてゆく城太郎じょうたろうごときは、又八またはち眼中がんちゅうにはない、問題もんだいでもない。又八またはちをして猜疑さいぎおののかしめたものは、おつう武蔵むさしとの、むつまじそうな姿すがただった。
 今日きょうまでのどんな場合ばあい憎悪ぞうお嫉視しっしよりも、このせつなほど又八またはちは、とも姿すがた悪魔あくまたことはない。
「……アアやっぱり、おもえばおれは、お人好ひとよしだったにちげえねえ。あいつにそそのかされてせきはらかけたときから今日きょういたるまで。――だがおれも、こうみつけられちゃあ、何日いつまでお人好ひとよしじゃいねえぞ。野郎やろういまにどうするか、おぼえていろよ」

あつあつい。こんなにあせをしぼる山道やまみちってはじめてだ。ここはどこ? お師匠様ししょうさま
木曾きそ一番いちばん難所なんしょ馬籠峠まごめとうげへかかりしたのだ」
「きのうもふたとうげしたっけねえ」
御坂みさか十曲とまがりと」
「おらあ、とうげ飽々あきあきしちゃった。はやく江戸えどにぎやかなところたいなあ。ねえおつうさん」
 おつうは、うしから、
「いいえ城太じょうたさん、わたしは何日いつまでも、こんなひとのいないところあるくのがき」
「ちぇっ、自分じぶんは、あるかないもんだからね。――お師匠様ししょうさま、あそこにたきえるよ、たきが」
「オオ、すこやすもうか。城太郎じょうたろう、そこらへうしつないでけ」
 たきおとこころあてに、細道ほそみちってゆくと、たきつぼのがけうえには、ひともいない滝見小屋たきみごやがあり、あたりには、きりれたくさはな一面いちめんきみだれていた。
「……武蔵様むさしさま
 おつうは、立札たてふだ文字もじて、その武蔵むさしうつしてほほんだ。女男めおとたきとそれはまれた。
 大小二だいしょうふたすじのたきが、ひと渓流けいりゅうちている。やさしいほうが女滝めたきとすぐわかる。あるけばやすもうやすもうというくせに、城太郎じょうたろうすこしも落着おちついてはいない。たきつぼの狂瀾きょうらんや、岩間いわまにぶつかってゆく奔流ほんりゅうすがたると、そのみず自分じぶんわからなくなったように、おどねて、がけしたりてった。
「おつうさあん、さかながいるよ」
 こたえないでいると、
いしれるよ。いしをぶつけると、はらしてくぜ」
 やがてまた、しばらくつと、
「わアあい」
 と、んでもない方角ほうがくこだまきこえ、なかなかもどってそうもない。

 やまはしからした。きりれているくさはなうえに、無数むすうちいさいにじえがされた。
 滝見小屋たきみごやかげいながら二人ふたりたきおとにつつまれていた。
「どこまでってしまったんでしょう」
城太郎じょうたろうか」
「ええ。ほんとに、しようのない
「そうでもないぞ、おれの子供時分こどもじぶんにくらべると、まだまだ」
「あなたは、べつものでしたもの」
反対はんたい又八またはちはおとなしかったなあ。……又八またはちといえば、とうとう彼奴あいつなかったが、あいつこそ、どうしたのか」
「でも、わたしは、ほっとしました。もし又八またはちさんがたら、かくれてしまおうとおもっていました」
かくれる必要ひつようはない。はなしてわからない人間にんげんはないはずだ」
本位田ほんいでん母子おやこは、すこしご気性きしょうがちがいます」
「おつうさん……。おまえ、もいちどかんがえなおさないか」
「どういうふうに」
おもなおして、本位田ほんいでんひとになるはないかとくのさ」
 おつうはびくっといろかおにうごかして、きっぱりいった。
「ありません!」
 そして、らんはなのようにあからんだまぶたから、みるまになみだがこぼれそうになった。
 武蔵むさしは、よしないことをいったとこころのうちでいた。いまさら、わかりきったことなのだ。ときってめたりまよったりする女性じょせい同視どうしされたようにおもって、おつう心外しんがいなのであろう。ゆびかおをおおって、かすかにかたふるわせた。
(……貴方あなたのものです!)
 しろえりあしは、武蔵むさしに、そううったえているようだった。あたりの若楓わかかえでは、あさいみどりでここの場所ばしょ人目ひとめからかくしている。
 地軸ちじくふるわせているたきおとは、そのまま自分じぶんおとのように武蔵むさしおもわれた。たきつぼの狂瀾きょうらん奔流ほんりゅうて、にわかしてった城太郎じょうたろう本能ほんのうたようなものが武蔵むさしからだにも、もっとはげしい性能せいのうびてひそんでいる。
 それにここ幾日いくにちあいだ宿屋やどや燈火ともしびしたに、らんらんたる太陽たいようもとに、おつう肉体にくたい種々さまざまひかりかれていた。ときは、芙蓉ふようはなのようにあせばんだ皮膚ひふを、よる屏風びょうぶをへだてていてもただよってくる黒髪くろかみのにおいを。――年久としひさしく、磐石ばんじゃくもとひしがれていた愛慾あいよくはそうして、にわかかれむねそだてられていた。くさいきれのように鬱陶うっとうしいものが、むらむらと、ひとみくもらしてるのであった。
「…………」
 ふいと、武蔵むさしはそこをはなれた。いや、げるようにであった。
 おつうはなして、彼方あなたみちもないくさむらへはいってった。なにか、突然とつぜんくるしくなったのである。くちからほのおでもくように、ちきれそうなを、からだからすこててでもしまいたいような心地ここちだった。城太郎じょうたろうのように、あばしたかった。そして、まだ冬草ふゆぐされたのが、背高せたかしげっているしずかなだまりを見出みいだすと、
「ああ」
 と、そこへげてすわった。
 おつうは、どうしたのかとうたがって、すぐいかけてるなり、かれひざすがりついた。かたくなって、沈黙ちんもくしていた武蔵むさしかおこわえた。なにかおそろしく不機嫌ふきげんえておろおろした。
「どうしたんですか。武蔵様むさしさま……武蔵様むさしさまっ……。なにか、おさわったのなら、堪忍かんにんしてください、堪忍かんにんして」
「…………」
武蔵様むさしさまっ、もしッ……」
 かれかたくなっていればいるほど――また、こわかおをしていればいるほど、おつうはそのむねへ、必死ひっしにしがみついて、さわはなのように、はなづかないにおいかれかえらせた。
「――おいっ!」
 武蔵むさしはいきなりそういった。猛然もうぜんと、かれおおきなうではおつうきしめて枯草かれくさなかたおれた。おつうしろ喉首のどくびばして、こえもあげずに、かれむねなかでもがいた。