256・宮本武蔵「風の巻」「送春譜(3)(4)(5)」


朗読「256風の巻98.mp3」17 MB、長さ: 約 18分 45秒

 二十三間にじゅうさんげん小橋こばしと、九十六間きゅうじゅうろっけん大橋おおはしをつないでいる中之島なかのしまには、ふるやなぎがあった。
 瀬田せた唐橋からはしを、青柳橋あおやぎばしともぶのは、そのやなぎがよく旅人たびびと目印めじるしにされるからであろう。
「あっ、たよ」
 と、その中之島なかのしま茶店ちゃみせからして、小橋こばし欄干らんかんにつかまりながら城太郎じょうたろうは、一方いっぽうにはゆびをさし、一方いっぽうでは茶店ちゃみせ床几しょうぎをさしまねいて、
「お師匠様ししょうさまだっ。……おつうさんおつうさん、お師匠様ししょうさまうしってたよ」
 往来おうらい旅人たびびとも、この少年しょうねんが、なにをそんなに狂喜きょうきするのかと、をそばだてて不審いぶかるほど、かれあし雀躍こおどりしていた。
「おお、ほんに!」
 ころぶようにけてて、おつうもそこにかおならべる――
 二人ふたりして、
「お師匠ししょうさまあっ」
武蔵むさしさま」
 かさ
 にこりとした武蔵むさしかおもはや間近まぢかであった。
 うしはやがて、やなぎつながれる。――かわへだててとお姿すがたには、狂喜きょうきったりさけんだりしていたのに、そのひとそばつと、おつうはもうなにもいいないのである。にことわらったほかは、すべて城太郎じょうたろう一人ひとりきうけて喋舌しゃべっていた。
「お師匠ししょうさま、もうきずなおったの。おいら、お師匠様ししょうさまうしってたから、あのとききずがまだいたんであるけないのでってたのかとおもったよ。……え? どうしてこんなにはやていたかって。……そりゃあ、おつうさんにいたほうがはやいや。おつうさんとたらお師匠様ししょうさま、ほんとに勝手かってなんだからね。お師匠ししょうさまから手紙てがみたら、このとお一遍いっぺん元気げんきになってしまうんだもの」
「ふム、そうか、ふム……」
 と武蔵むさし一々いちいちにこやかにうなずいていたが、ほかにきゃくもある茶店先ちゃみせさき、おつうのことをいわれると、見合みあいにむこ殿どののようにはなはる。
 うらに、藤棚ふじだなおおわれた小座敷こざしきがある。そこへ三名さんめいくつろいだ。といっても相変あいかわらず、おつうはもじもじしてばかりいるし、武蔵むさし無口むくちかたくなってしまう。ありのままによろこび、よろこびのままに喋舌しゃべり、この景地けいち生命いのちたのしんでいるものはひと城太郎じょうたろうと、そして、ふじはなさわいでいるあぶはちばかりだった。
「オヤいけない、石山寺いしやまでらうえがあんなにくらくなりました。一雨来ひとあめきますよ。もっとおくへおはいりなすってください」
 茶店ちゃみせ亭主ていしゅが、あわてて葭簀よしずき、雨戸あまどよこかこはじめる。なるほど、こうみずはいつのまにか鉛色なまりいろえ、そよかぜ雨気うきささやきはじめて、ふじはなむらさきは、まさになんとする楊貴妃ようきひたもとのように、にわかむせぶようなにおいをらしておののいている。
 ――サアッと、その弱々よわよわしいはなからさきがけられたように石山颪いしやまおろし小雨こさめをぶっつけてくる。
「アッ、かみなりさまだぞ。ことしの初雷はつかみなりだ。おつうさん、れちまうよ。お師匠ししょうさまもおくへおはいりなさいよっ、座敷ざしきのほうへさ。アアいい気持きもちだ。このあめは、ちょうどいいや! ちょうどいいや」
 なにが丁度ちょうどいいのやら、ふか意味いみでいうわけでは勿論もちろんないが、そうかれにいいはやされては、武蔵むさしもよけいにはいりがたい。おつうかおあからめて、あめくだけるふじはなともに、えんはしってれていた。

「オオ、ひでえ!」
 こもをかぶって、しろあめなかを、かさみたいにんでおとこがある。
 四宮明神しのみやみょうじん楼門ろうもんしたむなり、ほっと、かみのしずくをでて、
「まるで、夕立ゆうだちだ」
 と、はやくもあしへつぶやいた。
 るまに四明しめいたけ湖水こすい伊吹いぶき乳色ちちいろになって、ただ滌々じょうじょうあめおとしかみみになかった。――とおもううちにひとみたれたように雷光いなびかりかんじると、どこかちかくにかみなりちたらしかった。
「……あっ」
 かみなりぎらいの又八またはちは、みみあなをふさいで、楼門ろうもん雷神らいじんしたちぢこまっていた。
 くもれると、うそのように、してきた。あめがやみ、往来おうらいもとかえって、どこかで三味線しゃみせんおとさえきこえだした。すると、婀娜あだなすがたのおんなが、むこがわから往来おうらいえてて、ようありげに、又八またはちわらいかけた。

 かけないおんなである。
「あなた、又八様またはちさまっしゃるのでしょう」
 そういうのだ。
 又八またはち不審いぶかって用事ようじうと、いまいえがっていらっしゃるお客様きゃくさまが、あなたのお友達ともだちだそうで、二階にかいからお姿すがたかけ、ぜひっていというお吩咐いいつけです、という。
 いわれてると、なるほど、この神社じんじゃ界隈かいわいには、娼家しょうからしいかまえが幾軒いくけんえる。
「……御用ごようがおありならば、ぐおかえりになってもよござんすから」
 と、使つかいにおんなは、又八またはちのためらいなどは無視むししてみちびいてく。そしてちかくの娼家しょうかってると、ほかおんなたちもて、あしあらってくれるやら、れた着物きものがすやらしたへもかない。
 いったい、おれの友達ともだちというおきゃくだれかといてみても、二階にかいってみればわかると、座興ざきょうにするつもりでかさない。
 何分なにぶんあめって、着物きものもずぶれだから、一時いちじ娼家ここものするが、じつ今日瀬田きょうせた唐橋からはし約束やくそくものっているはず。――でかえるのだから、そのあいだ衣類いるいかわかし、めないでもらいたい。
たのむぞ、いいか」
 何度なんどねんすと、
「はい、はい。よいしおに、きっとおかえもうしますよ」
 おんなたちは、安請合やすうけあいにいって、又八またはち梯子段はしごだんしたからげる。
二階にかいきゃくとは一体誰いったいだれだろうか)
 又八またはちしきりとかんがえてみたがおもあたものがない。けれどこういうところに場馴ばなれない又八またはちではないし、またこういう雰囲気ふんいきなかはいると、かれあたまのつかいかたごなしは、ふしぎにえて精彩せいさい発揮はっきしてくる。
「やあ、犬神先生いぬがみせんせい
 いきなり先方せんぽうものからいった。人違ひとちがいだったかと又八またはちしきいぎわであしめたが、座敷ざしきなかすわっているそのきゃくると、まんざららない人間にんげんではなかった。
「や? ……おぬしは」
「おわすれか、佐々木小次郎ささきこじろうを」
犬神先生いぬがみせんせいといわれたのは?」
貴公きこうのことさ」
「おれは本位田ほんいでん又八またはちだが」
「そんなことは心得こころえているが、かつて六条松原ろくじょうまつばらやみで、群犬むれいぬかれ、野良犬のらいぬどものなかすわって、百面相ひゃくめんそうをしてござったのをおもしたから、おいぬ神様かみさま尊称申そんしょうもうげ、犬神先生いぬがみせんせいんだのでござる」
「よしてくれ、冗談じょうだんじゃあねえ。あのときは、ひどいわせやがったぜ」
「そのかわりに、きょうはよいわせてやろうとおもい、むかえにやったわけだが、よくてくれた。まあ、すわるがいい。――おい女輩おんなども、このひとさかずきせ、さかずきを」
瀬田せたで、っているものがあるから、すぐおいとまする。……おっと、おい、そうしゃくしてもだめだぜ、きょうはめない」
瀬田せたで、だれっているのか」
宮本みやもとという、おれの幼少ようしょうからの友達ともだちで――」
 と、いいかけるのをくって、小次郎こじろう早口はやくちに、
「なに、武蔵むさしが。……ウウムそうか。とうげ茶屋ちゃや約束やくそくしたのか」
「よくっているな」
貴公きこうち、武蔵むさし経歴けいれき、みな詳細しょうさいいている。其許そこもと母親ははおや――おすぎどのといわれたな――。叡山えいざん中堂ちゅうどうでおにかかったぞ。そしてつぶさにあの老母ろうぼから、今日きょうまでの苦心くしんかされた」
「え。おふくろとったって? ……じつあ、きのうからおれさがあるいているのだが」
「えらい老母としよりだ、見上みあげたもの。中堂ちゅうどうそうみな同情どうじょうしていた。わしも屹度きっと助太刀すけだちしようと、ちからづけてわかれた」
 さかずきあらって、
「さ、又八またはち旧怨きゅうおんすすいでわそう。武蔵むさしぐらいな相手あいておそれるな。広言こうげんではないが、佐々木小次郎ささきこじろうがついている」
 ほおくれないにしてさかずきした。
 だが又八またはちは、さない。

 見栄みえりな小次郎こじろうも、うとひとりでに、つね容態ようだい端麗たんれいかまえからわすれてしまう。
又八またはち、なぜまぬ」
「もうおいとまだ」
 ひだりはしると、ぐっと又八またはちうでくびをつかみ、
「いかん!」
「でも、武蔵むさしと」
「ばかをいえ。貴様一人きさまひとりで、武蔵むさし名乗なのったら、ちどころにかえちだぞ」
「そんないさかいはもうおたがいにてたんだ。おれは、あの親友しんゆうすがって、これから江戸えどって真面目まじめてるつもりだ」
「なに、武蔵むさしすがってだと? ――」
世間せけん武蔵むさしわるくいうが、それはおれのおふくろがわるくいいらすからだ。おふくろは武蔵むさしおもちがいしている。つくづく今度こんどはそれがわかった。同時どうじ俺自身おれじしんさとった。おれはあの善友ぜんゆうまなんで、おくせだがこれからこころざしてる所存しょぞんだ」
「アハッハハハ。わははは」
 小次郎こじろうってわらい、
「お人好ひとよし! おいっ、おふくろ殿どのもいっていたが、なるほど、貴様きさまにもまれなお人好ひとよしだ。武蔵むさしことごとだまされたな」
「いや、武蔵むさしは」
「まあ、だまれ、いうな。第一だいいちおふくろを裏切うらぎってかたき加担かたんする不孝者ふこうものがどこにあろう。他人たにん佐々木小次郎ささきこじろうでさえ、あの老母としより言葉ことばには義憤ぎふんかんじ、将来助太刀しょうらいすけだちをしようとまでちかっているのに」
「なんといわれても、おれは瀬田せたく。はなしてくれ。――おいおんなッ、着物きものかわいたろう、おれの着物きものしてくれ」
すなっ」
 小次郎こじろうは、ったげて、
すときかないぞ。――これ又八またはち貴様武蔵きさまむさしとそうなるならば、一応いちおう、おふくろにって、よく得心とくしんさせてゆけ。おそらくあの老母としよりは、そんな屈辱くつじょくに、合点がてんはすまい」
「そのおふくろをさがしても見当みあたらないので、一先ひとまおれ武蔵むさし一緒いっしょに、江戸表えどおもてくだろうとおもう。おれがひとかどの人間にんげんになりさえすれば、すべての宿怨しゅくえんはひとりでにけてしまう」
「その口吻こうふんは、武蔵むさしのいった口吻こうふんちがいない。あしたになったら、わしもともさがしてつかわすから、とにかく、おふくろの意見いけんいたうえでゆくがよい。そうして今夜こんやもう、いやでもあろうが、小次郎こじろう交際つきあえ」
 もちろん、ここは娼家しょうか女達おんなたちみな、そういう小次郎こじろう加勢かせいして、又八またはち着物きものなどかえしてくれるはずもない。
 れる、ついに、ける。
 では小次郎こじろうあたまがらないが、えば俄然又八がぜんまたはちは、になりるのだ。ていやがれというかれよいからはじめた。さけいきおいをって、小次郎こじろう手古摺てこずらし、さんざん鬱憤うっぷんをはらしてつぶれてしまった。
 たのが夜明よあけ、をさましたのはすでひるぎ。
 小次郎こじろうはまだべつの部屋へや熟睡じゅくすいしているという。昨日きのう初雷はつらいできょうのざしは一倍澄いちばいすんでいる。又八またはちは、まだみみあたらしい武蔵むさし言葉ことばおもかべ、ゆうべのさけしたくなった。
 階下したりて、着物きものさせ、それをまとうとげるように戸外そとした。そして瀬田せたはしまでた。
 あかにごった瀬田川せたがわみずに、石山寺いしやまでらのこんのはなもこれりのようにながされ、藤茶屋ふじぢゃやふじのふさもくだけ、山吹やまぶきっていた。
うしつないで――といったが」
 そのうしは、小橋こばしたもとにも、中之島なかのしまにもえなかった。
 諸所しょじょさがしたあげく、中之島なかのしま茶店ちゃみせくと、そのうしったおさむらいさまならば、きのうみせまるころまでここにってござったが、よるはいったので旅籠はたごうつり、今朝けさまたここへて、しばらく人待ひとまかおたたずんでおられたが、やがて手紙てがみしたためて、あとからわしをたずねてものがあったらわたしてくれいと軒先のきさき青柳あおやぎえだに、いたものむすびつけてさきにおちになりました、という。
 ると、なるほど、しろまっているように、やなぎえだむすぶみ
まなかった。――では一足先ひとあしさきってったか」
 又八またはちは、つばさいた。