29・宮本武蔵「地の巻」「樹石問答(3)(4)」


朗読「地の巻29.mp3」6 MB、長さ: 約10分32秒

 いしもいわず、かたらず、やみじゃくとしたままのやみであった。そしてややしばらくの沈黙ちんもくがつづいていた。
 ――と。やがてやおら沢庵たくあんいしうえからこしをあげて、
武蔵たけぞう、もう一晩ひとばんかんがえてみなさい。そのうえで、くびねてやろう」
 と、りかけた。
 十歩じゅっぽ――いや二十歩にじゅっぽほど、かれけて、本堂ほんどうのほうへもうあゆしていたときである。
「あ。しばらく!」
 武蔵たけぞうそらからいった。
「――なんじゃ?」
 とおくから沢庵たくあん振向ふりむいてこたえる。
「もいちど、したへもどってくれ」
「ふム。……こうか」
 すると樹上じゅじょうかげ突然とつぜん
沢庵坊たくあんぼう――たすけてくれッ」
 と、大声おおごえわめいた。
 にわかにいてでもいるように、そらこずえはふるえていう。
「――おれは、いまからうまなおしたい。……人間にんげんうまれたのはおおきな使命しめいをもってたのだということがわかった。……そ、その生甲斐いきがいがわかったとおもったら、途端とたんに、おれは、このうえにしばられている生命いのちじゃないか。……アア! がえしのつかないことをした」
「よくがついた。それでおぬしの生命せいめいは、はじめて人間にんげんなみになったといえる」
「――ああにたくない。もういっぺんきてみたい。きて、出直でなおしてみたいんだ。……沢庵坊たくあんぼう後生ごしょうだ、たすけてくれ」
「いかん!」
 断乎だんことして、沢庵たくあんくびった。
何事なにごとも、やりなおしの出来できないのが人生じんせいだ。なかのこと、すべて、真剣勝負しんけんしょうぶだ。相手あいてられてから、くびをつぎなおしてがろうというのとおなじだ。不愍ふびんだが沢庵たくあんはそのなわいてやれん。せめて、がおのみぐるしくないように、念仏ねんぶつでもとなえて、しずかに、生死せいしさかいみしめておくがよい」
 ――それなり草履ぞうりおとはピタピタと彼方かなたえてしまった。武蔵たけぞうも、それきりわめかなかった。かれにいわれたとおり、大悟たいごまなこをふさいで、もうきるて、もすて、颯々さっさつくかぜと小糠星こぬかぼしなかに、ほねしんまで、つめたくなってしまったもののようであった。
 ……すると、だれか?
 したって、こずえあおいでいる人影ひとかげがあった。やがて千年杉せんねんすぎきついて、一生懸命いっしょうけんめいに、ひくえだあたりまでよじのぼろうとするのであったが、のぼりにみょうないひととみえ、すこのぼりかけると、かわ一緒いっしょずべちてしまう。
 それでも――かわよりかわがすりけてしまいそうになっても――まずくっせず、一心不乱いっしんふらん繰返くりかえしてかじりついているうちに、やっと、下枝したえだかかり、つぎえだをのばし、それからさきは、なんなく、たかところまでのぼってしまった。
 そして、いきりながら――
「……武蔵たけぞうさん……武蔵たけぞうさん……」
 武蔵たけぞうは、だけまだきている髑髏どくろのようなかおけて、
「……オ?」
「わたしです」
「……おつうさん? ……」
げましょう。……あなたは、生命いのちしいと先刻さっきいいましたね」
げる?」
「え……。わたしも、もうこのむらにはいられないんです。……いれば……ああえられない。……武蔵たけぞうさん、わたしは、あなたをすくいますよ。あなたは、わたしすくいをけてくれますか」
「おうっ、ってくれ! ってくれ! この縄目なわめを」
「おちなさい」
 おつうは、ちいさな旅包たびづつみを片襷かただすきい、かみからあしごしらえまで、すっかり旅出たびで身仕度みじたくをしているのである。
 短刀たんとういて、武蔵たけぞう縄目なわめを、ぶつりとった。武蔵たけぞうは、あし知覚ちかくがなくなっていたのである。おつうささえはしたが、かえって、彼女かのじょともあしはずし、大地だいちむかって、ふたつのからだいきおいよくちてった。

 武蔵たけぞうっていた。二丈にじょうもあるのうえからちたのに、茫然ぼうぜんと、大地だいちっている。
 ウーム……とうめこえかれあしもとにきこえた。ふとおとしてると、一緒いっしょちたおつうが、手脚てあしッぱってにもがいているのである。
「おっ」
 おこして――
「おつうさん、おつうさん!」
「……いたい……いたい」
「どこをった?」
「どこをったかわかりません。……だけど、あるけます、大丈夫だいじょうぶです」
途中とちゅうえだで、何度なんどもぶつかっているから、たいした怪我けがはしていないはずだ」
わたしより、あなたは」
おれは……」
 武蔵たけぞうは、かんがえてから、
「――おれきている!」
きていますとも」
「それだけしかわからないんだ」
げましょう! いっときはやく。……もしひとつかったら、わたしもあなたも、今度こんどこそは、生命いのちがありません」
 おつうは、あしをひきずりながらあるした。武蔵たけぞうあるいた。――黙々もくもくと、遅々ちちと、あきしもを、片足かたあしむしあゆむように。

「ごらんなさい、播磨灘はりまなだほうが、ほんのりしらみかけました」
「ここは何処どこ
中山峠なかやまとうげ。……もう頂上ちょうじょうです」
「そんなにあるいてたかなあ」
一心いっしんこわいものですね。そうそう、あなたは、まる二日二晩ふつかふたばんなにべていないでしょう」
 そういわれて、武蔵たけぞうはじめて飢渇きかつおもした。
 っているつつみをいて、おつうは、こめこなったもちした。あまあんしたからのどちてゆくと、武蔵たけぞうは、せいのよろこびに、もちっているゆびふるえて、
おれきたぞ)
 と、つよくおもい、同時どうじに、
(これからうまかわるのだ!)
 と、信念しんねんした。
 あか朝雲あさぐもが、二人ふたりかおいた。おつうかおあざやかにえてくると、武蔵たけぞうは、ここに彼女かのじょ二人ふたりでいることがゆめのようで、どうしても不思議ふしぎがしてならない――
「さ、昼間ひるまになったら、油断ゆだん出来できませんよ。それに、すぐ国境くにざかいにかかりますから」
 国境くにざかいくと武蔵たけぞうは、きゅうに、らんとして、
「そうだ、おれはこれから日名倉ひなぐら木戸きどく」
「え? ……日名倉ひなぐらへですって」
「あそこの山牢やまろうには、姉上あねうえつかまっている。姉上あねうえたすしてくから、おつうさんとは、ここでわかれよう」
「…………」
 おつうは、うらめしげに、武蔵たけぞうかおだまってていたが、やがて、
「あなたは、そんななんですか。ここでもうわかれてしまうくらいなら、わたしは、宮本村みやもとむらてはまいりません」
「だって、為方しかたがない」
武蔵たけぞうさん」
 おつうは、るようなまなざしをもって、かれへ、自分じぶんれかけたが、かおからだも、あつくなって、ただ情熱じょうねつにふるえるだけだった。
「わたしの気持きもちいまに、ゆっくりはなしますけれど、ここでおわかれするのはいやです。どこへでも、れてってください」
「……でも」
後生ごしょうです」
 とおつうをついて、
「――あなたがいやだといっても、わたしはなれません。もし、おぎんさまをすくすのに、わたしがいて足手あしでまといなら、わたしは、姫路ひめじ御城下ごじょうかまでさきってっていますから」
「じゃあ……」
 と武蔵たけぞうはもうちかけた。
「きっとですね」
「あ」
城下端じょうかはずれの花田橋はなだばしっていますよ。ないうちは、百日ひゃくにちでも千日せんにちでもっていますからね」
 ただうなずきをせて、武蔵たけぞうはもうとうげづたいにやまけていた。