朗読「地の巻25.mp3」6 MB、長さ: 約9分44秒
三
山から降りて来た日、寺へもどって、自分の部屋へ入ると、お通はその日から急に、独りぽっちの身が淋しくてならなくなった。
(なぜかしら?)
独りぽっちは、今始まったことではないし、寺には、ともかく、人もおり火の気もあり明りも燈っているが、山にいた三日間というものは、寂寞たる闇の中に、沢庵さんとたった二人であった。――だのに何故、寺へ帰って来てからの方が、こんなに淋しい気がするのか?
自分の気もちを、自分に訊いてみようとするものらしく、この十七の処女は、窓の小机に頬づえをついたまま、半日をじっとそうしていた。
(わかった)
うっすらと、お通は、自分の心を観た気がした。淋しいという心は飢えと同じだ。皮膚の外のものではない、そこに、満ち足りないものを感じる時、さびしさが身に迫る。
寺には、人の出入りがあるし、火の気も明りもあって賑やかそうだが、そういう形の現象でこの淋しさは癒せるものでない。
山には、無言の樹と霧と闇しかないが、そこにいた一人の沢庵という人は、決して、皮膚の外の人ではなかった。あの人の言葉には、血をくぐって心に触れ、火よりも明りよりも心を賑やかにしてくれるものがある。
(その沢庵さんがいないから!)
お通は、起ちかけた。
しかしその沢庵は、武蔵の処置をしてから姫路藩の家来たちと何か客間で膝詰めの相談事をしていた。里へ降りてはとても忙しくて、自分と山の中でのような話などしていられそうもない。
そう気づくと、彼女はまた、坐り直した。ひしひしと、知己が欲しいと思う。数は求めない、ただ一人でよい、自分を知ってくれるもの、自分の力になってくれるもの、信じられるもの――それが欲しい! もう気が狂うほど、そういう人がこの身に欲しい!
笛。――ふた親のかたみの笛。――ああそれはここにあるが、処女の十七ともなれば、もう、冷たい一管の竹では防ぎ得ないものが育っている。もっと切実な、現実的な対象でなければ満ち足りない。
「くやしい……」
それにつけても彼女は、本位田又八の冷たい心を恨まずにはいられなかった。塗机は涙でよごれ、独りで怒る血は、こめかみの筋を青くして、ずきずきと、その辺がまた痛んでくる。
うしろの襖が、そっと開いた。
いつの間にか大寺の庫裡には暮色が湧いていた。開けた襖ごしに、厨の火が赤く見える。
「やれやれ、ここに居やったかいの。……一日暇をつぶしてしもうた」
呟きながら入って来たのは、お杉ばばであった。
「これは、おばば様」
あわてて敷物を出すと、お杉は、会釈もなく木魚のように坐って、
「嫁御」
と、いかめしい。
「はい」
竦むように、お通は手をつかえた。
「そなたの覚悟をたしかめた上、ちと話があるのじゃ。今まで、あの沢庵坊主や、姫路の御家来たちと話していたが、ここの納所、茶も出さぬ。喉が渇きました。まず先に、ばばに茶を一ぱい汲んでおくりゃれ」
四
「ほかではないがの……」
お通の出す渋茶を取ると、ばばは改まって、すぐいい出した。
「武蔵めのいうたことゆえ、うかとは信じられぬが、又八は、他国で生きているそうじゃよ」
「左様でございますか」
お通は冷ややかだった。
「いや、たとい、死んでおればとてじゃ、そなたという者は、又八の嫁として、この寺の和尚どのを親元に、確と、本位田家にもらいうけた嫁御、この後どんな事情になろうと、それに、二心はあるまいの」
「ええ……」
「あるまいの」
「は……い……」
「それでまず、一つは安心しました。ついては、とかく、世間がうるさいし、わしも、又八がまだ当分もどらぬとすれば、身のまわりも不自由、分家の嫁ばかり、そうそうこき使うてもおられぬゆえ、この折に、そなたは寺を出て、本位田家のほうへ身を移してもらいたいが」
「あの……私が……」
「ほかに誰が、本位田家へ嫁として来るものがあろうぞいの」
「でも……」
「わしと暮すのは嫌とでもおいいか」
「そ……そんな理ではございませぬが」
「荷物を纏めて置きやい」
「あの……又八さんが、帰ってからでは」
「なりません」
と、お杉は極めつけて、
「せがれが戻るまでの間に、そなたの身に虫がついてはならぬ。嫁の素行を見まもるのは、わしの役目、この婆の側にいて、伜がもどるまでに、畑仕事、飼蚕のしよう、お針、行儀作法、何かと教えましょう。よいか」
「は……はい……」
仕方なくいう自分の声が、情けなくて泣くように自分には聞えた。
「次に」
と、お杉は命じるように、
「武蔵のことじゃが、あの沢庵坊主の肚は、ばばには、どうにも解せぬ。そなたは、幸いに此寺にいる身でもあることゆえ、武蔵めの生命が終るまで、怠らずに、ここで見張っていやい――真夜半など、気をつけておらぬと、あの沢庵が、何を気ままにしてのけぬものでもない」
「では……私が此寺を出るのは、今すぐでなくともよいのでございますか」
「いちどに、両方はできますまい。そなたが、荷物と一緒に本位田家へ移って来る日は、武蔵の首が胴を離れた日じゃよ。わかりましたか」
「畏まりました」
「きっと吩咐けましたぞよ」
念を押して、お杉は去った。
すると――その機会を待っていたように、窓の外に人影が映し、
「お通、お通」
と小声で誰か招く。
ふと、顔を出してみると、どじょう髯の大将がそこに佇立んでいる。いきなり窓ごしに彼女の手を強く握って、
「そちにも、いろいろ世話になったが、藩からお召状が来て、急に姫路へもどらねばならぬことになった」
「ま、それは……」
手をすくめたが、どじょう髯はなお固く握って、
「御用は、今度の事件が聞えて、それについてのお取糺しらしい。武蔵の首級さえ取れば、わしの面目は立派に立ち、言い開きもつくのじゃが、沢庵坊主め、何といっても意地を曲げて渡しおらぬ。……だが、そなただけは、こっちの味方じゃろうな。……この手紙、後でよい、人のおらぬ所で、読んでくれい」
何か、手へ掴ませると、どじょう髯の影は、あたふたと、麓のほうへ急ぎ足にかくれた。