250・宮本武蔵「風の巻」「蝶と風(3)(4)」


朗読「250風の巻92.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 43秒

 これがはは意見いけんだと、みみというかおしめして、いつもはなわらかえ又八またはちであるが、五年ごねんぶりでったとも言葉ことばには、つよ本心ほんしんたれてついなみだすらこぼしてしまった。
「……わかった、わかった、有難ありがとう」
 繰返くりかえして、こうおさえ、
今日きょうこころ誕生日たんじょうびとして、おれもうまなおす。とてもおれは、けんてる素質そしつはなさそうだから、江戸表えどおもてくなり、諸国しょこく遍歴へんれきするなりして、そのうちに良師りょうし出会であったら、いて学問がくもんはげむことにする」
「おれも、ともにこころがけて、主人しゅじんつけてやろう。なにも学問がくもんひまでやるのじゃないから、主人しゅじんつかえながらでもおさめられることだし」
「なんだか、ひろみちがする。――だが、こまったことがひとつある……」
「なんだ。どんなことでもはなしてくれ、将来しょうらいともに、この武蔵むさしにできることで、そして、おぬしののためになることなら、どんなことでもきっとする。――それがせめて、おぬしのおふくろをおこらせた、わしのつみつぐないだから」
「いいにくいなあ」
些細ささいかくしごとが、ついおおきなくらかげつくる。はなしてしまえ……のわるいのは一瞬ひとときだし、友達ともだちあいだに、なんの羞恥はにかむことがあるものではない」
「……じゃあいってしまうが」
「ウム」
茶店ちゃみせおくているのは、おんなれなんだ」
女連おんなづれか」
「それも、じつは……。アア、やっぱりいいにくいなあ」
おとこらしくないやつだ」
武蔵むさしわるくしないでくれ。おめえもっているおんなだから」
「はてな? ……だれ一体いったい
朱実あけみだよ」
「…………」
 武蔵むさしは、はっとおもった。
 五条大橋ごじょうおおはしった朱実あけみはもう以前いぜんしろはなではなかった。媚汁びじゅうをたたえた毒草どくそうのおこうほどにはまだすさんでいないまでも、危険きけんくわえてんでいるとりだった。あのとき自分じぶんむねへすがってきながらそれを告白こくはくもしていたし、おりからその朱実あけみと、なにか関係かんけいのありそうな若衆わかしゅ扮装いでたち前髪まえがみが、キッと、はしたもとからしろめつけていたことなどもおもされる。
 武蔵むさしいま朱実あけみ道連みちづれといて、とものためにハッとおもったのは、そうした複雑ふくざつ事情じじょう性格せいかくをもっている女性じょせいと、この弱気よわきともとの人生じんせいたびが、どんな暗黒あんこく谷間たにまはいってゆくことか、あまりにもえすいた不幸ふこう道連みちづれ――とおもわれたからであった。
 また、どうしてだろうか。おこうといい、朱実あけみといい、りにって、そういうあぶない道連みちづればかりが、このおとこくのは。
「…………」
 武蔵むさしだまっているおもてを、又八またはちは、又八またはちらしく解釈かいしゃくして、
おこったのか。……おれはかくしていてはわるいから正直しょうじきにいってしまったが、おめえのれば、いい気持きもちはしないだろうからな」
 と、いった。
 あわれむように、武蔵むさしは、
「ばかな」
 と、顔色かおいろはらって、
あまりにも、不運ふうん出来できているのか、不運ふうん自分じぶんつくるのか――と、おぬしのために、おれは茫然ぼうぜんとするのだ。……おこうりておりながら、なんでまた……」
 口惜くちおしくすら武蔵むさしおもって、そのいきさつをただすと、又八またはちは、三年さんねんざか旅籠はたご出会であったことから、ぐるよる瓜生山うりゅうやまふたたって、ふと出来心できごころのように、江戸えど駆落かけおちする相談そうだんめ、れの母親ははおやててしまったことまで、ありのままにはなしてかくすところもない。
「ところが、おふくろのばちがあたったのか、朱実あけみやつが、瓜生山うりゅうやますべったとき打傷うちみいたいといいだし、それからこの茶店ちゃみせでずっと寝込ねこんでしまったというわけ。おれも後悔こうかいはしたが、もういつかないことだしなあ」
 その嘆息ためいきけば、無理むりもない。くわえているとりと、慈母じぼたまとを、このおとこは、えてしまったのである。

 そこへ、のっそり、
「おきゃくさあ、ここにいなさったのけ」
 模糊もことして風貌ふうぼうのどこかに耄碌もうろくした茶店ちゃみせ老婆ろうばが、両手りょうてこしにまわし、お天気てんきでもたようにそらまわして、
「おれの病人びょうにんは、一緒いっしょていなさらねえのかよ」
 ごとくでもあり、わざるごとくでもある。
 又八またはちぐ、
朱実あけみか。――朱実あけみがどうかしたのか」
 いろかおしていう。
寝床ねどこにいねえがな」
「いない」
いまがたまでいただが」
 武蔵むさしには、なにか、説明せつめいはできないが、直感的ちょっかんてきに、おもあたるものがあった。
又八またはちってみい」
 その又八またはちつづいて、武蔵むさし茶店ちゃみせけもどり、彼女かのじょ寝床ねどこのあったというむさ一間ひとまのぞいてみると、老婆ろうばのことばにちがうところがない。
「あっ、いけねえ」
 又八またはちは、きょろついて、さけんだ。
おびもない、履物はきものもない。――やッおれの路銀ろぎんも」
化粧道具けしょうどうぐは」
くしも、かんざしも。どこへぱしってきやがったのだろう。おれをりにしやがって」
 たったいま将来しょうらい発憤はっぷんちかって、なみだをこぼしたかおに、忌々いまいましさをみなぎらしていう。
 老婆ろうばは、土間口どまくちからのぞいて、ひとごとのように、
「なんたらことじゃ。あのむすめはの、いうたら、おきゃくさんにわるいかしらんが、ほんまの病気びょうきじゃのうて、仮病けびょうして、不貞寝ふてねしていよったのだによ。老婆としよりからたらようわかるがの」
 そんなこえにはみみもかさない。又八またはち茶店ちゃみせよこて、みねうねしろみちをぼんやりながめていた。
 もうはなくろりしいているももしたに、そべっている牝牛めうしが、おもしたように、長々ながなが欠伸啼あくびなきをする。
「…………」
又八またはち
「…………」
「おい」
「ウム?」
「なにをぼんやりしているのだ。った朱実あけみさき、せめてすこしでもよい落着おちつきをるように、二人ふたりしていのってやろう」
「ああ」
 と、のないかおまえに、ちいさなかぜうずがながれていた。いろいちょうひとつ、えないうずなかもてあそばれながら、がけしたしずんでった。
「さっき、おれをよろこばしてくれた言葉ことば。あれは、おぬしのほんとの決心けっしんだろうな」
「ほんとだ、ほんとでなくて、どうするものか」
 んだままのくちびるから、ふるえをらすように、又八またはちつぶやいた。
 ぼうとおくをているひとみうばいかえすように、武蔵むさしはぐっとかれって、
「おぬしのみちは、自然しぜんひらけてきた。もう、朱実あけみちてった方角ほうがくがおぬしのみちじゃないぞ。おぬしはすぐ、これからあし草鞋わらじをつけて、坂本さかもと大津おおつあいだりてったおふくろをさがまわれ。――あのおふくろを貴様きさま見失みうしなってはならないぞ。さ、ぐにけ」
 と、につくそこらの草鞋わらじ脚絆きゃはんなど、かれ旅具たびぐって、軒端のきば床几しょうぎまでしてやる。
 さらにまた、
かねはあるか、路銀ろぎんは。……すくないがこれをってったらどうだ。おぬしが江戸表えどおもてこころざしてるなら、おれも一先ひとま江戸えどまでともこう。また、おぬしのおふくろ殿どのには、あらためておれもこころからはなしたいこともある。おれはこのうしいて、瀬田せた唐橋からはしっておるから、きっとあとからっていよ。――いいか、おばばのいていよ」