249・宮本武蔵「風の巻」「蝶と風(1)(2)」


朗読「249風の巻91.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 35秒

ちょうかぜ

又八またはち、おぬしはいま、なにをやって衣食いしょくしているのか」
職業しょくぎょうか」
「ウム」
仕官しかんくちにははずれるし、まだこれぞといえる仕事しごともしていないが」
「では今日きょうまで、あそんでくらしてきたのか」
「そういわれるとおもす……。おれはまったく、あのおこうのやつのために、大事だいじ一歩いっぽあやまったものだ」
 その伊吹いぶきふもとおもされるような草原そうげんると、
すわろう」
 武蔵むさしは、くさにあぐらをんだ。そして自分じぶんたいして、なんとなく、かんじているようなとも弱気よわきを、むしろがゆくおもった。
「おこうのためだというが――又八またはち、そういうかんがかたおとこ卑劣ひれつだぞ。自分じぶん生涯しょうがいつくってゆくものは自分以外じぶんいがいだれでもない」
「それやあもとより、おれわるい。……だがどういうのかなあ。おれ自分じぶんむかって運命うんめいを、かわせないのだ。ついられてしまうのだ」
「そんなことでいま時代じだいをどうしてるか。たとえ江戸えどてみても、江戸えどいま諸国しょこくからはらいている人間にんげんが、いであつまっている新開地しんかいちだ。とても人並ひとなみなことでは立身りっしん覚束おぼつかなかろう」
おれもはやく剣術けんじゅつでも修行しゅぎょうすればよかったが」
「なにをいう。まだ二十二にじゅうにじゃないか。なんだってこれからだ。……だが又八またはち、おぬしにはけん修行しゅぎょうひとがらでない。学問がくもんをせい、そしてよい主君しゅくんもとめて奉公ほうこうみちにつけ、それがいちばんいいとおもうな」
「やるよ……おれも」
 くさをむしりって、又八またはちくわえた。しんからかれ自分じぶんじるのだった。
 おな山間やまあいうまれ、おな郷士ごうしうまれ、としおなじなこのともたいして、たった五年ごねんあゆみのちがいが、かれ自分じぶんと、こんなにもおおきなつくっていたかとおもうと、たまらないほど、徒食としょく後悔こうかいされてくる。
 うわさだけをいて、武蔵むさしにあわないでいたうちは、なんの彼奴あいつがと、多寡たかをくくっていられたが、こうして五年ごねんぶりでかわった姿すがたあってみると、いくら意地いじってみても、又八またはちはなにか友達ともだちらしくない威圧いあつさえかれからけて、自分じぶんかげけめをいだかずにはいられない。そしてつねむねっていた武蔵むさしたいする反感はんかんも、気概きがいも、自尊心じそんしんまでも同時どうじうしなって、ただ正直しょうじき自分じぶん意気地いくじなさばかり、こころうちめるのであった。
「なにをかんがんでいるのだ――。おいっ、しっかりしろよ」
 武蔵むさしは、ともかたって、たたいてみてもかんじられるような、その軟弱なんじゃく意思いししかった。
「いいじゃないか、五年道草ごねんみちくさをくったら、五年遅ごねんおそうまれてたとおもうのだ。だが、かんがえようによっては、その五年ごねん道草みちくさも、じつとうと修行しゅぎょうであったかもわかるまいが」
面目めんぼくない」
「……オオ、はなし夢中むちゅうになってわすれていたが、又八またはち、たったいまおれは、おぬしの母親ははおやとそこでわかれたのだぞ」
「えっ、おふくろと、あったのか」
「なぜ、おぬしは、あの母親ははおや強気つよき我慢がまんを、もすこなかもらってうまれてなかったのだ」

 この不肖ふしょうていると、武蔵むさしは、あの不幸ふこう母親ははおやのお杉婆すぎばばを、あわれとおもわずにいられない。
(なんたるやつだ)
 と、がいない又八またはち銷沈しょうちんしている姿すがたが、他人事ひとごとならずに、ながめられる。
幼少ようしょうからははにわかれて、ははのないおれのみじめなさびしさをろ)
 と、いってやりたい。
 そもそも。
 お杉婆すぎばばが、あの老齢よわいをもちながら、もとめてたびそら惨苦さんくめているのも、また、自分じぶんもくして七生しちしょう仇敵きゅうてきとまでおもいこんでいるのも、その根本こんぽん原因げんいんはただひとつ、
又八またはち可愛かわいい)
 という以外いがいなにものでもない。そのほか原因げんいんはないのだ。盲愛もうあいからしょうじた誤解ごかいであり、誤解ごかいからしょうじた執念しゅうねんでしかないのである。
 あわ幼少ようしょうゆめなかにしかははらない武蔵むさしには、痛切つうせつにそれがわかる。うらやましくてならないのだ。あのばばののしられ、迫害はくがいされ、はかられて、一時いちじ憤怒ふんぬからめたあとでは、かえってむねまれるほど孤愁こしゅうにそれがうらやまれた。
(――だから、ばば呪詛じゅそやわらげるには?)
 と、武蔵むさしいま又八またはち姿すがたているうちにむねなかで、ひとうてひとこたえた。
(この息子むすこが、偉大いだいになってくれればいいのだ。武蔵以上むさしいじょう人間にんげんになり、おれ見返みかえして、郷人きょうじんほこってくれたら、ばばは、おれのくびった以上いじょう本望ほんもうおもうだろう)
 そうかんがえると、かれ又八またはちいだ友情ゆうじょうかれつるぎたいするように、かれ観音像かんのんぞうときのように、がらずにいなかった。
「なあ、又八またはち。おぬしはおもわないか」
 その真実しんじつが、かれのことばを、友情ゆうじょううちにも荘重そうちょうにして、
「あんないいおふくろをって、おぬしはなぜ、あのおふくろに、うれなみだをこぼさせてやろうとはしないのだ。おやのないおれからると、貴様きさまは、勿体もったいなさすぎるぞ。勿体もったいないということは、おや尊敬そんけいしないということじゃないのだ。人間にんげん最大さいだい幸福こうふくたせられていながら、折角せっかく幸福こうふくを、あまりにもおぬしは自分じぶんみにじっている。――かりにだ、おれにいま、あんなおふくろがあったとしたら、おれの人生じんせいは、何倍なんばいあたたかにふくらむだろう。みがくにも、こうてるにも、どんなに張合はりあいがてるかれないとおもうのだ。なぜならば、おやほど正直しょうじきに、こうよろこんでくれるものはないからだ。自分じぶんのしたことを、共々欣ともどもよろこんでくれるものがあるのはおおきな張合はりあいというものじゃないか。――それのあるものには、陳腐ちんぷ道義どうぎりをしているようにきこえるだろうが、こういう漂泊ひょうはくそらにあるでも、アアいい景色けしきだなあとかんじたときのような場合ばあいそばにもどこにもそれをかたものがいないということはその一瞬いっしゅんじつにさびしい心地ここちになるものだぞ」
 又八またはちが、じっとみみかたむけていてくれるので、武蔵むさし一息ひといきにそこまでいって、とも手頸てくびにぎりしめた。
又八またはちっ……。そんなことは、おぬしだって、ひゃく承知しょうちちがいない。おれは、友達ともだちとしてたのむのだ。おな郷土きょうどそだったのだ。……なあおいっ、せきはら合戦かっせんのぞんで、やりかついであのむらとき気持きもちを、もいちどおたがいにびかえして、勉強べんきょうしようじゃないか。合戦かっせんいま、どこにもなくえるが、せきはらえきんでも、平和へいわうら人生じんせいいくさはあんなものどころか、いよいよ修羅しゅら術策じゅつさくちまたつくっているのだぞ。そのなかで、ちきるみちは、自分じぶんみがくことしかない。……なあ又八またはち、もいちどやりかついでかける貴様きさまも、真面目まじめなかんでくれよ。勉強べんきょうしてくれよ、えらくなってくれよ。貴様きさまがやるならおれもどんなちからでもす、貴様きさま奴僕ぬぼくになってもいい、ほんとに貴様きさまがやるというちかいを天地てんちててくれるならば――」
 むすっている二人ふたりへ、又八またはちはぼろぼろなみだをこぼした。のようにそれはあつかった。