248・宮本武蔵「風の巻」「乳(3)(4)(5)」


朗読「248風の巻90.mp3」13 MB、長さ: 約 14分 35秒

有難ありがとうよ、おばあさん」
 牝牛めうしはらしたからおんなした。しぼったちちかめ大事だいじかかえて、れいをいうとすぐりかけた。
「ア。――まちたしゃれ」
 お杉婆すぎばばは、めた。ひどくあわててをあげたのである。
 そしてあたりを見廻みまわした。武蔵むさしのすがたがえないので、ばば安心あんしんしたもののように、
女子おなご。……わしにも、その牝牛めうしちちをくれぬか。ひとくちませてくれまいか」
 かわったようなこえをふるわせていう。
 おやすいことですと、おんなちちかめをわたすと、ばばは、びんくちくちをつけて、をつぶりながらそれをんだ。くちびるはしからながれたしろしるが、むねれて、くさにもこぼれた。
「…………」
 ちるまでんでから、ばばは、ぶるっとをふるわせ、すぐきそうにかおをしかめた。
「……ああ、なにやら不気味ぶきみあじよの。したが、これでわしも、達者たっしゃになれるかもれぬ」
「おばあさんも、どこかからだがおわるいのかえ」
「なあに、たいしたことはない。風邪熱かぜねつのあったところをすこひどくころんでの」
 いいながらお杉婆すぎばばはひとりでがっていた。うしせられて、ウンウンうめいていた病態びょうたいはその時少ときすこしもえなかった。
女子おなご……」
 こえをひそめて、いながら、もいちどするどを、武蔵むさしのためにくばって、
「この山道やまみちを、っすぐにったら、どこへるのじゃ」
三井寺みいでらうえるがな」
三井寺みいでらといえば、大津おおつじゃの……。そこよりほかに、裏道うらみちはないか」
「ないこともないが、おばあさんは一体いったい、どこへきなさるのじゃ」
「どこへでもかまわぬ。わしはただ、わしをつかまえてはなさぬ悪者わるものからげたいのじゃよ」
五町ごちょうほどさきったら、きたりる小道こみちがあるで、そこをかまわずりてけば、大津おおつ坂本さかもとあいだるがな」
「そうか……」
 と、ばばはそわそわして、
「では、だれあとからいかけてて、おもとになにかいても、らんというてくれよ」
 いいてると、ばばは、怪訝けげんかおしているそのおんなあゆみをして、片足かたあし蟷螂かまきりいそぐように、さきってしまった。
「…………」
 武蔵むさしていた。苦笑くしょうしながら岩蔭いわかげってしずかにあるした。
 かめかかえてゆく女房にょうぼうのうしろ姿すがたさきえた。武蔵むさしびとめると、おんなすくんで、なにもわないうちから、なにもりませんとこたえそうなかおつきをした。
 だが武蔵むさしは、そのことにはれないで、
「おかみさん、おまえのいえは、このへんのお百姓ひゃくしょうか、それとも木樵きこりか」
「わしのいえかえ? わしのいえは、このさきとうげにある茶店ちゃみせだが」
峠茶屋とうげぢゃやか」
「ヘエ」
「ならば、なおのこと、都合つごうがよい。おまえに駄賃だちんをやるが、洛内らくないまで一走ひとっぱしり、使つかいにってくれないか」
ってもよいが、いえ病人びょうにんのお客人きゃくじんがいるでの」
「そのちちは、わしがとどけてやったうえ、おまえのいえで、返事へんじっているとしよう。ここからすぐってくれれば、のあるうちにかえってられよう」
「それやあ造作ぞうさもねえこったが……」
あんじるな。わしは、悪者わるものでもなんでもない、いまばばどのも、あの元気げんきはしれるようなら心配しんぱいないからほうっておくのだ。……いまここで手紙てがみく。これをって、洛内らくない烏丸家からすまるけまでっててくれ。返事へんじはおまえの茶店ちゃみせっている」

 武蔵むさしは、矢立やたてふでいて、すぐ手紙てがみしたためた。
 おつうへ――である。
 無動寺むどうじにいた幾日いくにちかのあいだにも、おりあらば――とこころがけていた彼女かのじょへの便たよりを、
「では、たのむぞ」
 といまおんなわたし、自分じぶんうしにまたがって、そこから半里はんりほどを悠々ゆうゆううしあゆみにまかせてあるいた。
 ほんのはしきの一筆いっぴつであったが、使つかいにたせてやった自分じぶん手紙てがみなか文言もんごんおもうかべ――それをけとるおつうむねをも想像そうぞうして、
二度にどと、えようとはおもわなかったが」
 と、つぶやいた。
 かれ笑顔えがおには、あかるいくもえてえる。
 生々しょうじょうなつ地上ちじょう何物なにものよりも、晩春ばんしゅん碧落へきらくいろど虚空こくう何物なにものよりも、かれ顔一かおひとつが、いちばんたのしそうであり、また、溌剌はつらつとしていた。
「……このあいだのあの容態ようだいでは、まだ病床びょうしょうにいるかもしれない。でも、わしのあの手紙てがみとどいたら、すぐきて、城太郎じょうたろうとふたりしていついてるだろう」
 牝牛めうし時々ときどきくさいでまった。くさしろはなも、武蔵むさしには、ほしがこぼれているようにえた。
 たのしいことだけしかかんがえられないいま武蔵むさしであったが、ふと、
「おばばは? ……」
 と、谷間たにま見渡みわたし――
一人ひとりでまた、たおれたままくるしんでいるのじゃないか?」
 などと心配しんぱいしてみたりする。――それもこれも、いまなればこそある余裕よゆうだった。
 もしひとられたらはずかしいとおもったが、おつうへやった手紙てがみなかに、かれはこういう意味いみのことをいたのである。

花田橋はなだばしのときは、そなたがった
こたびは、わたしがそなたをとう
ひと足先あしさきに、大津おおつ瀬田せた
唐橋からはしうしをつないでいる
くさぐさのはなし、そのせつ

 かれは、そういた自分じぶん文言もんごんのように、くちのうちでいくたびも暗誦あんしょうし、さて――くさぐさのはなしのたねまでいまからむねえがいている。
 とうげに、旗亭きていえた。
「……あれだな」
 とおもう。
 ちかづいて、かれうしからりた。にはここの女房にょうぼうからのとどものであるちちはいっているかめっていた。
「ゆるせ」
 軒先のきさき床几しょうぎめると、土泥竈どべっついにせいろうをかけて、やしていた老婆ろうばが、ぬるいちゃんでくる。
 武蔵むさしは、その老婆ろうばむかい、ここの女房にょうぼうって、途中とちゅうから使つかいをたのんだ仔細しさいげた。そしてちちびんをもわたそうとすると、
「へえ、へえ」
 とばかりいていた老婆ろうばは、みみとおいのか、そのびんたされると、
「これはなんでござりまするか」
 と、不審いぶかった。
 武蔵むさしが、これは自分じぶんいている牝牛めうしちちで、ここの女房にょうぼう病人びょうにんきゃくとやらへませたいためにこれへしぼったものだから、すぐその病人びょうにんあたえるがよかろうと、いいかせると、老婆ろうばは、
「ほう? ……ちちでござりまするか……ほう?」
 まだわかったやらわからないようなかおつきして、両手りょうてびんささえていたが、やがて、処置しょちきゅうしたように、
「――おきゃくさあっ、おくのおきゃくさあっ、ちょっくらておくんなされや。わしにゃあ、どうしてええかわからんがな」
 せま小屋こやおくをのぞいて、唐突とうとつにどなった。

 老婆としよりびたてられたおくきゃくなるものは、おくにはいなかった。
「――おう」
 と、返事へんじきこえたのは裏口うらぐちのほうで、やがてのそっと、一人ひとりおとこが、茶店ちゃみせよこからかおして、
「なんだい、ばあさん」
 と、いった。
 老婆ろうばはすぐちちかめをそのおとこわたした。けれどおとこは、そのびんったまま、老婆ろうばはなしこうともしないし、ちちをのぞいてるでもない。
 放心ほうしんした人間にんげんのように、武蔵むさしほお射向いむけているのだった。武蔵むさしもまた凝然ぎょうぜんとして、そのおとこている――
「……お、おうっ」
 どっちからともなくこううめいた双方そうほうあしまえていた。
 そしてかおかおとをせっって、
又八またはちじゃないかっ!」
 武蔵むさしがさけんだ。
 そのおとこは、本位田ほんいでん又八またはちだったのである。
 かわらないむかしともこえみみたれると、又八またはちもわれをわすれて、
「――やっ。たけやんか!」
 と、かれもむかしのれたをもって呶鳴どなった。武蔵むさしばすと、又八またはちも、うつつにかかえていたちちびんおもわずからおとしてきついた。
 びんくだけて、しろえき二人ふたりすそねかかった。
「ああ! 何年なんねんぶりだろう」
せきはらいくさ――あれからだ! あれからっていないのだ!」
「……すると?」
五年ごねんぶりだ。――おれは今年二十二ことしにじゅうにになったから」
「わしだって、二十二にじゅうにだ」
「そうだ、おなどしだったなあ」
 っているともともを、牝牛めうしあまちちかおりがつつんでいた。幼心おさなごころ二人ふたりともそれにもおもされていたかもしれなかった。
えらくなったなあ、たけやん。――いやいまでは、そうばれても自分じぶんみたいながすまいな。おれも武蔵むさしぼう。いつぞやのさがまつはたらき、そのまえのことども、うわさ始終耳しじゅうみみにしていた」
「いや、はずかしい。まだまだおれは未熟者みじゅくものだ。世間せけんやつが、あまりにも不出来ふできすぎるのだ。――だが又八またはち、この茶店ちゃみせとまっているというきゃくは、おぬしのことか」
「ウム……じつ江戸表えどおもてこうとおもってみやこったが、すこし、都合つごうがあって十日とおかばかり」
「じゃあ、病人びょうにんというのは? ……」
病人びょうにん
 又八またはち口籠くちごもって、
「あ――病人びょうにんというのは、れのものだ」
「そうか。……なにしろ無事ぶじかおてうれしい。いつか、大和路やまとじから奈良ならへゆく途中とちゅうで、城太郎じょうたろうからおぬしの手紙てがみったが」
「…………」
 きゅうに、又八またはちせた。
 あのとき手紙てがみなかに、傲語ごうごしていた言葉ことばひとつでも、実行じっこうされていないことをおもうと、かれは、武蔵むさしまえに、おもてげる勇気ゆうきない。
 武蔵むさしは、そのかたをかけた。
 ただわけもなくなつかしいのだ。
 五年ごねんのあいだにしょうじたかれ自分じぶんとの人間的にんげんてきなどは念頭ねんとうにもなかった。おりもよし、ゆっくりとくつろいで、こころゆくまでかたりあいたいとおもうのだった。
又八またはちれというのは、だれなのだ」
「いや……べつに、だれというほどのものでもないが、すこしその……」
「じゃあ、ちょっと、そとぬか。ここであま饒舌しゃべるのもわるかろうゆえ」
「ウム、こう」
 又八またはちも、それをのぞんでいたらしく、すぐ茶店ちゃみせそとあるした。