241・宮本武蔵「風の巻」「霧風(3)(4)」


朗読「241風の巻83.mp3」8 MB、長さ: 約 9分 06秒

 京流吉岡きょうりゅうよしおか伝統でんとうってつべき十剣じゅっけんのうちの、小橋こばし蔵人くらんどがまずさきたおれてしまい、いままた御池十郎左衛門みいけじゅうろうざえもんともあろうほどのものが、つづいて大地だいちした。
 ものかずにはれるわけにはゆかないが、かれらの命旗めいきとする、名目人めいもくにん源次郎少年げんじろうしょうねんくわえると、すでにここの半数はんすうは、武蔵むさしかたなにあたって序戦じょせんにえさらされ、さんたるをここ一面いちめんいてしまった。
 ――そのとき十郎左衛門じゅうろうざえもんったさき余勢よせいをもって、かれらのみだれたきょにつけってゆけば、武蔵むさしはさらに、いくつかの敵首てきしゅをつかみ、ここでの大勢たいせいけっすることができたにちがいない。
 だがかれはなにおもったか、まっしぐらに三本道さんぼんみち一方いっぽうけた。
 げるかとおもえば、ひるがえっているし、むかってたなとかまえをなおせば、はらってゆくつばめのように、武蔵むさしかげはもうたちま眼前がんぜんにない。
「くそッ」
 のこった半数はんすうがみをし、
武蔵むさしッ」
きたないぞッ」
卑怯ひきょうッ」
勝負しょうぶはまだだぞ」
 とえ――そしてった。
 かれらの眼孔がんこうは、皆顔みなかおからしそうにひかっていた。おびただしいしおをのにおいにかれて、かれらは酒蔵さかぐらはいったようにっていた。なかつと、勇者ゆうしゃつねよりも冷静れいせいになるし、怯者きょうしゃはその反対はんたいになる。――武蔵むさしいかけてゆく躍起やっき血相けっそうというものは、さながらいけおにだった。
ったぞッ」
がすなッ」
 そんなさけびをてながら、武蔵むさしは、最初さいしょ戦端せんたんった丁字形ていじけいつじて、三道さんどうのうちでいちばん道幅みちはばのせまい修学院道しゅうがくいんどうむかってんでったのである。
 ――当然とうぜんそこからはいまさがまつへんって、あわてふためいてけつけて吉岡勢よしおかぜい一団いちだんがある。ものの二十間にじゅっけんともけないうちに、武蔵むさしはその先頭せんとうとぶつかって、あとからってるものとのあいだはさまってしまわなければならないはず。
 ふたつのいきおいは、その藪道やぶみちでぶつかった。味方みかた味方みかた雄々おおしい姿すがたただけだった。
「や。むむ武蔵むさしはッ」
ないッ」
「いや、そんなはずはないが」
「でも――」
 押問答おしもんどうをしているあいだに、
「ここだッ」
 武蔵むさしがいった。
 路傍ろぼういわかげからおどりて、武蔵むさしは、かれらのれつとおしてみち中央ちゅうおうっていた。
 ――いッ。といわんばかりな第二だいに準備じゅんびかれのからだにできていた。愕然がくぜんと、それへうごきかける吉岡勢よしおかぜいは、道幅みちはばせまさに出鼻でばなから全体ぜんたいちから集中しゅうちゅういてしまった。
 人間にんげんうでながさとかたなながさとをくわえて、たい中心ちゅうしんえんえがくとなると、そのせま道幅みちはばでは、二人ふたり味方みかたならぶのさえ危険きけんである。のみならず、武蔵むさしまえったものは、ダダダダッとかかとらしてうしろへ退がってたし、後方こうほうものは、あらそってまえしてるため、大勢おおぜいというちから自体じたいが、咄嗟とっさ混乱こんらんおこして、味方みかた味方みかた足手纒あしでまといとなるばかりだった。

 ――だが、しゅうちからというものはもとよりそうもろいものではない。
 一度いちど武蔵むさし敏速びんそくと、かれしなたましいの圧倒あっとうに、
「ひッ、退くなっ」
 こしきびすも、いてえたが、
多寡たか唯一人ただひとり
 と、しゅうしゅうちから自覚じかくし、その強味つよみって、先頭せんとう三名さんめいが、
「うぬっ」
「おれが仕止しとめるっ」
 ていしてくと、しりものもそれをてはいなかった。わっという喊声かんせいだけでも、一個いっこ武蔵むさしよりははるかにつよい。
 怒濤どとうむかっておよごうとするように、武蔵むさしたたかいつつあとあとへとされるのみで、てきるよりふせぐにきゅうだった。
 手許てもとへのめりんでて、ればれるてきすらいてジリジリ退がってく。
 この場合ばあい二人ふたり三人さんにんてきっても、相手あいて総体そうたいちからからいえば、なんの痛痒つうようかんじないばかりでなく、間髪かんぱつあやまれば、やりびてくるからである。――太刀たちさきには、およそ「」をっていることができるが、大勢おおぜいなかにいて、穂先ほさきちぢめているやりには「」をさっしているいとまがない。
 吉岡方よしおかがたは、いきおいにった。
 タタタタッ――と武蔵むさしかかと後退あとさがりにくばかりなので、ここぞとくまでしたのである。武蔵むさしかおはすでに蒼白そうはくなのだ。どうても呼吸こきゅうをしているかおではない。につまずくか、ひとすじのなわでもそのあしにからめばもんどりってしまうことはたしかだとおもう。しかし、死相しそうをおびている人間にんげん手許てもとへはいって、死出しでみちづれになるのはだれいやだった。そのためにわッわッとかたなやりしてゆきながらも、無数むすうのそれがみな武蔵むさしむね小手こてひざなどへわずか三寸さんずんずつさき寸伸すんのびがりなかった。
「あッ――?」
 不意ふいにまた、かれらは眼前がんぜん武蔵むさし見失みうしなって、そこのせま道幅みちはばとたった一人ひとり相手あいてには、余剰よじょうすぎる大勢おおぜいちからあまして、みずかかえした。
 ――といってもべつに武蔵むさしが、あしかぜおこしてけたわけでも、うえがったわけでもない。ただ、かれがたった一跳いっとび、そのみちからやぶなからしたにぎないのである。
 つちのやわらかい孟宗竹もうそうちく密林みつりんだった。あお縞目しまめって鳥影とりかげのような武蔵むさし姿すがたに、チカッと、金色こんじきひかりねた。あさ太陽たいようがいつのまにか叡山えいざん連峰れんぽう山間やまあいから、つとくしがたかどをあらわしているのだった。
てッ。武蔵むさし
きたなし!」
せるほうやあるっ」
 おもおもいに、大勢おおぜいたけたけのあいだをけた。武蔵むさしはもうやぶはずれの小川おがわびこえている。そして一丈いちじょうほどながけがり、ふたみっつそこで呼吸こきゅうをやすめている様子ようす
 がけうえはゆるい傾斜けいしゃっている山裾やますそはらだった。かれ一望いちぼう夜明よあけをた。さがまつつじはすぐしたであり、そのつじには、吉岡方よしおかがたぐれた人数にんずう五十名ごじゅうめいもいて、かれいま小高こだかいところにった姿すがたつけると、一斉いっせいにわッとここへせてた。
 いま人数にんずう三倍さんばいえたものが、くろにこの山裾やますそはらあつまった。吉岡方よしおかがた全勢力ぜんせいりょくである。一人一人手ひとりひとりてつなげば、おおきなけんをもって、このはらつつんでしまうこともできるほどな人数にんずうなのである。一剣いちけん燦々きらきらと、はりのようにちいさく、じっと青眼せいがんにすえたまま、武蔵むさしとおってっていた。