240・宮本武蔵「風の巻」「霧風(1)(2)」


朗読「240風の巻82.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 25秒

霧風むふう

 まるで夜叉やしゃ行為こういにひとしい。
 最初さいしょから重大視じゅうだいししていた目的物もくてきぶつでもあるかのように、武蔵むさしはなにものもいてさきに、源次郎少年げんじろうしょうねんってしまったのだ。
 酸鼻さんびとも残忍ざんにんともいいようがない。てきとはいえ、ものかずではない少年しょうねんではないか。
 それをたおしたからといってさき勢力せいりょく微塵みじん減殺げんさいされるわけでもない。いや、かえって吉岡一門よしおかいちもんもの極度きょくどいからせ、全体ぜんたい戦闘力せんとうりょく狂瀾きょうらんのように激昂げっこうさせるにはなによりも役立やくだったろう。
 わけても源左老人げんざろうじんは、くかのような形相ぎょうそうつくり、
「――しゃあッ、よくもッ」
 顔中かおじゅうからわめきをはっし、いのうでにはすこおもげにえる大刀だいとうあたまうえりかぶったまま、武蔵むさしのからだへつかるようないきおいでむかってた。
 一尺いっしゃくほど――武蔵むさし右足みぎあし退がったとおもうと、そのあしにつれからだ両手りょうてみぎななめになり、源次郎少年げんじろうしょうねんくびすじをとおってかえったばかりのさきがすぐ、
「かッ」
 ねて――ぴゅん――とばかり源左老人げんざろうじんりかけたひじかおとをげた。
「ウウふっ」
 だれうめきともわからない。
 なぜならば武蔵むさしうしろからやりしたものが、同時どうじまえへよろめきし、源左老人げんざろうじん折重おりかさなってあけとなったし、なおうついとまもなく、武蔵むさし正面しょうめんにはすでにまたつぎにとびかかった四人目よにんめものが――これはちょうどかれ重心点じゅうしんてんしたとみえ、肋骨あばらまでられて、くびもだらんとげたまま、三歩さんぽほど生命いのちのないどうささえてあしだけであるいていたし――
出会であえッ」
此処ここだっ」
 あとろく七名しちめい時々ときどき絶叫ぜっきょうをふりしぼって味方みかたきゅうげた。だが如何いかんせん三道さんどうへわかれている味方みかたみな本陣ほんじんとは相当そうとう距離きょりをおいて潜伏せんぷくしているので、まだきわめて秒間びょうかんぎないここの異変いへんすこしもらず、またかれらの必死ひっしなさけびも、松風まつかぜ大竹藪おおたけやぶそよぎにまぎれて、むなしくちゅうえてしまう。
 保元ほうげん平治へいじむかしから、平家へいけ落人おちゅうどたちが近江おうみえにさまようたむかしから、また親鸞しんらんや、叡山えいざん大衆たいしゅうみやこ往来ゆききしたむかしから――何百年なんびゃくねんというあいだをこのつじってさがまついまおもいがけない人間にんげん生血いきち土中どちゅうって喊呼かんこしてよろこぶのか、啾々しゅうしゅうととうれいて樹心きごころくのか、その巨幹きょかんこずえさきまで戦慄せんりつさせ、けむりのような霧風きりかぜぶたびに、傘下さんかけん人影ひとかげへ、つめたいしずくをばらばらとらせた。
 ――一個いっこ死者ししゃ三名さんめい傷負ておいは、息一いきひとつするあいだにこのりつめた圏内けんないから無視むしされてしまったのだ。相互そうごがハッと呼吸いきあらためたせつなには、武蔵むさし自分じぶんさがまつみきへひたッとりつけていた。ふたかかえもあるまつみき絶好ぜっこうまもりかにえる。しかし武蔵むさしはそこになが膠着こうちゃくしていることはかえって不利ふりとしているらしい。まなは、けわしくかたなのみねからななつのてきかおをひきつけながらつぎあんじていた。
 こずえこえ――くもこえ――やぶこえ――くさこえ――あらゆるものがそよおののいているかぜなかに、そのとき
さがまつけっ!)
 何者なにものかが、はるかから、こえをからしておしえていた。
 ちかくの小高こだかおかうえだ。手頃てごろなところをえらんで、そこのいわこしをかけていた佐々木小次郎ささきこじろうが、いつのまにかいわうえち、三道さんどうやぶ木蔭こかげしずんでいる吉岡勢よしおかぜいむかって、
(わういッ、おおういっ。――さがまつだっ、さがまつ出会であえっ!)

 鉄砲てっぽうおとだった、そのとき人々ひとびとつよ音波おんぱみみふたされた。
 かたがた小次郎こじろうこえも、大勢おおぜいのうちのだれかにはきこえたはずである。
 ――素破すわっ。
 動揺どよめいた大竹藪おおたけやぶや、木蔭こかげ岩蔭いわかげや、あらゆる物蔭ものかげからくようにおどした三道さんどう伏勢ふしぜいが、
「ヤ、ヤ?」
すでにっ」
追分おいわけ追分おいわけ
かれているぞッ」
 みち三方さんぽうから各々おのおの二十名以上にじゅうめいいじょうひとが、のぞんであつまる奔流ほんりゅうのように疾駆しっくした。
 武蔵むさしいま――鉄砲てっぽう轟音ごうおん同時どうじに、さがまつみきをくるっと自分じぶんでこするようにうごいた。たまかれかおからすこれてみきへぶすんとあたった。――そしてそのまえやりかたなぜて七本ななほんさきそろえたまま対峙たいじしていた、七名ななめいも、ズズズズズとかれうごきにられてみきまわってゆく。
 ――と。いきなり武蔵むさしは、七人ななにんひだりはしにいたおとこへ、青眼せいがんけんけたままだッとした。そのおとこはしかも吉岡十剣よしおかじゅっけんなか一人ひとりだった小橋こばし蔵人くらんどであったが、あまりにもはやおそろしいかれいきおいに、
「――あ、あッ」
 こえをあげて、おもわず、片脚立かたあしだちにわすと、武蔵むさしは、空間くうかんきながら、そのままタタタタッ――とてしなくなおしてく。
 武蔵むさして、
「やるなッ」
 と、すがり、びかかり、一斉いっせいびせようとした刹那せつなかれらの結合けつごうはばらばらになり、かれらの個体こたいもでたらめにかまえをうしなっていた。
 武蔵むさしたいが、分銅ふんどうのようにかえって、さきって御池十郎左衛門みいけじゅうろうざえもんよこなぐった。十郎左衛門じゅうろうざえもんは、直感ちょっかんに、
かれ詭策きさく
 とさとって、あしにふくみをっていたので、武蔵むさしかたなは、かれかえった胸先むなさきよこかすめたにぎない。
 けれど武蔵むさしかたなは、つね術者じゅつしゃむように、いっしんいっとう――つまりそんじたかたなちからがそれなり空間くうかんうしなわれて、また太刀たちなおしてむというような――そんな速度そくどののろいものではなかったのである。
 かれは、というものにつかなかったために、その修行しゅぎょううえで、そんもしくるしみもしたろうが、たないために、えきもあった。
 それはなにかといえば、既成きせい流派りゅうはかたち鋳込いこまれなかったことである。かれ剣法けんぽうにはしたがってかたち約束やくそくも、また極意ごくいなにもない。六合りくごう空間くうかんかれえがした想像力そうぞうりょく実行力じっこうりょくとがむすびあってうまれた無名無形むめいむけいけんなのである。
 たとえばこのさい――かれさがまつ決闘けっとう御池十郎左衛門みいけじゅうろうざえもんったとき刀法とうほうなどでもしかりで、十郎左衛門じゅうろうざえもんはさすがに吉岡よしおか高足こうそくだけに、武蔵むさしげるとせてかえりざまはらったかたなは、たしかにわしていたのである。――それが京流きょうりゅうにせよ、神陰流しんかげりゅうにせよ、何流なにりゅうでもこれまでの既成剣法きせいけんぽうならばそれで十分じゅうぶんんはずたといっていい。
 ところが、武蔵独自むさしどくじけんはそうでなかった。かれかたなにはかならかえりがある。みぎってゆくかたな同時どうじにすぐひだりかえってくる原動力げんどうりょくをふくんでいるのだった。ゆえにかれけん空間くうかんえがひかりをよくをつけてみると、かならず、そのはやひかり松葉まつばのように一根二針いっこんにしんすじをひいてはしってはすぐかえしててきげている。
 わっ……とさけぶあいだに、その燕尾えんびごとかえったさきにあたって、御池十郎左衛門みいけじゅうろうざえもんかおは、やぶれた鬼燈ほおずきのようにまった。