239・宮本武蔵「風の巻」「生死一路(5)(6)」


朗読「239風の巻81.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 23秒

 のめるような急坂きゅうはんだった。豪雨ごううでもあればそのままたきとなるようなみちに、あらされたいしころがもろつちにすがっている。
 武蔵むさしが、一気いっきりてゆくと、いしころやつちが、かれかかといかけて静寂しじまやぶった。
「あっ」
 なにものかがれたのであろう、武蔵むさし突然とつぜんからだまりにして、くさなかころがった。
 くさはまだ朝露あさつゆ一滴いってきもこぼしていない。ひざむねみずびたしになってしまう。かがみんだ野兎のうさぎのように、武蔵むさしさがまつこずえ凝視ぎょうしする。
 足数あしかずにしても、そこまではもう何十歩なんじゅっぽでもはかることができよう。そしてさがまつつじ位置いちはこの坂下さかしたよりさらに幾分いくぶん低地ていちになっているため、そのこずえ比較的低ひかくてきひくられる。
 ――武蔵むさした。
 うえひそんでいる人影ひとかげを。
 しかもそのおとこ飛道具とびどうぐっているらしい。それも半弓はんきゅうではない、鉄砲てっぽうらしいのだ。
卑怯ひきょうな!)
 と、いきどおってまた、
一人ひとりてきに)
 と、あわれみもしたが、さりとて予期よきしていないことではなかった。これくらいな用意ようい当然とうぜんあるものと心構こころがまえにはれていたことである。吉岡方よしおかがたでもまた、まさか自分じぶんがただ一名いちめいでここへのぞむものとはかんがえていないにちがいない。そうすると飛道具とびどうぐそなえもあるほうがむしろかしこいことだし、それもいっちょう二挺にちょうではないものとなければなるまい。
 だが、かれ位置いちからは、さがまつこずえだけにしか発見はっけんできなかった。飛道具とびどうぐものみなうえひそんでいるものという見解けんかいつのも早計そうけいであり危険きけんである。半弓はんきゅうならばいわのかげや低地ていちにもかくれていようし、鉄砲てっぽうならば、この山腹さんぷくからってもあたる。
 しかし、たったひと武蔵むさしにとって有利ゆうりだったのは、うえおとこも、したひとかたまりも、みなこっちにけていることだった。追分おいわけから三方さんぽうみちがわかれているだけに、かれらは背後はいごやまわすれていた。
 うように武蔵むさし徐々じょじょをすすめた。かたなのこじりのたかさよりもあたまほうひくくしてった。そしてにわか小走こばしりになり、ツ、ツ、ツ、ツ、ツ――と巨松きょしょうみきちかづきかけると、二十間にじゅっけんほどてまえで、
「――あッ」
 こずえおとこが、ふと、そのかげ発見はっけんして、
武蔵むさしだっ!」
 と、さけんだ。
 天空てんくうからそのこえひびいたにもかかわらず、武蔵むさしはまだ、おな姿勢しせいのまま十間じゅっけんたしかにけた。
 かれは、その秒間びょうかんだけは、けっしてたまないということを、むねうちはかっていた。なぜならば、こずえうえ人間にんげんは、えだまたがって、三道さんどうほう銃口つつぐちけながら見張みはっていたからである。うえなので、位置いちなおさなければならない、また小枝こえださまたげられて、銃身じゅうしんもすぐにはけられまい。
 ――こうはかって、その秒間びょうかんだけは安全あんぜんおもっていた。
「なにッ――?」
「どこへっ」
 これは、さがまつした本陣ほんじんとしてならんでいた十名じゅうめいほどの異口同音いくどうおんだった。
 つぎ瞬間しゅんかんには、また、
うしろだい」
 と、ちゅうおとこがいった。
 のどけそうなこえでわめいたのである。そのときはもうこずえうえであわててなおした銃口じゅうこうが、武蔵むさしあたま正確せいかくいていた。
 まつこまかいとおって、火縄ひなわがチラ――とこぼれた。武蔵むさしひじおおきなえんえがいたのはその咄嗟とっさであった。のうちににぎられていたいしうなりをあげて、線香せんこうほどにえる火縄ひなわひかりへぴゅっとんでった。
 ――みりっと小枝こえだけるひびきと、あッと其処そこでいったさけびとがひとつになって、きりうえから地面じめん一個いっこ物体ぶったいいきおいよくほうした。勿論もちろんそれは人間にんげんである。

「――オおっ」
武蔵むさしっ」
武蔵むさしだっ」
 うしろにたない人間にんげんであるかぎり、このおどろきは当然とうぜんえた。
 三道さんどうそれぞれなところに、みずらさぬ前衛ぜんえいそなえをかためていただけに、なんの予報よほうもなく、この中核部ちゅうかくぶで、いきなり武蔵むさし姿すがたむかえようなどとは、夢想むそうだにもしていなかった吉岡方よしおかがた狼狽ろうばい無理むりではない。
 わずか十名じゅうめいらないそこの人数にんずうではあったが、不意ふい大地だいちげられたかのごとく、味方同士みかたどうしこしさやさやをぶつけい、また、なおやり味方みかたものあしもとをつまずかせ、またもの不必要ふひつようなほどとおくへよこびにわし、そしてまだおどろらないように、
「こ、小橋こばしっ」
御池みいけっ」
 と朋友ほうゆうを、無用むよう高声こうせいったり、
かるなっ!」
 と自分じぶん心胆しんたんさえさだまらないのにほかいましめたり、
「な、な、なにをッ」
「く、くッ! ……」
 言葉ことばにならない言葉ことばはしからりきしたりして、どうにかぎらぎらきつれたかたなやり幾筋いくすじとが、武蔵むさしむかって半円はんえんそなえかけたかとえたときとう武蔵むさしは、
約定やくじょうによって、生国しょうごく美作みまさか郷士宮本無二斎ごうしみやもとむにさい一子武蔵いっしむさし試合しあいまいりました。名目人源次郎めいもくじんげんじろうどのはいずれにおわすか。さき清十郎殿せいじゅうろうどの伝七郎殿でんしちろうどののごとき御不覚ごふかくあるなよっ。ご幼少ようしょうとのことゆえ助人すけびと何十人なんじゅうにんたりとも存意ぞんいのままみとめおく。ただし武蔵むさしはかくのごと唯一名ただいちめいにてまいったり。一人一人ひとりひとりかからるるとも、そうがかりにられるともそれも勝手かって。いでやっ!」
 と、凛々りんりん、こういいはなつ。
 まさしく挨拶あいさつされたのもかれらにはまた意外いがいだった。礼儀れいぎたいして礼儀れいぎらないはじ骨身ほねみにこたえたらしいが、平常へいぜいのそれとはちがって、この場合ばあいのそれは十分じゅうぶん余裕よゆうというものからでなければうまれてない。くちつばさえ途端とたんかわいているしたでは、
おそいぞッ、武蔵むさしっ」
おくれたかっ」
 ぐらいなことしかいえなかった。
 にもかかわらず、武蔵むさしが、唯一名ただいちめいにてまいったりという言葉ことばだけはたしかにって、そうだ相手あいて一名いちめいなのだと、きゅう強味つよみよみがえってきたらしくもえる。けれど源左老人げんざろうじんや、御池十郎左衛門みいけじゅうろうざえもんらの老巧ろうこうは、そういううらかんがえて、それをもってかえって武蔵むさし奇策きさくとなし、畢竟ひっきょう武蔵むさし助太刀すけだちはどこか附近ふきん姿すがたをかくしているものと疑心暗鬼ぎしんあんきざしがせわしない。
 ――びゅっ!
 どこかで弦音つるおとがした。
 武蔵むさしきはなったかたな刃風はかぜのようにもそれがきこえて、かれかおむかってんで一本いっぽんは、同時どうじにパッとふたつになって、かたのうしろとかたなさきへきれいにちた。
 ――とえた視線しせんはもうそこへのこされ、武蔵むさしからだかみ逆立さかだてた獅子ししのように、まつみきかくれていたそこのかげのものへむかって一足跳いっそくとびにおどっていた。
「キャッ。こわいっ!」
 っておれと吩咐いいつけられたとおりに、最初さいしょからそこにっていた源次郎少年げんじろうしょうねんは、悲鳴ひめいをあげて、まつみききついた。
 そのさけびに、ちち源左老人げんざろうじんが、自分じぶん真二まっぷたつにられたようなこえで、わあーッと彼方かなたがったとおもうと、武蔵むさしかたなによってえがかれたいっせんが、どうげられたのか、まつ皮二尺かわにしゃくあまりを薄板うすいたのようにぎ、そのかわといっしょに前髪まえがみおさなくびしおのしたおとしていた。