236・宮本武蔵「風の巻」「はぐれた雁(4)(5)」


朗読「236風の巻78.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 24秒

 そこでその事実じじつを、彼女自身かのじょじしんはなすところによると、こうである。
 ――ついいまがたのこと。
 彼女かのじょが、このさわ渓流けいりゅうえ、そしてここからもえるまえの――突兀とっこつとした岩山いわやま中腹ちゅうふくまでかかってくと、ちょうどその山肌やまはだ肋骨あばらあたりになる岩頭がんとうに、にもおそろしい妖怪ようかいこしかけていて、つきながめていたというのである。
 真面目まじめにはかれないはなしのようだが、朱実あけみ真面目まじめになって、
とおくからたんですけれど、からだ侏儒こびとみたいにちいさいくせに、かおはといえば、大人並おとななみおんななのです。そしてかおは、しろいのをとおしてなんともいえないいろび、くちみみまでキュッとけていて、しかも、わたしほうて、ニヤリとわらったようながしたんです。――おもわずそのときわたしはキャッとさけんでしまったものでしょう。無我夢中むがむちゅうでした。がついたときは、このさわすべちていたんです」
 と、いう。
 いかにもこわかったように、朱実あけみがそうはなすので、又八またはちは、わらうまいとしながらもつい、
「ハハハハ。なアんだ」
 と、揶揄やゆして、
伊吹山いぶきやまのふもとでそだったおめえが、こわいなんていうと、もののほうで顔負かおまけするだろう。りんえている戦場いくさばあるいて、死骸しがい太刀たちよろいいだことさえあるじゃねえか」
「でも、あのころは、こわいこともなにもらなかった子供こどもですもの」
「まんざら子供こどもでもなかったらしいぜ。そのころのことを、いまだにむねおもって、わすれずにいるのをても」
「それやあ、はじめてったこいですもの。……だけどもう、わたしはあのひとを、あきらめてはいるんですよ」
「じゃあなぜ、一乗寺村いちじょうじむらへなどかけてくのか」
「そこの気持きもち自分じぶんにもわからないんです。ただ、ひょっとしたら武蔵様むさしさまえやしないかとおもって」
無駄むだなこった」
 ひどくそこで、又八またはち言葉ことばちからをこめ、まんひとつも勝目かちめのない武蔵むさし立場たちばと、相手方あいてがた情勢じょうせいとをいってかせた。
 すでに清十郎せいじゅうろうから小次郎こじろうと――幾人いくにんかの男性だんせいとおって、処女おとめであったきのうの自分じぶんが、もうおものものになっている彼女かのじょには、武蔵むさしかんがえたりおもったりすることも、もう処女おとめであったころのように、未来みらいはな夢想むそうしてかんがえることはできなくなっていた。肉体的にくたいてきにその資格しかくうしなった自分じぶんつめたく諦観ていかんして、にはぐれ、きはぐれながら、つぎみちをさがしているまよえるかり一羽いちわていた。
 だから彼女かのじょは、又八またはちから、武蔵むさし今刻々いまこっこく危機ききちかづいている様子ようす如実にょじついても、くほどな気持きもちにはなってなかった。――ではなぜ、こんなところまで、恋々れんれん彷徨さまよってきたかとかれれば、その矛盾むじゅん説明せつめいすることのできない彼女かのじょであった。
「…………」
 くての方角ほうがくうしなったようなひとみをして、朱実あけみは、又八またはちのことばを、ゆめうつつにいていた。又八またはちは、その横顔よこがおだまってていた。――なにかしら彼女かのじょ彷徨さまよっているところと、自分じぶん彷徨さまよっているところとが、ているようにおもわれてならない。
(このおんなみちづれをさがしている――)
 そうえるしろ横顔よこがおだった。
 又八またはちは、ふいに、彼女かのじょかたかかえた。そしてかおしつけるようにして、
朱実あけみ江戸えどげないか……」
 と、ささやいた。

 朱実あけみは、いきをのんだ。
 うたがうように、又八またはちをじっとつめ、
「え。……江戸えどへ?」
 ふと、自分じぶんかえって、現実げんじつ境遇きょうぐう見直みなおすように反問はんもんした。
 彼女かのじょかたまわしているに、又八またはちはそっとちからをこめて、
「なにも江戸表えどおもてとはかぎらないが、ひとうわさけば、関東かんとう江戸表えどおもてこそこれからの日本にほん覇府はふになるだろうというはなしだ。いままでの大坂おおさか京都きょうとはもうふるみやことされ、新幕府しんばくふ江戸城えどじょうめぐって、あたらしいまちがどしどしっているそうだ。――そういう土地とちって逸早いちはやめばきっとなにかうまい仕事しごとがあるだろう。おめえもおれも、いわばれからはぐれたまよがりだ。……かないか。……ってみないか。……え、朱実あけみ
 ささやかれている彼女かのじょかおがだんだん熱心ねっしんいていた。又八またはちはなおくちきわめて、なかひろさや、自分じぶんたちのわか生命いのちたたえて、
面白おもしろくらすんだ、したいことをしておくるんだ。それでなけれやうまれた甲斐かいはない。もっとおれたちは図太ずぶとはらとうじゃねえか。せんふと世渡よわたりをしなけりゃあうそだ。生半可なまはんか正直しょうじきに、善良ぜんりょうにと、量見りょうけんくしようとするほど、かえって運命うんめいッてやつは、ひとなぶったり皮肉ひにくったり、ベソをくようなことばかり仕向しむけてやがって、ろくみちひらけてやしねえ。……え、朱実あけみ、おめえだってそうじゃねえか。おこうっていうおんなにしろ、清十郎せいじゅうろうというおとこにしろ、そんなものになって、われているからわるいのだ。人間にんげんにならなけれやあ、このつよきちゃかれねえぜ」
「…………」
 朱実あけみこころうごかされた。よもぎのりょうといういえからはなばなれに世間せけん巣立すだって、自分じぶんはその世間せけんさいなまれてただけであるが、さすがに又八またはちおとこだけあって、以前いぜんよりもどこかしっかりしたところが人間にんげん出来できてきたようにおもわれた。
 けれど、彼女かのじょあたまのどこかに、まだがた幻影げんえいがちらちらしていた、それは武蔵むさしかげであった。けたいえあとってはいでもながめてみたいとする――おろかな執着しゅうちゃくにそれはていた。
いやか」
「…………」

 だまって、朱実あけみはかぶりをった。
「じゃあ、こう。いやでなければ――」
「だけど、又八またはちさん、おっさんは、どうするつもり?」
「ア。おふくろか」
 又八またはちは、彼方あなた見上みあげて、
「おふくろは、武蔵むさし遺物かたみさえれれば、一人ひとり故郷くにかえってくさ。あのまま姥捨山うばすてやまのようなところにりをったとったら、一時いちじはかんかんにおこるだろうが、なあにいまおれ出世しゅっせしてやればそれであわせはつく。――そうきまったら、いそごうぜ」
 意気込いきごんで、さきあるいてせると、朱実あけみはまだなにか躊躇ためらって、
又八またはちさん、ほかのみちきましょう、そのみちは」
 と、すくんでいう。
「なぜ」
「でも、そのみちのぼってくとまた、あのやまかたに」
「アハハハ。くちみみまでけている侏儒こびとるというのか。おれがついているから大丈夫だいじょうぶだ。……アッいけねえ。おばばやつ彼方むこうんでやがる。侏儒こびと妖怪ばけものよりゃあ、おふくろのほうがよっぽどこわいぞ。朱実あけみつかると大変たいへんだ、はやいっ」
 ――がってふたつのかげ岩山いわやま中腹ちゅうふくふかくかくったころちくたびれたお杉婆すぎばばこえ谷間たにまうえで、
「せがれようっ……又八またはちようっ……」
 むなしく彷徨さまよあるいていた。