235・宮本武蔵「風の巻」「はぐれた雁(2)(3)」


朗読「235風の巻77.mp3」7 MB、長さ: 約 8分 09秒

 どこともわからない、たった一声ひとこえしたきりの悲鳴ひめいだった。つぎ悲鳴ひめいがしたらこえ方角ほうがく的確てきかくれよう。――それをつもののように、又八またはちばばも、じっと空虚うつろかおして、疑惑ぎわくなかちすくんでいた。
「……あっ?」
 突然とつぜん、お杉婆すぎばばがこういったのは、その不審ふしん悲鳴ひめいがまたきこえたのではなく、なにおもったか、又八またはち不意ふいに、がけかどにつかまって、そこからたにりてこうとする様子ようすたからであった。
「ど、どこへくのじゃ」
 あわてて、とがめると、
「このしたさわだ」
 もう崖道がけみちしずめかけながら又八またはちがいう。
「おふくろ、ちょっと、そこにっていてくれ。――るから」
阿呆あほう
 お杉婆すぎばばは、つい、いつもの口癖くちぐせして、
「なにをさがしにくのじゃ、なにを? ……」
「なにをッて、いまきこえたじゃねえか、おんな悲鳴ひめいが」
「そんなものたずねてどうするかよ。――あれっ、阿呆あほうめいというに、めいというに」
 うえからばばおめいているまに、又八またはちみみもかさず、にすがりながらふかさわりてしまった。
「ばっ、ばかものっ」
 とつきののしっている老母ろうぼのすがたを、又八またはちふかさわそこから、しに見上みあげていた。
「――ってろようっ、そこで」
 したから呶鳴どなったが、そのこえがおすぎにはとどいてかないほど、かれりてがけふかかった。
「はてな?」
 又八またはちはすこし後悔こうかいした。たしかにさっきの悲鳴ひめいはこのさわあたりのようにおもわれたが、もしちがっていると、無駄骨むだぼねることになる。
 ――しかしつきひかりとどかないほどなこのさわも、よくはたらかしてみると小道こみちがある。やまといってももとよりこのあたりのやまなのでそうふかかろうはずはない。それに京都きょうとから志賀しが坂本さかもと大津おおつかよ近道ちかみちでもあるので、どこへりても市人いちびとんだあしあとかならずついている。
 さらさらとちいさなたきになってちてゆくみずいて、又八またはちあるいてった。すると、そのながれを横断おうだんして左右さゆうやま中腹ちゅうふくへわたっている一筋ひとすじみちがあった。かれ発見はっけんしたのは、ちょうどその道筋みちすじにあたっている渓流けいりゅうそばであった。
 石魚いわなきの寝泊ねとまりする石魚小屋いわなごやかもれない。ほんの人間にんげんひとりはいれるぐらいなほッ建小屋たてごやがそこにある。――その小屋こやうしろにかがまっている人間にんげんしろかおとをちらとたのである。
「……おんなだ?」
 又八またはちは、いわかげにかくれた。さっきの悲鳴ひめいも、おんなのであればこそかれ猟奇りょうき興奮こうふんられたのである。おとここえであったら最初さいしょからこんなさわりてはないだろう。――それがいま、その正体しょうたいうかがってみると、たしかにおんなで、しかもわかいらしい。
 ――なにをしているのか?
 と最初さいしょうたがっていたが、ていると、うたがいはすぐけた。おんなは、ながれのそばへって、しろみずすくって、くちうつしているのであった。

 びくっと、おんな鋭感えいかんかえった。又八またはち跫音あしおとを、昆虫こんちゅうのようにからだかんじて、すぐちかけそうなであった。
「――おやっ?」
 又八またはちが、こえはなつと、
「あっ?」
 おんなおなじようにおどろいていった。しかしそれは、恐怖きょうふからすくわれたようなこえだった。
朱実あけみじゃねえか」
「……あ、あ」
 そこの谷川たにがわんだみずが、やっといまむねがったように、朱実あけみおおきくいきをついた。
 けれどまだ何処どこかおどおどしているそのかたをつかまえて、
「どうしたんだ朱実あけみ
 又八またはちは、彼女かのじょあしからかお見上みあげて、
「おめえも、旅支度たびじたくだな、たびつにしても、こんなところ今頃いまごろ――なにしにあるいているのだ」
又八またはちさん。あなたのおっさんは?」
「おふくろか、おふくろは、この谷間たにまうえたせてある」
おこっていたでしょう」
「あ、路銀ろぎんのことか」
「わたしはきゅうに、旅立たびだちしなければならなくなったのです。けれど、旅籠はたご借銭しゃくせんはらえないし、路用ろようのおかねもないので、わるいこととりながら、おばばさんの荷物にもつ一緒いっしょにあった紙入かみいれを、つい出来心できごころで、だまって、っててしまった。……又八またはちさん、堪忍かんにんしてください。そして、わたしを見逃みのがしてください。きっとあとかえしますから」
 さめざめとごえうちに、朱実あけみあやまるのを、又八またはちはむしろ意外いがいかおして、
「おい、おい。なにをそうあやまるのだ。……アアわかった。おれとおふくろが二人ふたりして、おめえをつかまえるために、ここへいかけてたと勘違かんちがいしているんじゃねえか」
「でも、わたしは、出来心できごころにしろ他人ひとさまのおかねってげたんですから、つかまれば、泥棒どろぼうといわれても仕方しかたがありませんもの」
「それやあ、おれのおふくろのぐさだ。おれにとれば、あれぐらいなかね、おめえが真実困しんじつこまっているならこっちからやりたいくらいだ。なんともおもっちゃいねえから、そんな心配しんぱいはしないがいい。――それよりはなんのために、きゅう旅支度たびじたくして、こんなところ今頃歩いまごろあるいているのか」
旅籠はたごはなれで、あなたがおっさんにはなしていたことを、ふと、かげいていたものですから」
「フーム、すると、武蔵むさし吉岡勢よしおかぜいとの、きょうのはたいの一件いっけんだな」
「……ええ」
「それできゅうに、一乗寺村いちじょうじむらくつもりでやってたのか」
「…………」
 朱実あけみこたえなかった。
 ひといえくらしていたころから、朱実あけみむねかくしていたものはなにか、それは又八またはちもよくっていた。――でかれは、ふかくはわずに、
「そうそう」
 きゅう言葉ことばえて、
いまがた、このへんで、キャーッという悲鳴ひめいえたが、あれはもしや、おめえのこえではなかったか」
 と、このさわりて目的もくてきかえって、そうくと、
「エ。わたしでした」
 朱実あけみはうなずいた。
 そしてまだなにか、恐怖きょうふゆめでもているように、このさわくぼから突兀とっこつそらくろえているやまかたあおいだ。