234・宮本武蔵「風の巻」「木魂(11)はぐれた雁(1)」


朗読「234風の巻76.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 28秒

十一

 凡事ただごとともおもわれない。
 だれさけびか。また、何事なにごとおこったのか。
 われをまされたように、おつうをやって、きりのかかっているみねいただきあおいでいたが、そのしお武蔵むさしは、つと彼女かのじょそばはなれ、
(おさらば)
 ともいわず――彼方かなた死地しちへさしてあし大股おおまたいそぎかけていた。
「あっ、もう……」
 おつう十歩追じゅっぽおうと、武蔵むさし十歩駈じゅっぽかけて、そして振顧ふりかえった。
「おつうさん、よくわかった。――だが犬死いぬじにをしてはならないぞ。不幸ふこうめられて、谷間たにますべちてくような、よわかたをしてはならないぞ。も一度いちどそのからだ健康けんこうもどしてから、健康けんこうこころでよくかんがえてみるといい。わしだってこれから無駄むだ生命いのちてにいそぐわけじゃない。永遠えいえんせいをつかむために一時いちじのかたちをるだけのことだ。――わしのあとにいてんでくれるよりは、おつうさん! のこってながていてくれ、武蔵むさしからだつちになっても、武蔵むさしはきっときているから!」
 いいつづけたいきのまま、武蔵むさしはもう一言ひとこと
「いいか、おつうさん! わしのあといてるつもりで、見当けんとうちがいなほう一人ひとりってしまうなよ。わしのんだというかたちて、武蔵むさし冥途めいどさがしても、武蔵むさし冥途めいどにはっていない。武蔵むさしがいるところは、百年後ひゃくねんごでも千年後せんねんごでも、このくに人間にんげんなかだ、このくにけんなかだ。ほかにはいない」
 いいてると、もう、おつうつぎのことばがとどかないほうまで、かれ姿すがたとおざかっていた。
「…………」
 茫然ぼうぜんとおつうのこっていた。とおってゆく武蔵むさしかげは、自分じぶんむねからした自分自体じぶんじたいであるような心地ここちだった。――わかれというかなしみは、ふたつのものの離散りさんからしょうじる感情かんじょうなので、おつういま気持きもちには、わかれのかなしみというような、そんなべつべつな意識いしきかなしみはてなかった。ただ、おおきな生死せいしなみってかれようとしている彼身此身かのみこのみの、ひとつたましいにふと戦慄せんりつをふさぐだけだった。
 ――ざ、ざ、ざ、ざ
 とそのときがけうえから、つち彼女かのじょ足元あしもとまでくずれてた。すると、その土音つちおといかけるように、
「――わあっ」
 と城太郎じょうたろうが、くさ掻分かきわけてりてた。
「まあっ!」
 おつうでさえ、ぎょっとした。
 なぜならば、城太郎少年じょうたろうしょうねんは、奈良なら観世かんぜ後家ごけからもらった鬼女きじょ笑仮面わらいめんを、こんどは烏丸家からすまるけかえらないものとおもって大事だいじにふところへ所持しょじしてかけてたらしく、るといま、その仮面めんかおにかぶって、
「ああ、おどろいた!」
 と、ふいにまえって、両手りょうてげたからである。
「なんですっ? 城太じょうたさん」
 おつううと、
「なんだか、おいらもらないけど、おつうさんにもきこえたろ。キャーッっていったおんなこえがさ」
城太じょうたさんは、それをかぶって、どこにいたの」
「このがけをずっとのぼってったら、そこにもこのくらいなみちがあってね、そのみちのもっとうえほうに、ちょうどすわりいいおおきないわがあったから、そこにこしかけて、ぽかんと、お月様つきさまちてくのをていたのさ」
「それをかぶって?」
「うん、……なぜっていえば、そこいらでやたらに、きつねいたり、たぬきだかむじなだかれないやつがゴソゴソするから、仮面めんをかぶって威張いばっていたらりつけまいとおもったからさ。――するとね、どこかでふいにキャーッというこえがしたんだ。なんだろうあのこえは。まるではりやまからきた木魂こだまみたいなこえだったぜ」

はぐれたかり

 東山ひがしやまから大文字だいもんじふもとあたりまではたしかに方角ほうがくはついていたが、いつのまにかみち間違まちがえていたとみえ、一乗寺村いちじょうじむらるにはすこしやまはいぎていた。
「これさ、なぜそうせかせかいそぐのじゃ。たぬかよ。又八またはち又八またはち
 さき息子むすこあしおくれがちになると、お杉婆すぎばばは、意地いじ我慢がまんもなくなったようにあとからあえいでいう。
 きこえよがしに、舌打したうちして、
「なんだくちほどもない。宿やどとき、なんといっておれをしかりとばしたか」
 ってやらないわけにもゆかないので、又八またはちはそのたびごとに、あしめてちはするが、こんなときとばかり、あとからやっといついて老母ははあたまからやりこめた。
「なにをそう不機嫌ふきげんにわしへあたりちらすのじゃ、のように、みのおやのいうことを、いちいちって遺恨いこんがましゅうあたものがどこにあろうぞ」
 しわなかあせいて、ほっと一息休ひといきやすもうとすると、又八またはちわかあしは、っているほうつらいので、もうさきあるすのだった。
「これたぬか。すこやすんでこうぞよ」
「よくやすむなあ、けてしまうぜ」
「なんの、まだあさまでにはだいぶある。つねならば、これしきの山道やまみちにもせぬが、この三日さんにち風邪かぜ気味ぎみからだ気懈けだるうてあるくといきれてならぬ。わるおりにぶつかったものよ」
「まだしみをいってるぜ。だから途中とちゅうで、居酒屋いざかやをたたきおこして、ひと折角親切せっかくしんせつやすませてやろうとすれば、そんなときには、自分じぶんみたくねえものだから、やれ時刻じこくおくれるの、さアかけようのと、おれがおちおちとさけまねえうちにってしまうしよ。いくらおやでも、おふくろぐれえ交際つきあにく人間にんげんはねえぜ」
「ははあ、ではあの居酒屋いざかやで、さけませなかったというて、それを、まだおこっていやるのか」
「いいよ、もう」
「わがままもほどにしたがよい、大事だいじをひかえて途中とちゅうだぞよ」
「といったところでなにもおれたち母子おやこやいばなかびこむわけじゃなし、勝負しょうぶのついたあと吉岡方よしおかがたのものにたのみ、武蔵むさし死骸しがい一太刀恨ひとたちうらんで、手出てだしのできない死骸しがいから、かみでももらって故郷くに土産みやげにしようというだけのものじゃねえか、大事だいじ大変たいへんもあるものか」
「ままよいわ、ここでと、母子おやこ喧嘩げんかをしてみてもはじまるまいでの」
 あるすと――又八またはちはぶつぶつひとごとに、
「ああ、ばかばかしいな。他人たにんころした死骸しがいからあかしもらって、これでめでたく本懐ほんかいたっしてございと故郷くにかえって披露ひろうする。故郷ふるさとやつらは、どうせあの山国やまぐにほかたことのない人間にんげんばかり、本気ほんきになって目出度めでたがることだろうが……いやだなあ、またあの山国やまぐにくらすのは、かんがしてもぶるぶるだ」
 なださけだのみやこおんなだの、又八またはちった都会生活とかいせいかつのあらゆるものがかれ未練みれんをささやいてやまなかった。ましてかれにはまだそれ以上いじょう執着しゅうちゃくがこの都会とかいにある。あわよくば、武蔵むさしあるいた道以外みちいがいみちつけ、とんとん拍子びょうし立身りっしんして、まだ不足ふそく物質ぶっしつ世界せかい体験たいけんにその飽満ほうまんさせて、人間にんげんうまれがいをそこに自覚じかくしてみたいという――かれらしい希望きぼうさえまだけっしてててはいない。
(ああいやだ。ここからてさえ町中まちなかこいしい)
 いつのにやらまた、お杉婆すぎばばはだいぶあとのこされていた。宿やどまえからからだだるだるいといっていたが、まったくいくらかからだ調子ちょうしわるいのかもれない。とうとうったように、
又八またはちすこうてくれぬか。後生ごしょうだによって、すこうてくれい」
 といった。
 又八またはちは、かおしかめた。
 つらふくらませたまま、返辞へんじもせずにっていたのである。すると、お杉婆すぎばばかれもぎょっとしたようにみみそばだてた。――さき城太郎じょうたろうおどろき、おつういた、あのはりやま悲鳴ひめいおんなさけびを、この母子おやこいたのであった。