233・宮本武蔵「風の巻」「木魂(9)(10)」


朗読「233風の巻75.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 14秒

 ことばをやすめて、
「おつうさん!」
 とさらに、ことばにちからをこめなおして、武蔵むさしはなおいった。
 いつも無口むくち無表情むひょうじょうかれがめずらしく感情かんじょうのなかにぼっって、
とりまさなんとするやだ。まさなんとしているこの武蔵むさしだ。おつうさん、わしのいまいう言葉ことばには微塵みじんうそてらいもないことをしんじてくれ。――羞恥はじ見得みえもなくわしはいう。今日きょうまで、おつうさんのことをおもうと、ひるもうつつながあった。よるぐるしくてあつあつゆめばかりになやまされ、くるいそうなばんもあった。おてらてもしても、おつうさんのゆめはつきまとい、しまいにはうすわらぶとんをおつうさんのつもりできしめてがみをしてかしたばんすらある。それほどわしはおつうさんにとらわれていた。無性むしょうにおつうさんにはこいしていた。――けれど。――けれどそんなときでも人知ひとしれずけんいてていると、くるおしいみずのようにんでしまい、おつうさんのかげも、きりのようにわしの脳裡のうりからうすれてしまう……」
「…………」
 おつうはなにかいおうとした。蔓草つるくさしろはなみたいに、嗚咽おえつしていたおもてをあげたが、武蔵むさしかおが、おそろしいほど真面目まじめ熱情ねつじょうこわばっているのをると、いきづまって、ふたたかおせてしまった。
「――そしてまた、わしはけんみちへ、こころんでったのだ。おつうさん、このさかいが、武蔵むさし本心ほんしんだった。つまり恋慕れんぼ精進しょうじんみちのふたすじあしかけて、まよいにまよい、なやみになやみながら、今日きょうまでどうやらけんほうって武蔵むさしだった。――だからわしは、だれより自分じぶんをよくっている。わしはえらおとこでも天才てんさいでもなんでもない。ただおつうさんよりも、けんほうすこきなのだ。こいにはにきれないが、けんみちにはいつんでもいいがするだけなのだ」
 なにもかも正直しょうじきに――すこしのうそもなく、武蔵むさし自分じぶん本心ほんしんを――こころ奥底おくそこまで、いまこそいってしまおうとするのであったが、いたずらに、言葉ことば美飾びしょくと、感情かんじょうふるえのみがってしまって、まだまだ、正直しょうじきにいいきれないものが、むねにつかえているようでならなかった。
「だから、ひとらないが、おつうさん、武蔵むさしというおとこは、そんなおとこなのだ。もっと、露骨ろこつにいえば、そなたのことをかんがして、ふととらわれているときは、五体ごたいかれるがするが、こころが、けんみちめると、おつうさんのことなんか、あたますみへすぐかたづけてしまう。いや、こころすみにもくなってしまう。このからだ、このこころの、どこをさがしたって、おつうさんの存在そんざいなどは芥子粒けしつぶほどでもなくなってしまうのだ。――また、そのときが、武蔵むさしはいちばんたのしくてきがいのあるおとことなってあるいていたのだ。――わかったろう、おつうさん。そういうわしにむかって、おつうさんは、こころからだもすべてをして、今日きょうまで一人ひとりくるしんでている。すまないとこころではおもっても、どうしようもない。……それが自分じぶんなのだから」
 ――不意ふいに、おつうほそは、武蔵むさしたくましい手頸てくびつかんだ。
 もういていなかった。
「……ってます! そ、そんなことぐらい……そういう貴方あなたであるぐらいなこと……し、しらないで……らないでこいをしてはまいりませぬ」
「さすれば、わしがいうまでもなく、この武蔵むさしとものうなどというかんがえはつまらぬこととわかっておろうが。わしという人間にんげんは、こうしているわずかないっときこそ、なにもおもわず、そなたにこころあたえているが――一歩別いっぽわかれて、そなたのそばはなれれば、そなたのことなど、おくれ毛一筋げひとすじほどにもこころけていない人間にんげん。――そういうおとこすがっておとこって、鈴虫すずむしのようにんではつまらぬことではないか。おんなにはおんなきるみちがある。おんなきがいはほかにもある。――おつうさん、これがおわかれのわしのことばだ。……では、もう時刻じこくもないから――」
 武蔵むさしは、彼女かのじょをそっといて、がった。

 かれたは、またすぐそのたもとって、
武蔵様むさしさまって」
 と、かたくすがった。
 さっきから彼女かのじょにも、いいたいものがむねいっぱいにつかえていた。
 武蔵むさしが、
むしのようにきて、むしのようにおんなこいには、意義いぎがない)
 といったことばや、
一歩いっぽ、おまえからはなれれば、わしはおまえのことなど、あたますみにもいていないおとこだ)
 といったような言葉ことばにも、おつうけっして、そんなふうに武蔵むさして、穿ちがえたこいをしているのではないことをいいたかったが、なんとしても、
(もう二度にどえなくなるのだ)
 とおもうさしせまった感情かんじょうてなかった。それ以外いがいのなにもいえなかったと、理性りせいすることもできなかった。――でいま
「……って」
 といって、たもとめたものの、やはりおつうも、不可抗力ふかこうりょくなものでただ纒綿てんめんくだけの女性じょせいをしかしめすことが出来できなかったのである。
 しかし、いおうとすることのいえない――よわさのうつくしさ――単純たんじゅんなる複雑ふくざつさ――にたいして、武蔵むさしみだれずにいられなかった。かれおそれている自分じぶん性格せいかくなかもっとおおきな弱点じゃくてんが、いま暴風ぼうふうのなかのよわみたいにすぶられていた。ともすればここまでつづけてた「みちへの節操せっそう」も、地崩じくずれのように、彼女かのじょなみだとともにどろになってれてしまいそうな気持きもちがする。その気持きもちかれ恐怖きょうふする。
「わかったか」
 武蔵むさしが、ただいう言葉ことばのためにそういうと、
「わかりました」
 おつうかすかに――
「けれど、わたくしはやはり、あなたがおにになれば、あとからにます。おとこのあなたが、よろこんでぬる以上いじょうに、おんなのわたくしにも、意味いみいてかれるのでございます。けっしてむしのように――また一時いちじかなしみにおぼれてぬのではございません。ですから、それだけはおつうこころにまかせておいてくださいませ」
 みだれずにいった。
 そして、もう一言ひとこと
「あなたは、わたくしのようなものでも、こころのうちだけでも、つまとしてゆるしてくださいますでしょうね。もう、それだけでわたくしは、すべてののぞみがりました。……この気持きもちおおきなよろこび、それはわたくしだけのっていられる幸福こうふくです。あなたはわたくしを、不幸ふこうにしたくないからとっしゃいましたが、わたくしはけっして、不幸ふこうやぶれてぬのではございません。――わたくしをなか人達ひとたちが、みなわたくしを不幸ふこうだといっても、わたくし自身じしんは、ちっとも、そんな不幸ふこうではないのでございます――むしろ、ああなんといっていいだろう、夜明よあけが、たのしみでどおで、あさ小鳥ことりなかんでが――花嫁はなよめのようにいそいそたれてなりません」
 ながくものをいうと、いきれるのであろう。彼女かのじょ自分じぶんむねきしめて、そして、ゆめみるように幸福こうふくをあげた。
 のこんのつきはまだ白々しらじらとしていてすこ樹々きぎきりめたが、夜明よあけにはまだがあった。
 ――すると。
 ふと彼女かのじょひとみげたがけうえほうで、
「キャーッ!」
 突然とつぜん樹々きぎねむりをさましてける怪鳥けちょうのように、一声ひとこえおんなするど悲鳴ひめいがつんざいた。
 たしかにおんな絶叫ぜっきょうだった。
 さっき城太郎じょうたろうが、そのがけみちうえのぼってったはずではあるが、その城太郎じょうたろうこえではけっしてなかった。