231・宮本武蔵「風の巻」「木魂(5)(6)」


朗読「231風の巻73.mp3」8 MB、長さ: 約 9分 15秒

 かすかにおつうかおよこった。したままにである。
「どうしたの。どうしたのさ」
 おろおろと、城太郎じょうたろう彼女かのじょ背中せなかでていたわりながら、
くるしいの」
「…………」
「そうだ、みずかい、おつうさん、みずしかないかね」
「…………」
 おつうはうなずいてせた。
っといで!」
 あたりをまわして、城太郎じょうたろうった。やまやまあいだのゆるい沢道さわみちである。水音みずおと方々ほうぼうくさくぐって、ここにある、ここにある、とかれおしえているようにきこえる。
 だが、そうとおくまでけなくても、すぐうしろにくさ石塊いしころしたからいているいずみがある。城太郎じょうたろうしゃがんで、両手りょうてみずすくおうとした。
「…………」
 みずはよくよくんでいて、沢蟹さわがにかげえるくらいだった。つきはもうかたむいているので、このみずには宿やどっていなかったが、あざやかなつきくもは、そらあおいでかにるよりも、みずうつっているそらのほうが一倍美いちばいうつくしくえた。
 病人びょうにんすくってってくよりも、城太郎じょうたろうはふと、自分じぶんさきみたくなったのであろう、六歩位置ろっぽいちうつして、今度こんど水際みぎわひざをつき、家鴨あひるのように水面すいめんくびばしたが、
「……あッ?」
 おおきくさけんだまま、かれはなにものかにいつけられ、河童頭かっぱあたまはそそけって、じーっと、くりみたいに、五体ごたいをかたくすくめてしまった。
「……?」
 みずむこきしから六本ろっぽんかげが、縞目しまめのようにうつっていた。そのはし人影ひとかげえたのである。みずうつっている武蔵むさしかげかれたのである。
「…………」
 びっくりしたことは勿論もちろん、びっくりしたにちがいないが、水面すいめんうつっている武蔵むさしかげだけでは、城太郎じょうたろうはまだほんとに――もの現実げんじつむかってびっくりしたのではなかった。
 ふいに、もの悪戯いたずらが、おもいつめているこころ武蔵むさしかげりて、さっと、とおけてったような――そんなおどろきであったのである。
 怖々こわごわと、かれはそのおどろきの水面すいめんからむこがわ木蔭こかげげてみた。こんどはほんとに仰天ぎょうてんしたのだった。
 武蔵むさしはそこにっていた。
「おッ、お師匠様ししょうさまっ」
 しずかな水面みなもっていた月雲つきくもそらは、とたんにくろみだにごってしまった。みずふちとおってけばよいのに、城太郎じょうたろうはいきなりんでみずなかわたり、ばしゃばしゃッとかおまでらして武蔵むさしからだびついてったのであった。
「いたっ、いたっ」
 つかまえたものったてるように、武蔵むさしを、かれ夢中むちゅうになってった。
て」
 武蔵むさしかおをそけて、ふとまぶたゆびてながら、
「あぶない、あぶない。すこして、城太郎じょうたろう
「いやだっ、もうはなさない」
安心あんしんせい、おまえのこえはるかにきこえたから、っていたのだ。わしよりも、はやくおつうさんにみずってってやれ」
「ア、にごってしまった」
むこうにもよいみずながれている。それ、これをってけ」
 こし竹筒たけづつわたしてやると、城太郎じょうたろうはなにおもったか、めて、武蔵むさしかおをじっと
「お師匠様ししょうさま。……お師匠様ししょうさまんでっておやりよ」

「……そうか」
 吩咐いいつけにしたがうように、武蔵むさし素直すなおうなずいた。自分じぶん竹筒たけづつみずすくい、おつうそばってった。
 そして彼女かのじょせなかかえ、ずからみずませてやると、城太郎じょうたろうかたわらから、
「おつうさん、武蔵様むさしさまだよ、武蔵様むさしさまだよ。……わかる? わかる?」
 と、ともどもいたわりをめていう。
 おつうのどみずおとすと、幾分いくぶんむねがらくになったように、ほっとのついたようにいきをついた。しかし、からだ武蔵むさしもたれたままうっとりとひとみはまだとおくをていた。
「おいらじゃないんだぜ、おつうさん、おつうさんをいているのは、お師匠ししょうさまなんだよ」
 城太郎じょうたろうがそう繰返くりかえすと、おつうとおくをているひとみに、のようななみだをいっぱいにたぎらせ、るまに、そのは、だまくもりにもて、やがてほおさがるふたすじの白珠しらたまとはふりこぼれると、
(……わかっています)
 と、いうようにうなずいた。
「ああ、よかった」
 城太郎じょうたろう無性むしょううれしくなってしまい、わけもなく満足まんぞくして、
「おつうさん、これでいいだろ。もう、これでがすんだろう。……お師匠様ししょうさま、おつうさんね、あれから、どうしても、もいちど武蔵様むさしさまうんだといって、病人びょうにんのくせに、いうことかないんだよ。こんなこと度々たびたびやるとんじまうにきまっているから、お師匠様ししょうさまからよくそういっておくれよ、おいらのいうことなんかかないんだもの」
「そうか」
 武蔵むさしは、彼女かのじょかかえたまま、
「みんなわしがわるいのだ。わしのわるいところもび、またおつうさんのわるいところもよくいって、からだ丈夫じょうぶにするように今話いまはなすから……城太郎じょうたろう
「なに?」
「おまえは、ちょっと……しばらくのあいだ、どこかへはなれていてくれぬか」
 城太郎じょうたろうは、そうくと、
「どうして?」
 と、くちとがらし、
「どうしてさ。どうしておいらがここにいちゃいけないの」
 と、不平ふへいなようでもあり、不審ふしんにもかんがえるらしく、うごこうとはしないのであった。
 武蔵むさしも、それにはふとこまったらしい様子ようすえた。すると、おつうたのむように、
城太郎じょうたろうさん……そんなこといわないで、ちょっと、あっちへっていてください。……ね、後生ごしょうですから」
 武蔵むさしにはくちとがらした城太郎じょうたろうもおつうにそういわれると、理窟りくつもなにもなくなって、
「じゃあ……おいら、仕方しかたがないからこのうえのぼっているとすらあ。ようんだらんでおくれ」
 がけ杣道そまみち見上みあげて、城太郎じょうたろうはがさがさとのぼってった。
 ようやく、すこ元気げんき回復かいふくしたらしく、おつうって、鹿しかのようにのぼって城太郎じょうたろうかげ見送みおくり、
「――城太じょうたさん、城太じょうたさん。そんなにとおくへかなくってもいいのですよ」
 そういったが、きこえたのかきこえないのか、城太郎じょうたろうはもう返辞へんじもしない。
 おつうもまた、なにもいま、そんなこころにもないことをいって、武蔵むさしけている必要ひつようもなかろうに――やはり城太郎じょうたろうというもの一枚抜いちまいぬけて、二人ふたりきりになったとおもうと、にわかむねがつまって、なにからいいしていいのか、きゅう自分じぶんからだあまされてるのであろう。
 羞恥はにかみは、健康けんこうときよりも、んでいる場合ばあいのほうが、生理的せいりてきにも、つよいものかもしれない。