230・宮本武蔵「風の巻」「木魂(3)(4)」


朗読「230風の巻72.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 21秒

 公卿侍くげざむらいかおは、自分じぶんあるいている松明たいまつ油煙ゆえんで、はなあなまでくろすすけてい、狩衣かりぎぬ夜露よつゆどろでひどくよごれている。
「や? ……」
 と、った最初さいしょに、なにかおどろいたようなこえしたので、不審ふしんおもって、武蔵むさしがじっとそのかお凝視ぎょうしすると、きゅうすこおそれをいだいたように、
「……あの、あなたさまは」
 と、ひどくひくあたまげ、
「もしや、宮本武蔵殿みやもとむさしどのおおせられはいたしませぬか」
 と、う。
 武蔵むさしが、ぎらっと松明たいまつあかひかりなかひかった。――当然とうぜん警戒けいかいだったのはいうまでもない。
「……宮本殿みやもとどのでございましょうな」
 かさねて、そのおとこたずねたが、こわいのだ、武蔵むさしだまっている形相ぎょうそうなかには、人間にんげんのなかでは滅多めったにみつけないものがあったにきまっているから――そうきながらも、おとこからだ浮腰うきごしになっていた。
だれだ? おんは」
「はい」
何者なにものだ?」
「はい……烏丸家からすまるけのものにござりますが」
「なに、烏丸家からすまるけの……。わしは武蔵むさしだが、烏丸家からすまるけ御家来ごけらいが、今頃いまごろ、こんな山路やまみちへなにしに?」
「ア。……ではやはり宮本殿みやもとどのでござりますな」
 いうと、そのおとこは、あとずにやまくだってしまった。松明たいまつが、あかをひいて、に、ふもとしずんでった。
 武蔵むさしは、なにかはっとおもあたったように、あしはやして、山伝やまづたいに、志賀山街道しがやまかいどう横切よこぎり、どこまでもやまはらを、よこよこへと、いそいでった。
 ――一方いっぽう
 あわもの松明たいまつは、一目散いちもくさんに、銀閣寺ぎんかくじのわきまでりてた。
 そして、片手かたてくちにかざして、
「オオイ、内蔵殿くらどの内蔵殿くらどの
 と、同僚どうりょうばわっていると、その同僚どうりょうとはちがうが、やはり烏丸家からすまるけうちに、ここながらくとまっている城太郎少年じょうたろうしょうねんが、
「なんだアい――小父おじさん――」
 と、二町にちょうさき西方寺門前さいほうじもんぜんあたりからとお返辞へんじきこえてくる。
城太郎じょうたろうかあ――」
「そうだアい」
「はやくウいっ――」
 すると、またとおくから、
かれないよーっ……。おつうさんが、ここまでやっとたけれど、もうあるけないッて、ここへたおれちまったから、かれないよーっ」
 烏丸家からすまるけ奉公人ほうこうにんは、
(ちぇっ……)
 舌打したうちをらしたが、まえよりもたかこえりあげて、
「はやくないと、武蔵殿むさしどのがもうとおくへってしまうぞっ。――はやいっ、たったいまそこで、武蔵殿むさしどのをわしがつけた!」
「…………」
 すると今度こんどは、返辞へんじがしてないのである。
 ――とおもううちに、彼方あなたからふたつの人影ひとかげが、うようにひとつになっていそいでる。病人びょうにんのおつうたすけて城太郎じょうたろうであった。
「おお」
 松明たいまつって、おとこはやくとててせる。いたましや、そうでなくてさえ、あえあえけてくる病人びょうにんいきは、とおくからきこえるほどだった。
 ちかづくほどに、おつうかおつきよりもがないものにえた。ほそった手足てあしたびよそおいをけているのがあまりにも無理むりえる。しかし、松明たいまつのそばまでると、そのほおは、きゅうあかくなっていた。
「ほ、ほんとですか。……今仰いまおっしゃったのは」
「ほんとだとも、たったいまだ」
 と、ちからをこめてはなし、
「はやく、ってけばえる。はやくはやく!」
 城太郎じょうたろうは、まごまごして、
「どっちへさ、どっちへさ。ただはやけじゃわからないじゃないか」
 病人びょうにんあわもののあいだにって一人ひとり癇癪かんしゃくおこしてしまう。

 おつうからだがあれからきゅうくなっているというわけはないから、おつうがここまであるいてたのは、よくよく悲壮ひそう覚悟かくごでなければなるまい。
 おそらく、いつぞやのばんやかた病褥びょうじょくにはいってから、城太郎じょうたろうくわしいはなしき、
武蔵様むさしさまけっしておいでになるなら、わたしもやまいやしなって、こうしてながらえるいもない)
 といいしたことからはじまり、やがてはまた、
まえ一目ひとめでも)
 という病人びょうにん一念いちねんになって、それまで水手拭みずてぬぐいてていたあたまかみむすび、病褥びょうじょくにいたわっていたせたあし草鞋わらじをつけ、だれめようと意見いけんしようとみみさず、とうとう烏丸家からすまるけもんからたものではあるまいか。
 さて、そうまでの一心いっしんては、めだてした烏丸家からすまるけ人々ひとびとも、
ててはけぬし)
 と、あたかぎりこの病人びょうにんの――ことによったらこのなか最後さいごのぞみになるかもれぬ――希望きぼうげさせてやりたいと、ともども、んだりさわいだりしたであろうことも想像そうぞうがつく。
 あるいは、光広卿みつひろきょうみみへもはいって、このはかな恋愛れんあい末期まつごたいして、よそながらおやかた指図さしずがあったものかともおもわれる。
 とにかく、彼女かのじょよわ足取あしどりをもって、この銀閣寺下ぎんかくじした仏眼寺ぶつがんじ門前もんぜんへかかるまでには、烏丸家からすまるけ御内人おうちびとたちが、およそ武蔵むさしかげのさしそうな方角ほうがくへは、八方はっぽう手分てわけをして、たずもとめていたらしいのである。
 はたいの場所ばしょ一乗寺いちじょうじとだけわかって、ひろ一乗寺村いちじょうじむらのどのへんかは明白めいはくでない。それにまた、武蔵むさしはたいの場所ばしょってしまってからではいつかないことなので、さがものも、おそらく一乗寺方面いちじょうじほうめんかよみちには、皆一人みなひとり二人ふたりずつ奔走ほんそうして、あし擂粉木すりこぎにしていたものであろう。
 しかしそのいはあって、武蔵むさしつかったのであるから、あとは、加勢かせものちからよりは、おつう一心いっしん如何いかんによるほかはない。
 たったいま如意にょいたけ中途ちゅうとから、志賀山越しがやまごえを横切よこぎって、きたさわりてったという――それだけをけば、彼女かのじょももうそのさきまで、他人たにんちからたよってはいなかった。
「だいじょうぶ? おつうさん、だいじょうぶかい?」
 そばについてはらはらして城太郎じょうたろうともくちもきかない。
 いや、きけないのである。
 覚悟かくごして、無理無体むりむたいあゆませてゆく病躯びょうくであった。くちかわいてしまう。鼻腔びこうはあらい呼吸いきにつかれる。そして蒼白そうはくひたいに、かみからつめたいあせさえながれていた。
「おつうさん、このみちだ、このみちからよこよこへと、やまはらってゆけば、自然ひとりで叡山えいざんほうてしまう。……もうのぼりはないかららくだよ、どこか、すこしそこらでやすんだらどう?」
「…………」
 おつうだまってかぶりをった。一本いっぽんつえ両端りょうたん二人ふたりしていながら――なが人生じんせい艱苦しんくをこのいっときみちちぢめてしまうようなあえぎとたたかいながら、懸命けんめいに、およそ二十町余にじゅっちょうあまりもやまばかりあるいた。
「お師匠様ししょうさまアッ。……武蔵むさしさまアッ……」
 時折ときおり城太郎じょうたろうが、ありッたけなこえしぼって、ほうむかって、こうんでくれるのが、おつうにとってはなによりのちからだった。
 だがついに、そのちからきたように、おつうは、
じょ……城太じょうたさん」
 なにか、いいかけたとおもうと、かれっていたつえさきはなして、さわいしころや草叢くさむらなかに、よろりと、おともなくしてしまった。
 けずったようにほそ両手りょうてゆびが、くちはなおさえたまま、かた戦慄せんりつしているので、
「ヤ! でもいたんじゃないか。……おつうさん! ……おつうさん……」
 城太郎じょうたろう声出ごえだして、彼女かのじょうすむねおこした。