229・宮本武蔵「風の巻」「木魂(1)(2)」


朗読「229風の巻71.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 33秒

木魂こだま

 ――とおとおく、ているまにってちいさくなって佐々木小次郎ささきこじろうかげ見送みおくって、武蔵むさしおもわずわらった。
 たったいま、その小次郎こじろうっていたところに、武蔵むさしっているのである。なぜ、かれがあんなにもさがしたのにれなかったのかをかんがえてみると、小次郎こじろう居場所いばしょててほかさがしたが、武蔵むさしはかえってその小次郎こじろうのいたすぐうしろの樹蔭こかげていたからであった。
 ――しかし、なにしろまずこれでよかった。と武蔵むさしおもう。
 他人たにん興味きょうみをもち、他人たにん鮮血せんけつけてする生霊しょうりょうのやむなき大悲願事だいひがんじをふところで――後学こうがくのためとかなんとかいって――むしのよい傍観者ぼうかんしゃまわり、そのうえ双方そうほう恩着おんきせがましく、いいになっていようという横着者おうちゃくもの
(そのわない)
 武蔵むさしは、おかしくなった。
 しきりとてきあなどれぬことをげ、こちらへたいして助太刀すけだち有無うむいたのは、そういったら武蔵むさしひざくっして武士ぶしなさけにいっちからしてたまわらぬか――とでもいうかとおもっていたかしらぬが、武蔵むさしは、その言葉ことばにもらなかった。
きよう。とう)
 とおもえば助太刀すけだちもほしくなるかもれぬが、武蔵むさしには、てるもない、明日あしたあとまで、きようともおもわれない――いやありのままにいえばそんな自信じしんはなかったというほうただしかろう。
 ひそかに、かれがここへるまでのあいだにさぐたところでも、今暁こんぎょうてき百数十名ひゃくすうじゅうめいにものぼるらしくさっしられた。あらゆる方法ほうほうのもとに、自分じぶんがいさずばまない状態じょうたいにあることもうなずけたのである。――なんできる工夫くふうあせってみる余地よちがあろう。
 けれど武蔵むさしは、そのなかでもかつて沢庵たくわんのいった――
しん生命いのちあいするものこそ、しん勇者ゆうしゃである)
 という言葉ことばけっして忘失ぼうしつしてしまっているわけではない。
(この生命いのち!)
 そしてまた、
二度にどうまがたいこの人生じんせい!)
 を、いまも、五体ごたいのうちにいだきしめているのであった。
 だが。
 ――生命いのちあいする。
 ということは、たん無為飽食むいほうしょくまもっているということとはたいへんに意味いみちがう。だらだら長生ながいきをかんがえるということではさらさらない。いかにしてこの二度にどきしめることのできない生命いのちとの余儀よぎなきわかれにも、そのいのちに意義いぎあらしめるか――価値かちあらしめるか――てるまでも、鏘然しょうぜんとこの意義いぎある生命いのち光芒こうぼうくか。
 問題もんだいはそこにある。何千年何万年なんぜんねんなんまんねんという悠久ゆうきゅう日月じつげつながれのなか人間一生にんげんいっしょう七十年ななじゅうねん八十年はちじゅうねんは、まるで一瞬いっしゅんでしかない。たとえ二十歳はたちいでずにんでも、人類じんるいうえ悠久ゆうきゅうひかりった生命いのちこそ、ほんとの長命ちょうめいというものであろう。またほんとに生命いのちあいしたものというべきである。
 人間にんげんのすべての事業じぎょうは、創業そうぎょうとき大事だいじむずかしいとされているが、生命いのちだけは、おわときてるときもっともむずかしい。――それによって、その全生涯ぜんしょうがいさだまるし、また、泡沫ほうまつになるか、永久えいきゅう光芒こうぼうになるか、生命いのち長短ちょうたんまるからである。
 けれど、そういうふうな生命いのちあいしようも、町人ちょうにんにはおのずから町人ちょうにん生命いのちかたがあり、さむらいにはさむらいかたがある。武蔵むさしいま場合ばあいには、当然とうぜん、さむらいのみちっていかによくこの生命いのちぎわを、さむらいらしくするかにあることはいうまでもない。

 さて――
 これから一乗寺いちじょうじ藪之郷やぶのごうさがまつ目的地もくてきちこうとするならば、武蔵むさしまえには、ここにみっつの道筋みちすじがあった。
 そのひとつはいま佐々木小次郎ささきこじろうけてった雲母きらら叡山道えいざんみち
 これはもっとちかい。
 そして一乗寺村いちじょうじむらまでは、みち坦々たんたんとしていて、まず本道ほんどうといっていい。
 すこし迂回まわりにはなるが、田中たなかさとからまがって高野川たかのがわ沿い、大宮大原道おおみやおおはらみちをすすみ、修学院しゅうがくいんのほうへさがまついたる――という道取みちとりがその第二だいに
 もうひとつは、いまかれっているところからひがしすぐに、志賀山越しがやまごえの裏街道うらかいどうをとり、白河しらかわ上流じょうりゅうから瓜生うりゅうやまふもとをあるいて、薬師堂やくしどうあたりからそこへくというみちえらべる――
 そのいずれからくも、さがまつ追分おいわけは、ちょうど谷川たにがわ合流点ごうりゅうてんのような場所ばしょあたっているので、距離きょりにしても、そう大差たいさはない。
 だがこれを――まさにこれから、そこに雲集うんしゅうしている大軍たいぐんにぶつかってこうとする寡兵かへいにもている武蔵むさしにとると――兵法へいほうからみると――大差たいさがある。生涯しょうがいのこと、ここの一歩いっぽから、わかつことになる。
 ――みちつ。
 ――どうこうか。
 当然とうぜん武蔵むさしはそこで慎重しんちょうかんがえそうなものであったが、ひらりとやがて身軽みがるうごしたかれかげには、そんな重苦おもくるしげなまよいのかげいていない。
 ――ひら――ひら――ひらと小川おがわがけはたけぶようにえて、つきしたえつかくれつ足早あしばやに、きたいほうあるいている。
 では、三道さんどうのうち、いずれをえらんだかというと、かれあしは、一乗寺方面いちじょうじほうめんとは反対はんたい方角ほうがくいていた。みっつのみちのいずれもえらばなかったのである。そのへんはまださとではあったが、せま小道こみちとおったりはたけ横切よこぎったりして、一体いったい、どこをざしてあるいてくのかちょっとれない。
 なんのためか、わざわざ神楽かぐらおかのすそをえ、後一条帝ごいちじょうてい御陵みささぎうらる――このへん、ふかい竹藪たけやぶだった。たけ密林みつりんけるともう山気さんきのあるかわ月光げっこういてさとはしっている。――大文字山だいもんじやまきたかたが、もうかれうえへ、のしかかってるようにちかかった。
「…………」
 黙々もくもくと、武蔵むさしは、やまふところのやみむかってのぼってゆく。
 いまとおって右側みぎがわ樹立こだちおくえた築地ついじ屋根やねが、東山ひがしやま殿どの銀閣寺ぎんかくじであったらしい。ふと、振顧ふりかえると、そこのいずみ棗形なつめがたかがみのようにしたえたのである。
 さらに、もう一息ひといき山道やまみちのぼってゆくと、東山殿ひがしやまどのいずみは、あまりにちかすぎて足元あしもと木蔭こかげにかくれ、加茂川かもがわしろうねりがずっとしたっている。
 下京しもぎょうから上京かみぎょうまで、両手りょうてをひろげてかかえきれるような展望てんぼうだった。ここからは、はるかに、
一乗寺下いちじょうじさがまつはあのあたり――)
 と、ゆびさして、ほぼとおさっすることもできる。
 大文字山だいもんじやま志賀山しがさん瓜生山うりゅうやま一乗寺山いちじょうじさん――と三十六峰さんじゅうろっぽう中腹ちゅうふくよこって叡山えいざんほうへすすめば、ここからそうときついやさずに、目的もくてき一乗寺下いちじょうじさがまつのちょうど真後まうしろへ、やまうえからのぞむこともできるのだった。
 武蔵むさしかんがえは、その戦法せんぽうは――もうくからむねまっていたものらしい。かれ桶狭間おけはざま信長のぶながおもわせ、鵯越ひよどりごえの故智こちならって、あの当然とうぜんえらばなければならないはずの三道さんどうのいずれをもてて、まるで方角ほうがくちがいな、あるくにも難儀なんぎなこの山道やまみち中腹ちゅうふくまでのぼってたにちがいない。
「……やっ、お武家ぶけ
 こんなところ人声ひとごえおもいがけなかった。不意ふいに、みちうえからひと跫音あしおとがしたとおもうと、かれまえに、狩衣かりぎぬすそをくくりげて、松明たいまつった公卿屋敷くげやしき奉公人ほうこうにんらしいおとこって武蔵むさしかおいぶすように、松明たいまつした。