228・宮本武蔵「風の巻」「月一つ(3)(4)(5)」


朗読「228風の巻70.mp3」13 MB、長さ: 約 14分 20秒

 上京かみぎょう方面ほうめんから叡山えいざん――志賀山越しがやまごえの方角ほうがくわたろうとすれば、どうしても、この一路いちろへかかることになる。
「おおう……いっ」
 武蔵むさしかげが、加茂かも舟橋ふなばしなかごろまでわたってときである。こうばわるこえがする。
 淙々そうそうみずたわむれは、つきしろかぎりの天地てんちめてひとたのしんでいる。上流じょうりゅうから下流かりゅうまで、ここは奥丹波おくたんばかぜ通路つうろのように冷々ひえびえ夜気やきながれている。――だれだれをよぶのか、どこにこえぬしがいるのか、にわかにるにはあまりに天地てんちひろい。
「おオーい」
 またしてもく。
 武蔵むさしは、二度足にどあしめたが、もうこころにかけず、ただすなかえて対岸たいがんうつってしまった。
 と、一条白河いちじょうしらかわのほうから河原かわらづたいに、をあげながらけてるものがある。たようなとおもったあやまりはなかった。佐々木小次郎ささきこじろうなのである。
「やあ」
 ちかづきながらこうしたしそうに小次郎こじろうこえをかけた。そして、武蔵むさし姿すがたをじっと、また舟橋ふなばしのほうを見渡みわたしてから、
「お一人ひとりか」
 といった。
 武蔵むさしうなずいて、
一人ひとりです」
 と、当然とうぜんのようにいう。
 挨拶あいさつすこ前後ぜんごしている。それから小次郎こじろうあらためていった。
「いつぞやのよる失礼しつれいいたした。不行届ふいきとどきあつかいをけてくだすって、有難ありがたくぞんじています」
「いやそのおりはどうも」
「さて、――これから約束やくそく場所ばしょおもむかれるのか」
「はい」
「お一人ひとりで?」
 くどいと、承知しょうちしながら、小次郎こじろうはまたたずねた。
一人ひとりです」
 武蔵むさし返辞へんじも、まえおなじであったのが、かえって、小次郎こじろうみみにはよくきこえた。
「ふふむ……そうですか。しかし武蔵むさしどの、貴所きしょはこのあいだ、この小次郎こじろうしるして六条ろくじょうてたあの公約こうやく高札表こうさつおもてを、なにか、みちがえてはおられぬか」
「いいやべつに」
「でもあの高札文こうさつぶんには、このまえ清十郎せいじゅうろうとそこもととの試合しあいのように一名いちめい一名いちめいかぎるとはいてないのでござるぞ」
「わかっております」
「――吉岡方よしおかがた名目人めいもくにん幼少ようしょうのただだけのもの。あとは一門遺弟いちもんゆいていとなっている。遺弟ゆいていといえば、十人じゅうにん遺弟ゆいてい百人ひゃくにん遺弟ゆいてい千人せんにんも……であるが、その点抜てんぬかられたな」
「なぜですか」
吉岡よしおか遺弟ゆいていのうちでも、弱腰よわごしなものはげたり、不参ふさんらしくゆるが、ほねのある門人もんじんは、こぞって、藪之郷やぶのごういったいにそなえ、さがまつ中心ちゅうしんに、貴所きしょるのをちかまえているていゆる」
小次郎殿こじろうどのには、すでにそこをお見届みとどけでござりますか」
ねんのために。――そしていま、こは相手方あいてがた武蔵むさしどのにとって一大事いちだいじなりと思慮しりょいたしたので、一乗寺いちじょうじあとからいそいでかえしてまいり、およそこの舟橋ふなばし貴所きしょ通路つうろではないかとはかって、おもうしていたのでありまする。――高札表こうさつおもてしたためた立会人たちあいにんつとめでもござれば」
「ご苦労くろうおもいます」
右様みぎようなわけでござるが、それでも貴所きしょは、一人ひとりくおつもりか。――それとも、ほか助人すけうどたちは、べつなみちをとってかれたか」
自分一名じぶんいちめいのほか、もう一名いちめい自分じぶんとともにあるいてまいりました」
「え。どこへ」
 武蔵むさしは、地上ちじょうのわが影法師かげぼうしゆびさして、
「ここに」
 といった。
 わらつきしろかった。

 冗談じょうだんなどいいそうもない武蔵むさしが、ニコッとわらって不意ふいたわむれをいったので、小次郎こじろうは、ちょっとまごつきながら、
「いや、冗談じょうだんごとではありませぬぞ、武蔵むさしどの」
 よけい真面目まじめづくると、
拙者せっしゃも、冗談じょうだんはいいませぬ」
「でも、影法師かげぼうし二人ふたりづれなどとは、ひと小馬鹿こばかにしたおことばではないか」
「しからば――」
 武蔵むさしは、小次郎以上こじろういじょう、きっと真面目まじめていしめして、
親鸞聖人しんらんしょうにんもうされたことばとやらに――念仏行者ねんぶつぎょうじゃつね二人ふたりづれなり、弥陀みだ二人ふたりづれなり。とあったようにおぼえておるが、あれも冗談じょうだんごとでしょうか」
「…………」
何様なにさま、ただ、かたちのうえよりかんずれば、吉岡衆よしおかしゅうはさだめし大勢おおぜいでござろうし、この武蔵むさしは、らるるごとくただの一名いちめい勝負しょうぶにはならぬと小次郎殿こじろうどのも、拙者せっしゃあんじてたまわるのであろうが、う、おあんじくださるな」
 武蔵むさし信念しんねんは、言葉ことばのひびきからもみゃくって、
かれ十人じゅうにん多勢たぜいようするゆえ、われも十人じゅうにんせいをもってあたろうとすれば、かれ二十人にじゅうにんそなえをててってくるにちがいない。彼二十人かれにじゅうにんなれば、われも二十人にじゅうにんせいをもってあたらんとすれば、かれはまた三十名さんじゅうめい四十名よんじゅうめい呼号こごうしてあつまるでしょう。さすれば、世間せけんさわがすこともはなはだしく、おおくの負傷ておいなどもして、治世ちせいおきてみだすばかりか、それがけんみちえきするところはいずれもない。百害ひゃくがいあって一益いちえきなしです」
「なるほど、だが武蔵むさしどの、みすみすけとわかっているいくさをするのは、兵法へいほうにないとおもうが」
「ある場合ばあいもありましょう」
「ない! それでは兵法へいほうではない、無法むほうというものだ、滅茶めちゃだ」
「では、兵法へいほうにはないが、拙者せっしゃ場合ばあいだけには、あるとしておこう」
はずれている」
「……ハハハハ」
 武蔵むさしはもうこたえない。
 しかし、小次郎こじろうまない。
「そんな兵法へいほうはずれているいくさ仕方しかたをなぜなさるのじゃ。なぜもっと、活路かつろをおりなさらぬのだ」
活路かつろは、今歩いまあるいている、このみちこそ、拙者せっしゃにとっては活路かつろです」
冥途めいどみちでなくば、さいわいだが――」
あるいはもう、今越いまこえたのがさんかわ今踏いまふんでゆくみち一里塚いちりづかくてのおかはりやまかもしれません。――しかし、自分じぶんかす活路かつろはこの一筋ひとすじよりほかにあろうともおもわれぬ」
死神しにがみにとりつかれたようなことをっしゃる」
「なんであろうとよい。きてぬるものもある。んできるものもある」
不愍ふびんな……」
 ひとごとのように小次郎こじろう嘲笑あざわらうと武蔵むさしは、まって、
小次郎こじろうどの――この街道かいどう直何処すぐどこつうじますな」
はな木村きむらから一乗寺いちじょうじ藪之郷やぶのごう――すなわち、貴所きしょ死場所しばしょさがまつて――これから叡山えいざん雲母坂きららざかとおっております。それゆえ、雲母坂道きららざかどうともいう裏街道うらかいどう
さがまつまで、道程みちのりは」
「ここからは、はや半里余はんりあまり、ゆるゆるあるいてかれても、時刻じこく余裕よゆうはまだ十分じゅうぶん
「では、後刻ごこくまた」
 武蔵むさしがふいに、横道よこみちまがりかけると、
「ヤ、みちがちがう。武蔵むさしどの、そうっては方角ほうがくちがう」
 あわてて小次郎こじろう注意ちゅういした。

 武蔵むさしはうなずいた。小次郎こじろう注意ちゅういたいして、素直すなおにうなずいた。
 しかしていると、まがったみちをそのままなおあるいてゆく様子ようすなので、小次郎こじろうはもいちど、
みちちがいますぞ」
 こえをかけると、
「はあ」
 と、わかっているような返辞へんじ
 並木なみきのすぐうしろで、窪地くぼち傾斜けいしゃ沿い、だんだんはたけがある、かやぶき屋根やねえる。そのひくほう武蔵むさしりてゆくのである。雑木ぞうき隙間すきまからうし姿すがたえる。――つきあおいでぽつねんとっている姿すがたがわかる。
 小次郎こじろうは、ひとりで苦笑くしょうほおながしながら、
「……なんだ、小用しょうようか」
 つぶやいて、かれつきあおぐ。
「だいぶ西にしかたむいてたなあ。……このつきがかくれるころには、何人なんにんかの人命じんめいえてゆくのだ」
 かれ好奇心こうきしんしきりといろいろな予想よそうえがく。
 武蔵むさしがなぶりごろしにされることは、結局けっきょくにおいては確実かくじつだが、あのおとこのことである、たおれるまでに何人なんにんてきるか。
「そこがものだ」
 と、かれおもう。そしていまからそれを予想よそうしてみるだけでも、ぞくぞくしてて、はだ総毛そうけだち、全身ぜんしんけてとおしがる。
滅多めったがたいものにわしはった。蓮台寺野れんだいじのおりも、つぎときも、実見じっけんできなかったが、今暁こんぎょうられる。……はてな、武蔵むさしはまだか?」
 ちょっと、低地ていちみちのぞいてみたが、まだもどってかげえない。小次郎こじろうっていてもつまらないので、こしをおろした。
 そしてまた、ひそかに空想くうそうたのしんでいる――
「あのちつきましている様子ようすでは、まったくけっしているらしいから、かなりなところまでたたかうだろう。なるべく、ってってりまくってくれたほうがごたえがあっていい。……だが、吉岡よしおかのほうでは飛道具とびどうぐそなえまでしているといったな。……飛道具とびどうぐでどんと一発いっぱつやられてしまっては、万事終ばんじおわってしまう。……はて、それでは面白おもしろくないぞ。そうだ。そのことだけは、武蔵むさし耳打みみうちしておいてやろう」
 だいぶった。
 夜霧よぎりこしつめたくなる。小次郎こじろうおこして、
武蔵むさしどの」
 んでみたのである。
 おかしいぞ? ――と今頃いまごろになっておもってみることが、彼自身かれじしんにもとたんに不安ふあんあせりをおこしていた。――タタタタタと小次郎こじろう低地ていちりてった。
武蔵むさしどの」
 崖下がけした農家のうかくらたけむらにかこまれていて、どこかで水車すいしゃおとがするが、そのながれさえよくえない。
「しまったッ!」
 みずんで、小次郎こじろうむこがわがけうえへすぐてみた。人影ひとかげらしいものはあたらない。白河しらかわあたりの寺院じいん屋根やねもりねむっている大文字山だいもんじやま如意にょいたけ一乗寺山いちじょうじさん叡山えいざん――ひろ大根畑だいこんばたけ
 それからつきひとつ。
「しまったッ。卑怯者ひきょうものめ」
 小次郎こじろう武蔵むさしげたなと直覚ちょっかくした。あのちつきすましていた様子ようすもそのせいであったかといまにしておもう。道理どうりあまりいうことも出来過できすぎていた。
「そうだ、はやく」
 小次郎こじろうひるがえして、もとみちた。そこにも、武蔵むさしかげはない。かれあしちゅうをとんでした。――勿論もちろん一乗寺下いちじょうじさがまつすぐに。