227・宮本武蔵「風の巻」「月一つ(1)(2)」


朗読「227風の巻69.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 15秒

月一つきひと

 つかのであったがねむったとおもう。頭脳あたまのうちはこよいの夜空よぞらのようにえ、ったそのものと、このとが、あたかも、ひとつもののようにすらえて、一歩一歩いっぽいっぽなにものかのなかへ、ってゆくのかとおもう。
「ゆるりとあゆもう」
 武蔵むさしは、意識的いしきてきに、大股おおまた足癖あしくせしんで――
「……さて、人間にんげんをながめるのも、今夜こんやかぎりとなったな」
 なんの詠嘆えいたんでもない、悲嘆ひたんでもない、そう痛切つうせつなる感慨かんがいではけっしてなかった。ふと――しかしなんらの虚飾きょしょくもないこころそこから――ふっとのぼったつぶやきであった。
 まだ、一乗寺いちじょうじあとさがまつまでは、だいぶ距離きょりがあるし、時刻じこく夜半よなかぎたばかりなので、というものが、かおまえまで切実せつじつかんじられてないのだろうか。
 きのう一日いちにち鞍馬くらまおくいんって、松籟しょうらいなかに、だまってすわりこんでりてたのであったが、無相無身むそうむしんになってみようと努力どりょくしたそのときのほうが、どうしても、というものからはなれられなくて、結局けっきょく、なんのために坐禅ざぜんなどしにやまへのぼったのかと、あさましくさえおぼえた。
 それにはんして、今夜こんや清々すがすがしさは、どういうものだろうと、かれはわれをうたがう。――よいに、木賃きちんのおやじとすこふくんでみたさけが、適度てきどにまわって、熟睡じゅくすいして、めた肉体にくたい井戸水いどみずび、あたらしい晒布さらし肌着はだぎでひきまっているこのからだというものが、どうおもってみても今死いましぬものとはおもわれない。
(――そうだ、んだあしって、伊勢いせみや裏山うらやまのぼったとき――あのばんほしもきれいだったな。あれは、冱寒こかんふゆだったが、いまごろならば、氷花つらら樹々きぎにも、もう山桜やまざくらのつぼみがふくらんでいる時分じぶん
 かんがえようともしないそんなことが頭脳あたまのうちにえがされ、かんがえようとするさき必死ひっし問題もんだいにはなんの知性ちせいもわいてない。
 あまりにも、覚悟かくごってしまった、そのたいして、かれ知性ちせいはもういもしない――意義いぎ苦痛くつう死後しごさきなどと百歳ひゃくさいまできてみても、解決かいけつしそうもないそんな問題もんだいに、いまさら、焦躁しょうそうするめてしまったのかもれない。
 こんな深夜しんやなのに、みちのどこからともなく、しょうしておと冷々ひえびえとながれていた。
 そこらの小路こうじ公卿くげ屋敷やしきらしい。吹奏すいそう律調しらべおごそかなうちにも哀調あいちょうがあるところからさっすると、酒興しゅきょうけている公卿くげたちのすさびともおもわれない。ひつぎをかこんであかつき通夜つや人々ひとびとや、さかきまえしろがふと武蔵むさしかぶ――
「――自分じぶんより一足先ひとあしさきんでいるひとがある」
 あしたは、死出しでやまで、そのひととも、どこかで知己ちきになりそうながして、微笑ほほえまれる。
 通夜つやは、あるいているうち、もう余程よほどさっきからみみにはきこえていたのかもしれない。――そのしょうおとから伊勢いせみや稚児ちごたちおもされ、んだあしをひきってのぼったわしたけ樹々きぎ氷花つららが、ふとかんがされたのであろう。
 はて? ――と武蔵むさしは、自分じぶんさわやかな頭脳あたまをそこでうたがってざるをなかった。――このすずやかな心地ここちは、じつに、一歩一歩いっぽいっぽ死地しちあしけているからだからるところの――自分じぶんでも意識いしきしない極度きょくど恐怖きょうふではあるまいかと。
 そう、自分じぶんたずねて、ぴたと自己じこあし大地だいちとどめてみたときみちはすでに相国寺しょうこくじ大路端おおじはずれにていて、半町はんちょうほどさきには、ひろい川面かわもみず銀鱗ぎんりんてて、みずちかやかた築地ついじにまでそのあかるいひかりをぎらぎらうつしていた。
 ――と、その築地ついじかどに、人影ひとかげひとくろく、じっとってこっちをていた。

 武蔵むさしあしめた。
 さきせた人影ひとかげは、反対はんたいにこっちへあるしてる。そのかげいて、もひとつちいさいかげつきみちころがってる。ちかづいてから、それはそのおとこれているいぬだとわかった。
「…………」
 手足てあしさきにまでこめていたちからきゅういて、武蔵むさし無言むごんのまますれちがった。
 いぬれた通行人つうこうにんは、とおぎてからにわか振向ふりむいてこえをかけた。
「お武家ぶけさま。お武家ぶけさま」
「……わしか」
 五間ごけんへだてたまま、
「さようでございます」
 こしのひくい凡下ぼんげだ。職人しょくにんばかま烏帽子えぼしをかぶっている。
「なんだな?」
「ひょんなおたずねをいたしますが、この道筋みちすじに、明々あかあかともしてきていたおやしきはございませぬかな」
「さ。がつかずにまいったが、なかったようにおもう」
「はて、それでは、この道筋みちすじでもないかしらて?」
「なにをさがしておるのか」
ひとんだいえでございます」
「それならあった」
「お、おかけなさいましたか」
「この深夜しんやだが、しょうがもれていた。そこではないか、半町はんちょうほどさきだった」
ちがいございません。さき神官方しんかんがたが、おっておりますはずで」
通夜つやにまいるのか」
「てまえは鳥部山とりべやま柩造ひつぎつくりでございまするが、うかつにも、吉田山よしだやま松尾様まつおさま合点がてんして、吉田山よしだやまへおたずねいたしましたところ、もう二月ふたつきまえにおうつりになったのだそうで……いやもう、けていえとてはございませぬし、このあたりもにくいところでございますなあ」
吉田山よしだやま松尾まつお? ――元吉田山もとよしだやまにいてこのあたりへひきうつっていえもうすか」
「そうとらなかったので、とんだ無駄足むだあしをいたしましてな。いや、ありがとうぞんじました」
て」
 武蔵むさし三歩出さんぽでて、
近衛家このえけ用人ようにんつとめていた松尾まつお要人かなめいえへゆくのか」
「その松尾様まつおさまが、たった十日とおかほどわずろうて、おくなりなされました」
主人しゅじんが」
「へい」
「…………」
 ――そうか。とうめくようにいったまま、武蔵むさしはもうあるいていた。柩屋ひつぎや反対はんたいほうあるいていた。のこされた小犬こいぬが、あわててあとからころがってゆく。
「……んだか」
 くちうちでいってみた。
 しかし武蔵むさしはそれ以上いじょうなんの感傷かんしょういだかなかった。――んだか。じつに、そうおもうだけだった。自己じこすら感傷かんしょうになれないのである。いわんや、他人たにんをや。つめをともすように、生涯しょうがいいじいじ小金こがねたくわえてんでった酷薄こくはくなる叔母おば良人おっと――
 それよりは、武蔵むさしはむしろ、えとさむさにふるえた元日がんじつあさ加茂川かもがわこおったみずのほとりでいてべたもちのにおいのほういまふとおもされた。
美味うまかったな)
 とおもう。
 良人おっとにわかれてひとりでくら叔母おばおもう。
 すぐかれあしは、上加茂かみかもながれのきしっていた。かわをへだてて、満目まんもく三十六峰さんじゅうろっぽう黒々くろぐろそらからせまる。
 そのやまひとひとつが、みな武蔵むさしたいして敵意てきいしめしているようにえた。
 ――じっと、そこにつくしていることややしばらくのあと武蔵むさしは、
「ウム」
 と、ひとうなずいた。
 河原かわらむかって、どてうえからりてく。そこには、くさりのように小舟こぶねつないだ舟橋ふなばしかっていた。