223・宮本武蔵「風の巻」「明日待酒(4)(5)」


朗読「223風の巻65.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 23秒

 なにかまだはなししたそうな様子ようすであったが、おすぎがねして、朱実あけみは、
「じゃあ又八またはちさん、あとでまた」
 悄々しおしおと、った。
 ほどなく――
 ここの離屋はなれにはあかりがともる。
 夜食やしょくぜんには、あつらえたさけがつき、わしている母子おやこあいだへ、勘定書かんじょうがきぼんっている。旅籠はたご手代てだいだの、亭主ていしゅだの、かわるがわるわかれの挨拶あいさつて、
「いよいよ今夜こんやのおちだそうでございますなあ。ながいご逗留とうりゅうにも、なんのおかまいももうしあげませんで。……どうぞこれにおりなく、また京都みやこへおしのおりにはぜひとも」
「はい、はい。またお世話せわになろうもれませぬ。年暮くれから初春はるして、おもわず三月越みつきごしになりましたのう」
「なんだかこう、お名残なごしゅうございますな」
「ご亭主ていしゅ、おわかれじゃ、一盞ひとつあげましょう」
「おそれいりまする。……ところでご隠居様いんきょさま、これからお故郷元くにもとへおかえりで?」
「いえいえ、まだ故郷くにへは何日いつかえれることやら」
夜中よなかに、おちだとうかがいましたが、どうしてまたそんな時刻じこくに」
きゅうにちと大事だいじおこりましてのう。……そうじゃ、おたくに、一乗寺村いちじょうじむら割絵図わりえずがあるまいか」
一乗寺村いちじょうじむらといえば、白河しらかわからまだずんとはずれで、もう叡山えいざんちかさみしい山里やまざと。あんなところへ、夜明よあまえにおでなされても……」
 亭主ていしゅのいうこしって、又八またはちよこから、
「なんでもよいから、その一乗寺村いちじょうじむら道筋みちすじを、巻紙まきがみはしにでもいておいておくれ」
承知しょうちいたしました。ちょうど一乗寺村いちじょうじむらからている雇人やといにんがおりますゆえ、それにいてわかりよく絵図えずにしてまいりましょう。したが、一乗寺村いちじょうじむらというてもひろうござりまするが」
 又八またはちすこっていた。やたらに鄭重ていちょう亭主ていしゅはなしがうるさそうに、
さきのことなんざ心配しんぱいしなくともいい。道順みちじゅんだけいているのだ」
「おそれりました。――では、悠々ゆるゆる、お支度したくあそばして」
 揉手もみでしながら、亭主ていしゅふち退さがりかけた。
 ばたばたと、母屋おもやから離屋はなれまわりを、そのとき、旅籠はたご雇人やといにんたちがさん四名駈よめいかけていた。亭主ていしゅのすがたをここにると、一人ひとり番頭ばんとうが、あわてていった。
旦那だんな、このへんげてませんでしたか」
「なんじゃ。……なにが?」
「あの――このあいだからおく一人ひとりとまっていたむすめで」
「えっ、げたって」
夕方ゆうがたまでは、たしかに、姿すがたえたんですが……どうも部屋へや様子ようすが」
「いないのか」
「へい」
阿呆あほうどもが」
 んだように亭主ていしゅかおかわった。きゃく部屋へや閾際しきいぎわ揉手もみでをしているときとは別人べつじんのように口汚くちぎたなく、
げられてからさわいだとて、あとまつりじゃ。――あのむすめ様子ようすといい、初手しょてから事情わけのあるのはれきっている。――それを七日なのか八日ようかめてから、おまえらははじめて一文いちもんなしとがついたのであろが。――そんなことで、宿屋商売やどやしょうばいってゆかれるか」
相済あいすみません。つい、処女おぼこむすめおもって――まったく一杯食いっぱいくってしまったんで」
帳場ちょうばえや、旅籠代はたごだいたおれは仕方しかたがないが、なにか、相宿あいやどのお客様きゃくさまものでも紛失ふんしつしていないか、それをさき調しらべてなさい。エエ忌々いまいましいやつめ」
 舌打したうちして、亭主ていしゅ戸外そとやみへ、いろをいだ。

 夜半よなかちながら、母子おやこはなんべんか銚子ちょうしえた。
 おすぎは、自分じぶんだけさきに、飯茶碗めしちゃわんをとって、
又八またはち、おぬしも、もうさけはよくはないか」
「これだけ」
 と、手酌てじゃくいで――
めしはたくさんだ」
湯漬ゆづけでもべておかぬと、からだにわるいぞよ」
 まえはたけや、路地口ろじぐちを、雇人やといにん提燈ちょうちんがしきりと出入でいりしていた。おすぎはそこからて、
「まだつかまらぬとみえる」
 と、つぶやいた。そして、
かかいになってはつまらぬゆえ、亭主ていしゅまえではだまっていたが、旅籠代はたごだいはらわずにげたむすめというのは、昼間ひるまれと窓口まどぐちはなしていたあの朱実あけみじゃないのか」
「そうかもしれねえ」
「おこうそだてられた養女むすめでは、ろくものであろうはずはないが、あのようなものと出会であうても、このくちなどわしなさるなよ」
「……だがあのおんなも、かんがえれば、可哀かわいそうなものさ」
他人ひと不愍ふびんをかけるもよいが、旅籠代はたごだいしりぬぐいなどさせられてはたまらぬ。ここをつまで、らぬかおしていやい」
「…………」
 又八またはちは、べつなことをかんがしているらしく、かみをつかみながら、よこになって、
忌々いまいましい阿女あまだなあ。おもすと、彼女あいつつら天井てんじょうえてくる。……おれをあやまらした生涯しょうがいかたきは、武蔵むさしでもねえ、おつうでもねえ、あのおこうだ」
 おすぎとがめて、
「なにをいうぞ。おこうなどというおんなったところで、故郷くにしゅうが、めもせぬし、家名かめい面目めんぼくちはせぬがな」
「……ああ、なか面倒めんどうくさくなった」
 旅籠はたご亭主ていしゅが、そのとき縁先えんさきから提燈ちょうちんかおせていった。
「ご隠居いんきょさま。ちょうどうしこくりましたが」
「どれ……ちましょうか」
「もうかけるのか」
 又八またはちは、びをして、
亭主ていしゅ、さっきのむすめは、つかまったかい」
「いや、あれりでございますよ。縹緻きりょうめるので、万一まんいち旅籠代はたごだいえがれなくても、ませるくちはあると安心あんしんしていたところ、先手せんてたれてしまいましたわい」
 縁先えんさきて、草鞋わらじをしめながら、又八またはち振返ふりかえった。
「オイ、おふくろ、なにをしているんだい? ……。おれをきたてておいては何日いつ自分じぶんがまごまごしていやがる」
「まあたぬかい、気忙きぜわしない。……のう又八またはち、あれはあずけたであろうか」
「なにを」
「この旅包たびづつみのそばへおいたわしの巾着きんちゃくじゃ。――宿やどはらいは、胴巻どうまきのおかねはらい、当座とうざ路銀ろぎんをその巾着きんちゃくれておいたのじゃが」
「そんなもの、おれはらねえよ」
「ヤ、又八またはちてみやい。この旅包たびづつみに、又八様またはちさまとして、なにやらかみきれがいつけてあるぞ。……なんじゃと? ……まアいけ図々ずうずうしやな、もと御縁ごえんめんじて、拝借はいしゃくしてゆくつみをゆるしてくれといてあるわ」
「ふウん……じゃあ朱実あけみさらってったのだろう」
ぬすんで、つみをゆるしてくれもないものじゃ。……これ御亭主ごていしゅきゃく盗難とうなんは、宿主やどぬしめをわずばなりますまい。なんとしてくださるのじゃ」
「へえ……それではご隠居様いんきょさまには、あのむすめを、まえからごぞんじでございましたので。――ならば、手前てまえどもでたおされた勘定かんじょうえのほうをさきに、なんとかしていただきたいものでございますが」
 亭主ていしゅがいうと、おすぎは、白黒しろくろしながら、あわててかおよこった。
「な、なにをっしゃる、あんなぬすむすめはない。ささ、又八またはち、まごまごしているとにわとりきだすぞ、ましょうわい、ましょうわい」