222・宮本武蔵「風の巻」「明日待酒(2)(3)」


朗読「222風の巻64.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 31秒

 年寄としよりのというものはひどく勝手かってである。悠々閑ゆうゆうかんと、いままで昼寝ひるねしていた自分じぶんのことはたなへあげ、
又八またはちはやうせんか」
 と、ひとちつきに、まゆをしかめて、あたってる。
 又八またはちは、身支度みじたくもせず、として、
「なんだいあわてて、のきでもついたように、――第一だいいち吉岡道場よしおかどうじょうって、いったいどうするつもりなのだ、おふくろの量見りょうけんは」
れたこと、母子おやこして、おねがいしてみるのじゃわ」
「なにを……」
明日あす夜明よあけ、吉岡よしおか門弟衆もんていしゅう武蔵むさしつというたであろが、そのはたいの人数にんずうのうちへ、わしら母子おやこくわえていただき、およばずながらちからあわせて、武蔵むさしめに、一太刀ひとたちなりと、うらまにゃならぬ」
「アハハハ、アハハハ、……冗談じょうだんじゃねえぞ、おふくろ」
「なにをわらうぞ」
「あまり暢気のんきなことをいってるからよ」
「それは、れのことじゃ」
「おれが暢気のんきか、おふくろが暢気のんきか、まアまちて、世間せけんうわさをちっといてるがいい。――吉岡方よしおかがたは、さき清十郎せいじゅうろうやぶられ、伝七郎でんしちろうたれ、今度こんどという今度こんどこそは、最後さいごとむら合戦がっせんだ。やぶれかぶれも手伝てつだって、あがった連中れんちゅうばかりが、もう滅亡めつぼうしたも同様どうよう四条道場しじょうどうじょうくびをあつめ、このうえは、多少たしょう外聞がいぶんにかかわろうとも、なんでも武蔵むさしころしてしまえ、師匠ししょうかたき弟子でしぶんには、あえて、尋常じんじょう手段しゅだん作法さほうにこだわっている必要ひつようはない――と公然こうぜん今度こんどこそは大勢おおぜいしても武蔵むさしつと、言明げんめいしているのだ」
「ホウ……そうか」
 くだけでもみみたのしむように、おすぎをほそめて、
「それでは、いかな武蔵むさしめも、こんどはなぶりりにうじゃろう」
「いや、そこはどうなるかわからない。多分たぶん武蔵むさしほうでも、助太刀すけだちりあつめ、吉岡方よしおかがた大勢おおぜいいならば、かれ多勢たぜいむかえるだろうし、さてそうなれば喧嘩けんか本物ほんものいくさのようなさわぎになるのじゃないかときょうの京都みやこは、そのうわさちきりなのだ。――そんな騒動そうどうなかへ、ヨボヨボなおふくろが助太刀すけだちにまいりましたなどとってたところで、だれ相手あいてにするものか」
「ウーム……それやそうじゃろが、じゃといって、わしら母子おやこが、これまでねらうてきた武蔵むさしが、他人たにんたれるのを、だまってていてよいものか」
「だから、おれはこうおもうんだ。あしたの夜明よあけごろまでに一乗寺村いちじょうじむらまでっていれば、はたいのある場所ばしょも、その様子ようすもきっとわかる。――そこで、武蔵むさし吉岡よしおかものたれたら、そのって、母子おやこして両手りょうてをつき、武蔵むさしとおれたちのいきさつをくわしくべて、死骸しがい一太刀恨ひとたちうらませてもらう。そのうえ武蔵むさしかみなり、片袖かたそでなりをもらって、かくのとおり、武蔵むさしったと故郷ふるさとしゅうはなせば、それでおれたちかおつじゃねえか」
「なるほど……。れのかんがえも智慧ちえらしいが、そうするよりほかはあるまいの」
 すわなおしておすぎはまた、
「そうじゃ、それでも故郷くにへの面目めんぼくつわけじゃ。……あとはおつうひとり、武蔵むさしさえければ、おつうからちたさる同様どうようつけ次第しだい成敗せいばいするに手間暇てまひまはかからぬ」
 ひとごとに、うなずいて、やっと年寄としよりのも、そこでちつくところにちついたらしい。
 又八またはちは、めたさけおもしたように、
「さあ、そうきめたら、今夜こんや丑満うしみつごろまでは、ゆっくりほねやすめておかなけれやならねえ。……おふくろ、すこはやいが、晩飯ばんめし一本いっぽんを、いまからけてもらおうか」
さけか。……ム、帳場ちょうばへいうてやい。前祝まえいわいに、わしもすこもうほどに」
「どれ……」
 と、億劫おっくうそうに、ひざにかけてちかけたとおもうと、又八またはちは、なにをたのか、あっとよこ小窓こまどおおきなをみはった。

 ちらと、しろかおまどそとえたのであった。又八またはちがびっくりしたのは、たんにそれがわかおんなであったというだけではない。
「やっ、朱実あけみじゃねえか」
 かれまどけよった。
 げそびれた小猫こねこのように、朱実あけみ木蔭こかげすくんでいた。
「……まあ又八またはちさんだったの」
 彼女かのじょもびっくりしたようなをそこにみはって。
 そして、伊吹山いぶきやまのころからいまもまだ、おびたもとか、どこかにけているらしいすずが、ふるえるように彼女かのじょ身動みうごきとともにった。
「どうしたのだ、こんなところへ、どうして不意ふいたのか」
「……でも、わたしここの旅籠はたごに、もうずっとまえからとまっていたんですもの」
「ふウム……、そいつあちっともらなかった。じゃあ、おこう一緒いっしょにか」
「いいえ」
一人ひとりで?」
「ええ」
「おこうとはもう一緒いっしょにいないのか」

祇園ぎおん藤次とうじっているでしょう」
「ウム」
藤次とうじとふたりで、去年きょねんくれ世帯せたいをたたんで他国たこく逐電ちくてんしてしまったんです。わたしはそのまえからお養母っかさんとはわかれて……」
 すずおとがかすかにふるえてる。ればたもとかおてて、朱実あけみはいつのにかいているのだった。木蔭こかげ光線こうせんあおいせいか、それのえりあしといいほそといい、又八またはち記憶きおくにある朱実あけみとはひどくちがってたようにおもわれる。伊吹山いぶきやまいえや、よもぎのりょうで、朝夕見あさゆうみていたような処女おとめつやはどこにもない。
「――だれじゃあ? 又八またはち
 と、うしろでおすぎがいぶかってたずねた。
 又八またはち振顧ふりかえって、
「おふくろにも、いつかはなしたことがあるだろう。あの……おこう養女むすめさ」
「その養女むすめが、なんでわしらのはなしまどそときなどしていたのじゃ」
「なにもそうわるらなくてもいいやな。この旅籠はたごとまあわせていたのだから、何気なにげなくってみたまでのことだろう。……なあ朱実あけみ
「え、そうなんです。まさか、ここに又八またはちさんがいようなんて、ゆめにもあたしらなかった。……ただ、いつぞや、ここへはぐれてときに、おつうというひとかけたけれど」
「おつうはもういない。おめえ、おつうとなにかはなしたのか」
「なにもふかはなしはしなかったけれど、あとおもしました。――あのひとが、又八またはちさんをお故郷くにっていた許嫁いいなずけのおつうさんなのでしょう」
「……ム、まあ、以前いぜんは、そんなわけでもあったんだが」
又八またはちさんもお養母っかさんのために……」
「おめえはそのあと、まだ、ひとかい。だいぶ様子ようすかわったが」
「わたしも、あのお養母っかさんのためには、ずいぶんつらおもいをしのんでました。それでもそだててもらった恩義おんぎがあるので、じっと辛抱しんぼうしてたんですけれど、去年きょねんくれ我慢がまんのならないことがあって、住吉すみよしあそびにった出先でさきから、ひとりでげてしまったんですの」
「あのおこうには、おれもおめえも、これからというわかばなを滅茶滅茶めちゃめちゃにされたようなものだ……。畜生ちくしょうめ、そのかわりにゃあいまに、ろくにざまはしやしねえからているがいい」
「……でも、これからさき、あたしどうしたらいいのかしら?」
「おれだって、これからさきみちくらだ……。あいつにいった意地いじもあるから、どうかして、見返みかえしてやりてえとおもっているが……。あアあ……おもうばかりで」
 窓越まどごしに、おな運命うんめいかこっていると、おすぎはさっきから一人ひとり旅包たびづつみをこしらえていたが、したうちして、
又八またはち又八またはちようでもない人間にんげんと、なにをぶつぶついうているのじゃ。こよいかぎりでこの旅籠はたごつのじゃないか、すこ手伝てつだうて身仕舞みじまいでもしておかぬか」