朗読「221風の巻63.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 04秒
十一
大声あげて、城太郎は叫ぼうとしたが、叫んでも無駄なことが分っているので、彼は、わっと泣きながら、築地に顔を押し当てた。
「…………」
いいことと信じてやった幼い一心が、大人の思慮によって覆されると、それに服従はしても、理窟は分っても、口惜しくて口惜しくてたまらないらしいのである。
泣くだけ泣いて、声がつぶれると、肩で波打ちながら、まだしゃくりあげていた。
――と。
館のお下婢の女でもあろうか、今、どこからともなく戻って来て、下部門の外に佇んだ人影がある。ふと、暗がりの嗚咽が耳にふれたのであろう、被衣のひさしを向けて、弱々と近づいて来ながら――
「……城太さん?」
疑うように呼んだ。
「……城太さんじゃないの?」
ふた声目に、城太郎は、ぎょっとしたような顔を向け、
「あっ、お通さん?」
「まあ、なにを泣いているんです――そんなところで」
「お通さんこそ、病人のくせに、どうして外へなんか」
「どうしてって、おまえくらい人を心配させる者はない。わたしにも、お館の人へも、なにもいわずに、いったい、今までどこを歩いていたんです……。灯りが点いても帰って来ないし、御門が閉まっても姿が見えないし、どんなに心配したか知れません」
「じゃあ、おいらを捜しに出ていたの」
「もしやなにか、間違いでもあったのではないかと、寝ているにも寝ていられなくなって」
「ばかだなあ、病人のくせに。またこの後、熱が出たらどうするんだい。さあ、はやく寝床へ引っ込みなよ」
「それよりなんでお前は泣いていたの」
「後でいうよ」
「いいえ、凡事ではないらしい。さ、事情をお話し」
「寝てから話すからさ、お通さんこそ、はやく寝てくれよ。明日また、うんうん唸っても、おいら知らないぜ」
「じゃあ、部屋へはいって寝ますから、ちょいとだけ話しておくれ。……おまえ沢庵様の後を追いかけて行ったのでしょう」
「ああ……」
「その沢庵様から、武蔵様のいらっしゃる所をきいておいた?」
「あんな情け知らずの坊さんは、おいら嫌いだ」
「じゃあ、武蔵様の居所は、とうとう分らずじまいですか」
「ううん」
「分ったの」
「そんなこといいから、寝ようよ、寝ようよ。――後で話すからさ!」
「なぜ、わたしに隠すんですか。そんな意地悪をするなら、わたしは寝ずにここにいるからいい」
「……ちぇッ」
城太郎は、もいちど泣き直したいように、眉を顰めながら、お通の手を引っ張って、
「――この病人も、あのお師匠様も、どうしてそう、おいらを困らすんだろうなあ。……お通さんの頭にまた、冷たい手拭を当ててからでないと話せないことなんだよ。さ、おはいりよ! はいらなければ、おいらが担いで行って寝床の中へ押しこむよ」
片手にお通の手をつかみ、片手で下部門の戸をどんどん叩きながら、癇癪まぎれに、城太郎は呶鳴った。
「門番さん! 門番さん! 病人が寝床から外へ抜け出しているじゃないか。――開けとくれよ。はやく開けないと病人が冷えちまうよ!」
明日待酒
一
額に汗をにじませ、酒も少し手伝っているらしい顔色をして、本位田又八は、五条から三年坂へ傍見もせず駈けて来た。
例の旅籠屋である。石ころの多い坂の途中から、汚い長屋門の下を駈けぬけ、畑の奥の離屋まで来ると、
「おふくろ」
と、部屋のうちを覗き、
「――なあんだ、また昼寝か」
と舌打ちして呟いた。
井戸端で一息つき、ついでに手足も洗って上がって来たが、老母はまだ眼もさまさず、どこが鼻か唇かわからないほど、手枕に顔を押し潰して鼾をかいているので、
「……てえっ、まるで泥棒猫みたいに、暇さえあると、寝てばかりいやがる」
よく眠っていると思っていた老母は、その声にうす目をあいて、
「なんじゃあ?」
と起き上がってきた。
「おや、知ってたのか」
「親をつかまえて、なにをいうぞ。こうして、寝て置くのがわしの養生じゃ」
「養生はいいが、おれが少し落着いていると、若いくせに元気がないの、やれその暇に手懸りを探って来いのと、びしびし叱りつけながら、自分だけ昼寝しているのはなんぼ親でも勝手すぎようぜ」
「まあゆるせ、ずいぶん気だけは達者なつもりでも、体は年に勝てぬとみえる。――それにいつぞやの夜、おぬしと二人して、お通を討ち損ねてから、ひどう落胆してのう、あの晩、沢庵坊めにおさえられたこの腕の根が、いまだに痛んでならぬのじゃ」
「おれが元気になるかと思えば、おふくろが弱音を吐くし、おふくろが強くなるかと思えば、おれの根気がはぐれてしまうし、これじゃあ、いたちごッこだ」
「なんの、今日はわしも骨休めに一日寝ていたが、まだおぬしに弱音を聞かせるほど、年は老らぬ。――して又八、なんぞ世間で、お通の行き先とか、武蔵の様子とか、耳よりな話は聞かなんだか」
「いやもう、聞くまいとしても、えらい噂だぞ。知らないのは、昼寝しているおふくろぐらいなものだろう」
「やっ、えらい噂とは」
お杉は膝をつき寄せて来て、
「なんじゃ? 又八」
「武蔵がまた、吉岡方と、三度目の試合をするというのだ」
「ほ、どこで何日」
「遊廓の総門前にその高札が建ててあったが、場所はただ一乗寺村とだけで、詳しくは書いてない。――日は明日の夜明け方となっていた」
「……又八」
「なんだい」
「汝れは、その高札を、遊廓の総門のわきで見たのか」
「ウム、大変な人だかりさ」
「さては昼間から、そのような場所で、のめのめと遊んでいたのじゃろうが」
「と、とんでもねえ」
慌てて手を振りながら、
「それどころか、稀に酒ぐらい少し飲むが、おれは生れ代ったように、あれ以来、武蔵とお通の消息を探り歩いているじゃねえか。そうおふくろに邪推されちゃ情けなくなる」
ふとお杉は、不愍を増して、
「又八、機嫌なおせ、今のは、ばばの冗談じゃ。汝れの心が定まって、元のような極道もせぬことは、ようこの老母も見ているわいの。――したがさて、武蔵と吉岡の衆との果し合いが明日の夜明けとは急なことじゃな」
「寅の下刻というから、夜明けもまだ薄暗いうちだなあ」
「おぬし、吉岡の門人衆のうちに、知っている者があるといったの」
「ないこともないが……そうかといって、あまりいいことで知られているわけでもねえからなあ、なにか、用かい」
「わしを伴れて、その吉岡の四条道場とやらへ案内してほしい。――直ぐにじゃ、汝れも支度したがよい」